歌う霧
エオリンへは、三国見から西へ十日だった。
行くと言ったとき、オルサは止めなかった。止めない代わりに、一つだけ言った。
「霧が出たら、動くな」
「霧ですか」
「あそこの霧は、晴れん」と彼女は言った。「何日も晴れん。晴れんうちに歩くと、向きが分からんようになる。向きが分からんと、時刻も分からんようになる」
「時刻もですか」
「そういう霧だ」
「オルサさんは、行ったことがあるんですか」
「ある」
「証言官のときですか」
「そうだ」と彼女は言った。「導石の契約でもめて、立ち会いに行った。行って、何も判定できんかった」
「なんでですか」
「通訳を通したからだ」
彼女は、右の耳のほうへ手をやりかけて、やめた。
「わしに分かるのは、共通語とアルディエル語だけだ。喋っとる者の母語でないと、精度が落ちる。通訳を挟んだら、何も分からん」
「じゃあ」
「座っとっただけだ」
十日目に、森へ入った。
森というものを、わたしはそれまで知らなかった。北の谷の木は、間隔を空けて立っていた。伐ったぶんだけ植えるので、林は同じ形のまま残る。あれは、人が並べたものだった。
ここは、並んでいなかった。
木と木のあいだに、また木があった。その下に低い木があり、その下に草があり、その下に苔があった。上を見ると、葉が重なって、空が見えるところがほとんどなかった。
灰海では、空が全部見えた。見えるのに、日の位置が分からなかった。
ここでは、空が見えない。見えないので、日の位置は分かりようがない。
どちらも、時刻の分からない土地だった。片方は何もないから分からず、もう片方は多すぎて分からなかった。
音が多かった。
鳥と、虫と、水と、葉。灰海では音が吸われた。ここでは、音が返って、重なって、どこから来ているのか分からなかった。
三日目に、霧が出た。
朝、目が覚めたときには、すでに出ていた。
出ていた、というより、そこにあった。動いていなかった。風がないのではない。風はあった。木の葉が動いていた。動いているのに、霧は動かなかった。
そのことに気づくまでに、少しかかった。
風が吹けば、霧は流れる。流れれば、薄いところと濃いところができる。灰海で焚火の煙を見たとき、煙はまっすぐ上がった。風がなかったからだった。
ここには風がある。あるのに、霧が動かない。
動かないものが、そこにあり続けていた。
わたしは、その場に座った。
オルサの言ったとおりにした。動かなかった。
動かないでいるのは、思っていたよりつらかった。
寒くはなかった。この森は暖かい。水も、葉から落ちるものを集めれば足りた。食べ物は三日ぶん持っていた。
つらいのは、体ではなかった。
じっとしていると、腹の底が焼けはじめた。メレの言ったやつだった。手を動かせば静かになる。動かすなと言われている場所で、手を動かすわけにいかなかった。
わたしは、指だけを動かした。膝の上で、編むふりをした。
一日目は、明るさで昼と夜が分かった。
二日目から、分からなくなった。
明るいのか暗いのかが、途中から曖昧になった。目を閉じても開けても、見えるものが同じくらいになった。眠ったのかどうかも、分からなくなった。
わたしは、数えた。
それしか、やることがなかった。
北の谷の柱を十九本。島の四十年。トルヴェクの二百三十六と百九十五と四十一と十一。灰海の杭、四列。
一通り数えて、また最初から数えた。
何度目かで、落とした。
落ちたことに、すぐには気づかなかった。
数え終わって、また最初から数えて、二度目のときに合わなくなった。合わないので、三度目を数えた。三度目でも合わなかった。
二度目と三度目が同じ数だったので、間違えたのは一度目のほうかと思った。
思ってから、逆かもしれないと気づいた。
どちらが正しいかを決める方法が、なかった。
島の四十年の、二十六年目と二十七年目のあいだが、抜けた。
わたしは、そこで止まった。
止まって、前後から埋めようとした。埋められた。前の年と後の年から、なだらかに繋げば、それらしい数が出る。
出した。
出してから、手が震えた。
老人が、同じことをした。前の記録者が言い終わる前に死んで、三年ぶんが抜けた。前と後ろから、それらしくなるように挟んだ。空けておくよりましだ、と言った。
わたしは、いま同じことをした。
同じことをして、しかも、それが本当の数かどうかを確かめる相手がいなかった。老人は死んでいる。島は海の向こうにある。
わたしは、その埋めた数を、別のところへ置いた。
頭の中の棚の、脇に作った棚だった。老人が入れた三年ぶんを、そこへ入れてあった。その隣に、自分が入れた二年ぶんを置いた。
置いてから、また最初から数えた。
置いたものが、脇の棚で二つになった。
老人の三年ぶんと、わたしの二年ぶん。どちらも、それらしく挟んだ数だった。
わたしのほうは、自分で入れたと分かっている。老人のほうも、あの人が入れたと聞いている。
聞いていることを、次に渡すときに、一緒に渡さなければならなかった。
渡す相手が、いなかった。
霧が晴れたのは、四日目か五日目だった。
どちらか分からなかった。
晴れたときに、わたしは自分の座っていた場所を見た。
草が、少し倒れていた。倒れ方が、一方向だった。それだけの間、動かないでいたということだった。
立ち上がると、脚が痺れた。
痺れが取れるまで、その場に座り直した。座り直したところで、また数えた。




