灰の道
西へ行くには、内海に沿って北へ回り、それから大平原を横切ることになる。
ロヴァニスの港から荷を運ぶ隊が、毎日のように出ていた。荷運びは人手を要る。要るので、あまり選ばない。わたしは荷車の脇について歩いた。銭は要らないと言った。食べさせてくれるだけでいいと言った。
そういう者が、この道には多かった。多いので、目立たなかった。
多いというのは、行き場のない者が多いということだった。
灰縁の村へ買い付けに来た司祭が、そう言っていた。東で盗人が増えている、行き場のない者が街道へ出るのだ、今年は特に多い、と。
三年経って、まだ多かった。むしろ増えていた。荷車の脇を歩く者の数を、わたしは何度か数えた。日によって違ったが、少ない日でも六人はいた。
隊の頭は、わたしのことを何も訊かなかった。訊かないのは、灰縁の村と同じ理由ではなかった。訊いて答えられない者を雇うと、いなくなったときに探さなくて済む。それだけのことだった。
平原に入って、五日目に、麦の色が変わった。
ロヴァニスの後背地の麦は、濃かった。平原の奥へ行くにつれて、薄くなった。同じ季節の同じ麦なのに、色が違った。
「土が違うんですか」
隊の男は、そちらを見なかった。
「毎年こうだ」
「毎年薄いんですか」
「毎年、少しずつな」
わたしは、その言葉を頭に入れた。
毎年少しずつ、というのを、この三年で何度聞いたか分からなかった。
北の谷の魚。島の持ち帰り。トルヴェクの鳴り。灰海の縁。
そして、いまは麦の色だった。
少しずつというのは、気づかないということだった。気づかないから、誰も数えない。数えないから、少しずつのままになる。
九日目に、関があった。
石を積んだ番小屋と、道を塞ぐ横木。兵が四人と、修道士が一人。
わたしは、その修道士の胸を見た。
輪の中に、細い線。あの日、葦の中で見上げた男の胸にあったものと、同じ形の紋章だった。線の数が違った。あちらは三本で、こちらは一本だった。
線の数が位を表すのだろうと思った。
三本のほうが上なら、あの人はこの関に立っている者より上だった。
上の者が、あの日、葦の中へ一人だけ回り込んできていた。回り込んでくる仕事は、たぶん上の者がやることではない。
そのことを、わたしはそのとき初めて考えた。
「荷は」
隊の頭が、証文を出した。
修道士は、それを読んだ。読んでから、荷車の脇の者を順に見ていった。
わたしのところで、止まった。
「歳は」
わたしは、答えた。
「名は」
「アステです」
修道士は、名簿を出した。厚い名簿ではなかった。関に置く控えだった。
彼は、そこを見た。
見て、何も言わなかった。載っていなかったのだと思う。載っているのは「マルグリット」のほうだった。その名は、三年前にどこかの帳面で川へ落ちたか、開いたまま残っているかのどちらかだった。
「南から来たか」
「島からです」
「島」
「東の海の島です」
嘘ではなかった。嘘ではないが、この人が思う島とは違う島だった。
「盆はあるか」と修道士が後ろへ言った。
兵の一人が、番小屋から浅い器を持ってきた。銀ではなかった。錫か何かの、安いものだった。水が張ってあった。
わたしは、腕の内側に意識を置いた。
そこへ置いて、押した。押すとひとりでに開いた。腕の内側から肩へ細い熱が上がって、体じゅうに薄く広がって、消えた。
手を入れた。
水は、水のままだった。
「白」
修道士は、名簿を閉じた。
その盆の水は、あの日の穹堂のものより浅かった。
安い器で、水も少なかった。持ち歩くためのものだった。持ち歩くということは、あちこちで使うということだった。
三年前、盆は穹堂にしかなかった。穹堂へ行かなければ、誰にも分からなかった。メレは、それだけのことで四十年逃げた。
いまは、街道の関にある。
わたしは手を引いて、服で拭いた。拭きながら、数を数えていた。
一刻。次に使えるまで一刻。そのあいだに、もう一度この盆に手を入れさせられたら、そこで終わる。
修道士は、次の者を呼んだ。
横木が上げられて、隊が動きはじめた。
歩きだしてから、わたしは一度だけ振り返った。
修道士は、名簿を小屋へ戻していた。あの名簿には、この日この関を通った者の名が書かれる。書かれた名は、どこかへ送られる。送られた先で、また別の帳面に写される。
アステという名が、また一つ増えた。
その名は、三年前に葦の際でも書かれた。書いた者は、こちらが綴りを言えないので、自分で当てて書いた。何と書いたのかを、わたしは知らない。
同じ名かどうかも、分からなかった。
名前が増えるのは、悪いことではないはずだった。
増えれば、どれが本当かが分からなくなる。分からないものは、突き合わせられない。
ただ、増やしているのはわたしではなかった。書いているのは、いつも向こうだった。
わたしは名乗るだけで、綴りは向こうが決める。
十四日目に、麦が終わった。
畑が途切れて、土が痩せはじめた。灌木と石ころと、風に曲がった細い草だけになった。
そこから先は、隊は行かなかった。
「うちはここまでだ」と頭が言った。「この先は、灰しかない」
「灰は要らないんですか」
「値が落ちた」と頭は言った。「昔は、うちも運んどった。いまは合わん」
「合わないって」
「運ぶ手間のほうが高い」
彼は、荷車の向きを変えさせていた。
「あそこは、そのうち誰も行かんようになる」




