立会人
三国見へ戻ったのは、それから半月後だった。
宿の戸を開けると、土間が空いていた。
昼過ぎだった。昼過ぎに客がいないのは、この宿では珍しくない。それでも、いつもより空いていた。
空いているのは、季節のせいではなかった。
土間の隅の石の台に、置いたものが増えていた。半月前は何もなかった。いまは、銅の粒がいくつかと、折った紙切れが載っている。
置く者が増えたというのは、願う者が増えたということだった。
願う者が増えるのは、たいてい、先が見えないときだった。
オルサは、奥の卓に座っていた。
一人だった。前に、何か置いてあった。
紙だった。
「戻った」と彼女が言った。
「戻りました」
「エオリンは、どうだった」
「決める人がいませんでした」
彼女は、うなずいた。
「そう聞いとる」
「知ってたんですか」
「売った」と彼女は言った。「あの土地に代表がおらんという話は、去年のうちに売った」
「誰にですか」
「全部にだ」
「じゃあ、みんな知ってるんですね」
「知っとる」
彼女は、卓の上を見ていた。
「知っとって、そのままにしてある。署名する者がおらん土地は、署名がないままになる。署名がなければ、守らんでいい」
わたしは、卓の向かいに座った。座ってから、紙のほうを見た。
分厚い紙だった。折り目が二つついている。上のほうに、押した印があった。赤い蝋で、そこに模様が入っている。
「それは、なんですか」
「証文だ」
「なんの」
「わしを買う証文だ」
わたしは、その紙をもう一度見た。
人を買う紙が、こんなに薄いとは思っていなかった。
島では、捕虜は右か左に分けられた。分けたあと、紙は一枚も出なかった。売るときも、たぶん紙は出ない。数えて、渡して、それで終わる。
ここでは、紙が出る。紙が出るほうが、上等な売られ方らしかった。
わたしは、彼女を見た。
「買われたんですか」
「買われた」
「誰にですか」
「ロヴァニスだ」
彼女は、紙を指で押さえた。
「条約更新会議に、立会人として同席しろということだった」
わたしは、その言葉を聞いた。
「立会人って、なにをするんですか」
「座っとるだけだ」と彼女は言った。「証言官の古い職だ。会議の場に第三者を一人置いて、あとで揉めたときに、そこで何が言われたかを証言させる」
「じゃあ、記録者と同じですね」
「同じだ」
「オルサさんが行くと、どうなるんですか」
「みんなが嘘をついておるのが分かる」
わたしは、その言葉を受け取った。
「全員ですか」
「全員だ」
「まだ会議は始まってませんよね」
「始まっとらん」
「じゃあ、なんで分かるんですか」
オルサは、こちらを見た。
「三十年やっとる」と彼女は言った。「あの席に、本当のことを言いに来る者はおらん」
彼女は、証文の折り目を指でなぞった。
「わしが要るということが、その証拠だ」
「言うんですか」
「言わん」
「なんでですか」
「十九年、一度も言わんかった」と彼女は言った。「いまさら言うと、そこで能力がばれる」
「じゃあ、なんで買われたんですか」
オルサは、そこで初めてこちらを見た。
「ばれとるからだ」
わたしは、動けなかった。
「あちらは、知っておる」と彼女は言った。「知っておって、金で買った。買って、座らせる」
「言わせないのに、座らせるんですか」
「座っとるだけでいい」と彼女は言った。「わしが座っておれば、相手は嘘をつきにくくなる。つきにくくなるだけで、こちらは得をする」
わたしは、その仕組みを頭の中で並べた。
嘘を見抜く者を、見抜かせないまま座らせる。相手はそれを知っていて、知っているから慎重になる。慎重になったぶんだけ、買った側が得をする。
能力そのものは、一度も使われない。
使わないものを買うのに、金を払う。
払うのは、相手にそれを知らせるためだった。座らせるだけでいい。座っていることが相手に効く。
わたしは、島の刻印のことを考えていた。何もしない刻みでも、腕にあることが票になった。使わなくても、体は減った。
同じ形だった。
「使わなくても、耳は」
「進む」
彼女は、右の耳に手をやった。
「使わんでも、進む。使えば、速く進む」
わたしは、メレの手を思い出していた。一度も使っていない手だった。手のひらまで石になっていた。
「わたしも、そうです」
オルサは、こちらを見た。
わたしは、袖をまくった。
腕の内側に、線が三つあった。線の周りが白く盛り上がって、肘の近くまで広がっている。
彼女は、それを見た。
見て、何も言わなかった。
「一つは隠すやつです。一つは上げるやつです。もう一つは、何もしません」
「何もせんのを、なぜ刻んだ」
「数を入れました」
彼女の手が、耳から下りた。
「書いたのか」
「書きました」
「体にか」
「はい」
オルサは、しばらく黙っていた。
それから、卓の上の証文を、こちらへ少し押した。
「立会人には、供の者を一人つけられる」と彼女は言った。「わしは耳が悪い。片方は聞こえん。もう片方も高いところが落ちとる」
わたしは、その紙を見た。
「聞こえんところを、誰かに聞かせねばならん」
彼女は、そう言った。
「読み書きのできる者がいい、と書いてやった」
わたしは、その紙から目を上げた。
「わたしのことを、書いたんですか」
「名は書いておらん」
「なんて書いたんですか」
「聞こえんところを聞かせる者を、一人連れていく、と書いた」と彼女は言った。「あちらは、誰でもいいと返してきた」
彼女は、証文を折り直した。
「誰でもいい者が、いちばん通る」




