二百五十年
夜が明けるまで、わたしはそこにいた。
明るくなってから、村へ戻った。
小屋へ行くと、メレは起きていた。起きているというより、目が開いていた。
わたしは、そばに座った。
「分かりました」
「なにがだ」
「持っていかれたものが、なにかです」
彼女は、こちらを見なかった。目は開いているのに、こちらを見ていなかった。
「言ってみろ」
わたしは、言った。
言うのに、思っていたより時間がかかった。順に並べないと言えなかった。四つの数と、四十のないものと、体の中の道と、指の白さ。
言い終わって、しばらく黙っていた。
言うあいだ、メレは一度も遮らなかった。
遮らないのは、分かったからではないと思う。分からないまま、最後まで聞いた。
三年前、この人はわたしの話をこうやって聞いた。名を言うなと止めたことは何度もあったが、話しはじめたものを途中で切ったことは一度もなかった。
メレは、何も言わなかった。
「メレ」
「聞いとる」
「合ってますか」
「知らんよ」と彼女は言った。「わしは、そこまで考えたことがない」
「考えなかったんですか」
「考えても、何も変わらん」
「変わらないと、やらないんですか」
「やらん」
「じゃあ、なんで四十年、盆に手を入れなかったんですか」
「それは、変わるからだ」
彼女は、そう言った。
「手を入れれば死ぬ。入れなければ死なん。それは変わる」
わたしは、その線の引き方を聞いた。
変わることだけをやる。変わらないことはやらない。
この人は、四十年その線で生きていた。
彼女は、少し咳をした。
「変わらんのに、あんたは考えたな」
「はい」
「そういう者が、ときどきおる」
わたしは、その言い方を聞いた。
「ほかにもいたんですか」
「いたんだろう」と彼女は言った。「わしは会っとらん。会っとらんが、いたはずだ」
「なんでですか」
「わしの母親が言っとった言葉が、どこから来たと思う」
わたしは、答えられなかった。
「あれを最初に言った者は、あんたと同じことを考えたんだろうよ」と彼女は言った。「考えて、それを一言に縮めた。縮めたものだけが、こっちまで来た」
「縮めたら、意味がなくなりませんか」
「なくなった」とメレは言った。「わしは意味を知らんかった。母親も知らんかった」
「じゃあ、なんで伝えたんですか」
「伝えろと言われたからだ」
彼女は、少し息を継いだ。
「意味を知らんまま伝えるのは、案外もつ。意味を知っとると、そのうち自分の言葉に直す。直したものは、次の代でまた直る」
わたしは、その言葉を受け取った。
持っていかれたあとに、残ったもの。
それが、誰かの三年ぶんの答えだった。三年か、もっとかもしれない。その人が並べた全部が、その一行になって、母から娘へ、娘からその娘へ、意味の分からないまま渡ってきた。
「その人は、誰かに言ったんですかね」
「言ったろうな」
「言って、どうなったんですか」
メレは、そこで初めてこちらを向いた。
「あんた、ここまで来る途中で、誰かに言ったか」
わたしは、答えられなかった。
言った。島の岸で、シグリに言った。石はあと五十年でなくなると。彼女は、そうか、と言った。五十年の話は自分の話ではない、と言った。
セリーナは、言えないと言った。今日死ぬ人と五十年後に死ぬ人を、同じ秤に載せられないと。
グリムは、どのくらい減ったかを知って腹がふくれるかと訊いた。
「言いました」とわたしは言った。
「どうなった」
「なにも」
「そうだろうな」
彼女は、目を閉じた。
わたしは、その手を握っていた。石の手だった。
そのとき、もう一つのことが繋がった。
トルヴェクの記録は、二百年だった。
いちばん古い坑から、順に止まっていた。二百年で百九十五。
二百五十年ほど前に、この大陸で一つのことが起きたと、わたしはトルヴェクで聞いた。ベルグが言った。石を磨けば十倍働く。その磨き方を見つけたのが、あの街の一つの家だと。
磨く前は、石は十分の一しか働かなかった。
働かないものは、使われない。使われないものは、掘られない。
磨き方が見つかってから、石は使われるようになった。魔力を持たない者でも使えるようになった。
大陸の人間のうち、体の中に道を持っているのは、十人に一人もいない。
残りの九人は、それまで使えなかった。
使えるようになった。
わたしは、その順番を並べた。
二百五十年前に、九人が使いはじめた。
二百年前から、坑が止まりはじめた。
「メレ」
彼女は、返事をしなかった。
息はしていた。間隔が長かった。
わたしは、握った手をそのままにしていた。
言う相手を、探さなければならなかった。
言ったところで、誰も救われないことは分かっていた。同じ計算をした者は、みんな黙った。口止めされたのではない。自分で計算して、自分で黙ることにした。
分かっていて、それでも探さなければならなかった。
理由は、一つだけあった。
わたしが黙れば、この計算は、また一行になる。
持っていかれたあとに、残ったもの。誰かの三年ぶんが、そう縮んで、意味の分からないまま次の誰かへ渡っていく。
そうやって、二百五十年が過ぎた。
一行にしないためには、書くしかなかった。
書いたものは取られる。なくす。燃える。濡れる。置いた場所から動かない。動かないものは、いつか誰かに見つかる。
老人はそう言った。グリムも同じことを言った。二人とも正しかった。
正しいが、二人とも、一行に縮むほうが速いということを言わなかった。
あと二年で、条約が切れる。




