メレ
小屋の中は、灰の匂いが濃かった。
袋を積む場所なので、当たり前だった。麻の目から漏れた灰が、床と壁の隙間に溜まっている。三年前、わたしはこの小屋の袋のあいだに押し込まれて、上から空の袋を掛けられた。
あのとき、袋を突いて回った男がいた。突いて、当たったのに、開けたのは一つだけだった。
その一つが、わたしのところだった。
村の男が、あとで言った。突いて、当たったのに、開けたのは一つだけだ、と。メレは何も答えなかった。
奥に、寝床があった。
毛皮ではなかった。この土地に獣はいない。麻を重ねたものの上に、人が寝ていた。
わたしは、そばに座った。
暗くて、顔は見えなかった。それでも、息の音で起きているのが分かった。息の間隔が長かった。長いのは、島の小屋で見た者たちと同じだった。
島の小屋には、十人ばかりが寝ていた。脚のない者と、腕の動かない者と、それから、体のどこも欠けていないのに起き上がれない者。
起き上がれない者は、腕を出していた。線の周りが、肩まで白かった。
刻印を使いすぎた者だ、とあのとき思った。
メレは、一度も使っていなかった。
「メレ」
息が、止まった。
止まって、それから吸った。
「誰だ」
声は、ひどく細かった。
「アステです」
しばらく、何もなかった。
それから、彼女が言った。
「その名は、ここでは言うな」
わたしは、笑いそうになった。笑ってから、目のほうが先に熱くなった。
「言いました」
「そうか」
彼女は、少し体を動かそうとした。動かなかった。
「明かりは」
「つけません」
「そうか」
「見られたくないですよね」
「見せるほどの顔じゃない」
わたしは、彼女の手を探した。麻の上に置いてあった。
握った。
石だった。
指の先だけではなかった。手のひらまで、全部が硬かった。皮膚の下に、筋のようなものが通っている。触っても、握り返してこなかった。握り返せないのだった。
三年前、この手はまだ動いた。
寝具を掴んで、干しに行った。籠を運んだ。井戸の縄を握った。指の先が石になっていても、握ることはできた。
いまは、できなかった。
石は、そこから上へ来ていた。手のひらの次は、手首だった。手首の次は、たぶん肘だった。
「灰咳ですか」
「それもある」
「ほかにも」
「進んだ」と彼女は言った。「あんたが出ていってから、進んだ」
「わたしのせいですか」
「馬鹿を言うな」
彼女は、少し笑った。笑って、咳をした。
「年だ」と彼女は言った。「それだけだ」
わたしは、それを信じられなかった。信じられないが、言い返す材料も持っていなかった。
わたしは、その手を握ったままでいた。
「使わなかったんですよね」
「使っとらん」
「一度も」
「一度もだ」
彼女は、少し咳をした。長い咳だった。咳が終わるまで、わたしは何も言わなかった。
「使わなくても、進むんですね」
「進む」
「なんでですか」
メレは、しばらく黙っていた。
「知らんよ」
わたしは、その言葉を待っていた気がした。
三年間、いろいろな人に訊いた。訊いて、返ってきたのは、たいてい同じだった。グリムは、取りすぎてはいけない理由を知らないと言った。ドラは、鳴りが戻らない理由を知らないと言った。ヘズは、なぜ足りなくなるのかを知らないと言った。
みんな、知らなかった。
知らないまま、正しくやっていた。
正しくやっているというのが、いちばん厄介だった。
理由を知っていれば、理由が変われば直せる。知らないままやっていることは、直しようがない。直そうとしても、何を直せばいいのか分からない。
グリムは、理由のない決まりだけが何百年ももつと言った。
もったところで、減るものは減っていた。
「メレ」
「なんだ」
「三年前に、灰海のことを言いましたよね」
「言ったかね」
「何も燃やしていない、って言いました。焼けた跡なら炭が出る、骨も出る、あそこには何ひとつ出ない、って」
彼女の息が、少し変わった。
「言ったな」
「じゃあ何ですかって訊いたら、こう言いました」
わたしは、その言葉を口に出した。三年間、頭の中に置いてあった言葉だった。
「残ったものだよ。持っていかれたあとに、残ったもの」
小屋の中は、静かだった。
外で、篩の音がしていた。
「それは、誰から聞いたんですか」
メレは、答えるまでに間を置いた。
「わしの母親だ」
「お母さんは」
「その母親から聞いたと言っとった」
わたしは、その繋がりを頭の中へ入れた。
言い伝えだった。理由のない決まりと、同じ形をしていた。理由が分からないまま、代々受け渡されている言葉。
「持っていかれた、というのは、誰がですか」
「知らん」
「何を、ですか」
メレは、そこで少し笑った。笑って、咳をした。
「あんた、それを訊きに戻ってきたのか」
「そうです」
「三年かけて」
「三年かかりました」
彼女は、目を閉じたようだった。暗くて、閉じたかどうかは分からなかった。
「季節がないと、言ったろう」
「言いました」
「取られたからだ、とも言った」
「言いました」
「あれで、全部だ」と彼女は言った。「わしが知っとるのは、それだけだよ」
「それだけで、四十年逃げたんですね」
「逃げたのは、それとは関わりない」
「でも」
「知っとることと、生きとることは、別だ」と彼女は言った。「わしは、盆に手を入れんかっただけだ。それだけで四十年もった」
彼女は、天井のほうを見ていた。
「知っとる者が長く生きるなら、あんたはもう死んどるよ」




