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『百二十一人目』 ~魔力を持って生まれた子〜  作者: 音


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過去形で話す女

その晩、わたしは卓のいちばん端に座って、飯を食べた。

麦の粥だった。トルヴェクのものより濃かった。この土地は畑がないのに、粥が濃い。通る者が多いので、物が集まるのだった。

粥に、豆が入っていた。

灰縁の村では、豆を見なかった。北の谷でも、島でも見なかった。トルヴェクの坑夫小屋の粥には、何も入っていなかった。

豆が入っている粥を食べたのは、生まれた家を出てから初めてだった。

うちの母は、粥に豆を入れた。

まわりの卓では、いろいろな言葉が飛んでいた。

共通語が多かった。ときどきアルディエルの言葉が混じった。北の言葉も聞こえた。島の言葉を話す者は、いなかった。

わたしは、聞くとはなしに聞いていた。

三年間、言葉の分からない場所で暮らしていたので、聞き取れる言葉があると、勝手に耳が拾った。拾わないでおくということが、できなくなっていた。

聞こえるものを勝手に数えてしまうのも、同じだった。

卓がいくつあるか。座っている者が何人か。そのうち何人が武器を持っているか。戸がいくつあって、そのうち閂のかかるものがどれか。

数えても、何にもならなかった。それでも数えた。

三年前、灰縁の村へ来たころのわたしは、そういうことをしていなかった。どこで身についたのかを思い出そうとして、思い出せなかった。

そして、女主人の話し方に気がついた。

彼女は、卓のあいだを回って、椀を下げたり、酒を運んだりしていた。運びながら、客と短く話す。

その話し方が、全部、過去形だった。

「あんたは、まだ食べる、と言った」

「あんたたちは、明日出る、と言った」

「その酒は、もう頼んだ、と言った」

「その男は、金を払う、と言った」

言い方が全部同じだった。相手が何を言っても、それを、そう言った、で受ける。

受けたあと、彼女は動く。酒を運ぶし、椀も下げる。だから、聞いていないわけではなかった。聞いて、その上でそういう言い方をしていた。

いま起きていることを、そう言った、と言う。目の前の客に向かって、その客がいま言ったことを、済んだことのように言い直す。

はじめは、この土地の言い回しかと思った。

まわりの者は、そう喋っていなかった。

わたしは、その数を数えた。

彼女が卓を回るあいだ、過去形でないものが一度でも出るかどうかを数えた。

一度も出なかった。

一度も出ないというのは、癖ではなかった。

癖なら、ときどき抜ける。疲れたときや、急いだときに、素の言い方が出る。この人は、皿を三枚いっぺんに運びながらでも過去形だった。

癖ではなく、決まりだった。

決まりを三十年やった者の体がどうなるかを、わたしは北の谷と島で見ていた。

粥を食べ終わって、椀を下げに来たときに、わたしは訊いた。

「なんで、全部そう言うんですか」

女の手が、止まった。

止まったのは、椀を持ち上げる途中だった。持ち上げきらないで、そのままわたしを見た。

「何をだ」

「そう言った、って言い方です」

彼女は、椀を持ち上げた。

「気づいた者は、久しぶりだった」

それも、過去形だった。

「三十年やっとる」と彼女は言った。「三十年やると、話し方になる」

「なんの三十年ですか」

彼女は答えないで、椀を持って奥へ入った。

その晩、板の間で寝た。

寝る前に、腕の内側を見た。

線が三つ。周りが白い。宿の明かりの下で見ると、村や船で見るより、はっきり見えた。明るいところで自分の腕を見たのは、久しぶりだった。

肘まで来ていた。

三年前は、指先だけだった。

寝ながら、卓のほうの声を聞いていた。宿は遅くまで開いていた。酒が入ると、声が大きくなる。大きくなった声は、はっきり聞こえた。

聞こえてくる話が、妙だった。

みんな、よく喋っていた。喋りすぎていた。

初めて会ったらしい相手に、金の話をしている者がいた。どこそこの隊がいつ通るかを言っている者がいた。誰それがどこで何を積んだかを言っている者がいた。

そういうことは、普通は言わない。

灰縁の村では、名も訊かなかった。島では、行き先は率いる者しか決めなかった。ロヴァニスでは、うるさいところでしか話さなかった。

ここでは、静かなところで、全部喋っていた。

喋る理由が、あるはずだった。

酒のせいだと思った。思ってから、酒はどこにでもあると気がついた。島にも、峡にもあった。あそこで、こんなに喋る者はいなかった。

酒ではなかった。

宿のせいだった。

わたしは、板の間で目を開けたまま、それを聞いていた。

翌朝、女主人が土間を掃いていた。

「もう一晩、泊まります」

「そうか」

「あの」

「なんだ」

「この宿は、みんなよく喋りますね」

彼女は、掃く手を止めなかった。

「そう言われた」

「なんでですか」

「知らん」

「知らないんですか」

「知らんと言った」

わたしは、その言い方をもう一度聞いた。

知らんと言った、というのは、いま自分が言ったことを指していた。

自分の言葉まで、過去形にしていた。

わたしは、その日、外へ出なかった。

土間の隅に座って、彼女の言い方を数えた。数えるところが、少しずつ細かくなった。

誰に対して過去形を使い、誰に対して使わないかを分けようとした。分けられなかった。全員に使っていた。

分けられないなら、別のところを見るしかなかった。

わたしは、耳を見ることにした。

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