戻らない
船が出るのは、朝だった。
麦を積み終えて、綱を解くばかりになっていた。ベルグが袋の数を最後にもう一度数え、線を引いた紙を懐へ入れた。漕ぎ手の二人が、櫂の座に着いた。
わたしは、岸に立っていた。
三年前、この島へ着いたとき、わたしは荷と一緒に降ろされた。降ろされて、右か左へ分けられた。右へ行った者は働かされ、左へ行った者はその場に座らされた。
いま、わたしは自分の足で岸に立っていた。
立っていられるようになるまでに、三年かかった。
「乗れ」とベルグが言った。
「乗りません」
彼の手が、綱にかかったまま止まった。
シグリが船尾から立ち上がった。立ち上がって、こちらを見た。
「なんだと」
「戻りません」
ベルグは、綱を放した。
「あんた、盟の者だぞ」
「はい」
「三度出て、帰った。わしが数えとる」
「はい」
「記録者だ」
「はい」
彼は、そこで言葉を切った。切ってから、言い直した。
「四十年ぶんを、あんたが持っとる」
わたしは、うなずいた。
それが、この話のいちばん重いところだった。
老人は三日かけて渡した。渡し終わる前に喋れなくなって、口だけを動かした。たのむ、と三度言った。何を頼まれたのかは、いまも分からない。
分からないまま、わたしは受け取った。
受け取ったものを持って、いま岸に立っていた。
島には、書いたものがない。
紙がない。板もない。柱に刻む者もいない。四十年ぶんは老人の頭の中にあって、そこからわたしの頭の中へ移った。
移ったものが出ていけば、島にはもう何も残らない。
教会が北の谷から古い柱だけを運び出したときと、形が同じだった。減り方の分かるところだけが、外へ出ていく。
「置いていけると思うか」とベルグが言った。
「思いません」
「じゃあ、乗れ」
「乗りません」
シグリが、船縁を跨いで岸へ下りた。
彼女は、わたしの前まで来た。背は高くない。わたしのほうが、この三年で伸びていた。同じくらいの高さで、目が合った。
「言え」と彼女は言った。
「島へ戻ると、あと二年で条約が切れます」
シグリは、何も言わなかった。
「切れたら、みんなが殴っていい世の中になります。島がどうなるかを、盟約会で考えてるって聞きました」
「聞いた」
「そのあいだ、わたしは読み上げます。毎年、去年あったことを読み上げます」
わたしは、言葉を選んだ。選んでも、うまく言える気がしなかった。
「読み上げると、そのとおりに決まります」
彼女の目が、少し動いた。
「去年、わたしが減っていると言いました」とわたしは言った。「そのあと、島は取れるだけ取ることに決めました。二月かかっていたものが、一月で決まりました」
「決まった」
「わたしが言わなかったら、二月かかってました」
シグリは、しばらく黙っていた。
「それが、戻らん理由か」
「違います」
「なんだ」
「まだ分かっていないことがあります」とわたしは言った。「なぜ減るのかを、わたしはまだ知りません。知らないまま読み上げると、また同じことが起きます」
「知ったら、戻るのか」
わたしは、答えられなかった。
答えられないのが、答えだった。
シグリは、それ以上訊かなかった。
この人は、答えられない相手をそれ以上追わない。追っても出てこないと知っているからだった。島では、そういうやり方をする者のほうが少なかった。
追わないのは、優しいからではない。追う時間が惜しいからだった。
シグリは、それを見ていた。見て、それから後ろの船を振り返った。
「四十年ぶんは」
「持っていきます」
「持っていって、どうする」
「分かりません」
「落とすかもしれん」
「落とすかもしれません」
彼女は、こちらを向き直った。
「島には、それしかない」と彼女は言った。「土地がない。畑がない。書いたものもない。あるのは、覚えとる者だけだ」
「知ってます」
「その者が出ていく」
「はい」
シグリは、袖の中で手を握ったようだった。上着の布が動いた。
わたしは、腕の内側に手を当てていた。線が三つ。あと一つ。
彼女なら、袖をまくって使える。使えば、わたしは立っていられない。上がった相手に、上がっていない者は勝てない。
彼女は、まくらなかった。
「なぜ止めないんですか」
「止めて、どうする」
「連れて帰れます」
「連れて帰った者が、正しく読み上げるか」とシグリは言った。
わたしは、答えられなかった。
「あの爺は、四十年、正しく読み上げた」と彼女は言った。「間違えた数も、正しく間違えた。あれは、そういう者だった」
彼女は、船のほうへ歩きだした。
「あんたも、そういう者だと思っとる」
わたしは、その言葉に返す言葉を持たなかった。
正しく間違える、というのは、たぶん、この人がいちばん高く見ているものだった。腕に六つ刻んで、五つ目は何もしない刻みで、それでも刻んだ。負けた年に持ち帰るものがなくても、出たことは残さねばならない、と。
その人が、わたしをそう見ていた。
見られているとおりに振る舞えるかどうかは、別の話だった。
歩きかけて、止まった。
「戻れとは言わん」と彼女は言った。「言わんが、戻ればいい」
船が出た。
わたしは、岸に立っていた。腰に巻いた綱と、袖の中の針と、腕の内側の線。それだけを持っていた。
持っているのは、それだけではなかった。
四十年ぶんの数を、わたしは持って、岸に立っていた。
船が小さくなるまで、動かなかった。
見えなくなってから、頭の中の四十年を、いちばん古い年から順に通した。
落ちていなかった。
落ちていないことを確かめても、確かめ返してくれる者がいなかった。それが、この日から先のやり方になった。




