言わない理由
「じゃあ、なんで言わないんですか」
セリーナは、しばらく荷のほうを見ていた。
「言ったら、どうなると思う」
「間違いが直ります」
「直る」と彼女は言った。「直ったあとのことを、考えたことある」
わたしは、答えられなかった。
考えていなかった。
数が違っていたら直す。それが正しいと、わたしはずっと思っていた。
北の谷では、刻みが合わなかったから読んだ。読んで、詰めて刻んだ者が見つかった。あのとき、わたしは正しいことをしたつもりでいた。
その男は、その冬を越した。越したが、次の年の集まりに名が出なかった。誰も彼の話をしなかった。
直したあとのことを、わたしはあのときも考えていなかった。
「確認埋蔵量が下がる」と彼女は言った。「下がれば、担保の値が下がる。担保の値が下がれば、貸した側は追加を求める。求められた側は払えない。払えなければ、貸したものが焦げつく」
彼女は、指を一本ずつ折っていった。
道の角の石の台に彫ってあった子供と、同じ折り方だった。
「アルジェンティの家は、アルディエルとヴェルガルドの両方に貸してる。両方が同時に払えなくなったら、あの家が潰れる。あの家が潰れると、あの家に預けている家が潰れる。この街の商家は、たいてい互いに預け合ってる」
「全部、潰れるんですか」
「順番に」
彼女は、指を開いた。
「そのあと、麦が止まる」
わたしは、そこで顔を上げた。
石と麦が繋がっているとは、思っていなかった。
石は食えない。麦は食える。別のものだった。
別のものが、銭で繋がっていた。銭は食えない。食えないものが、食えるものと食えないものの両方を繋いでいた。
「麦」
「この街は、麦を買って売る国よ」と彼女は言った。「買うのに、先に金を出す。畑ができる前に金を出して、できたものを受け取って、それを別の国へ売る。金が回らなくなったら、先に出す金が出ない」
「出なかったら」
「畑を作る人が、種を買えない」
「種を買えなかったら、蒔けませんね」
「蒔けない」
「蒔けなかったら、次の年に麦がありません」
「ない」
「次の年にないと、その次の年の種もありません」
セリーナは、こちらを見た。
「そこまで考えるのね」
「並べただけです」
「並べただけで、そこまで行くのよ」と彼女は言った。「みんな、途中でやめる」
わたしは、内海を見ていた。
船が動いていた。数えられないほど動いていた。
「ヴェルガルドは、麦を買ってます」
「買ってる」
「北の峡は、南三峡から買ってます」
「そうでしょうね」
「北五峡は、買えなくて、若い人が出ていきました」
セリーナは、こちらを見た。
「あなた、そこにいたの」
わたしは、答えなかった。
「言ったら、そういうところから死ぬ」と彼女は言った。「金が止まると、いちばん下から止まる。上のほうは、しばらく持つ」
「言わなかったら」
「言わなかったら、石が本当になくなるまで、みんな今のまま」
「今のままって、いいことですか」
「よくない」と彼女は言った。「よくないけど、今日は誰も死なない」
「明日は」
「明日も死なない」
「五十年後は」
「たくさん死ぬ」
彼女は、荷のほうを見ていた。
「今日死ぬ人と、五十年後に死ぬ人を、同じ秤に載せられないの。載せる目盛りがないから」
「本当になくなるのは、いつですか」
「五十年か、もっと早いか」と彼女は言った。「私が生きているあいだかもしれない。あなたが生きているあいだには、たぶん来る」
わたしは、荷を数えている二人を見ていた。
一人が数え、もう一人が数え、二つを合わせる。合わなければ、その場で分かる。
そういうことを、この街の人は毎日やっていた。毎日やっているのに、いちばん大きい数だけを、数えないままにしていた。
「間違ってると分かってて、そのままにしておくんですか」
「そう」
「怖くないんですか」
セリーナは、そこで初めて、少し長く黙った。
「怖いわよ」と彼女は言った。「毎日怖い」
「誰かに言ったことは、ありますか」
「一度ある」
「どうなりましたか」
「その人も、同じことを言った」と彼女は言った。「怖い、と」
彼女は、板を持ち直した。
「それだけよ。二人で怖がって、二人とも黙った」
彼女は、腕に抱えた板を持ち直した。
「私は、量る仕事をしてる。うちの家名は秤よ。祖父も曾祖父も量ってた。量った数が違っていたら、直す。それがうちの仕事」
「じゃあ」
「直せない数が一つだけある」と彼女は言った。「直したら、直した先で人が死ぬ。私の家は、そこまでは量らない」
彼女は、取引所のほうへ歩きだした。
行きかけて、止まった。
「あなた、どこから来たの」
わたしは、答えなかった。
「答えなくていい」と彼女は言った。「ただ、一つだけ言っておく」
「はい」
「私と同じことを考えた人は、これまでにもいた」
わたしは、彼女を見た。
「その人たちは、どうしたんですか」
「みんな黙った」と彼女は言った。「誰かに口止めされたんじゃない。自分で計算して、自分で黙ることにした」
彼女は、荷の音のするほうを見た。
「同じ計算をすれば、同じところへ着く。だから、口止めが要らないのよ」
わたしは、その言葉を持って帰った。
口止めが要らない、というのは、隠している者がいないということだった。
隠している者がいないのに、隠されている。
そういうものを、わたしはそれまで見たことがなかった。灰塔のことは、教会が隠していた。トルヴェクの十一は、坑主が隠していた。隠している者が、必ずいた。
ここには、いなかった。




