二重
わたしは、その場でしばらく動けなかった。
セリーナが、こちらを見ていた。
「どうしたの」
「なんでもないです」
「顔が変よ」
「寒いだけです」
嘘だった。わたしは、嘘のつき方が上手くなっていた。上手くなったのが、いいことなのかどうかは分からなかった。
上手くなったのは、嘘の中身ではなかった。
顔だった。
灰縁の村で、名を訊かれて別の名を言った。北の峡で、母の名を知らないと言えなかった。島で、腕の数を訊かれて、まだ数えていないと言った。
言うたびに、顔が動かなくなっていった。
シグリは、島でそれを見抜いた。嘘だな、と言った。この人は、見抜かなかった。
その日、わたしは船へ戻らなかった。
戻らないつもりだったのではない。取引所を出てから、街の中を歩き回っているうちに、日が落ちた。
歩きながら、並べていた。
四十一と、十一。
板に貼ってある確認埋蔵量は、四十一の坑を数えて出したものだった。実際に出るのは十一。残りの三十は、鳴っているだけで、掘っても知れている。
その三十を止めないのは、止めれば四十一が十一になるからだった。
四十一という数は、坑の数だった。
坑ごとの見込み量というのも、たぶん同じ作りだった。鳴っているだけの坑にも、見込み量が書かれている。書かれた見込み量は、実際には出ない。
坑の数が四分の一なら、見込み量も四分の一だとは限らない。もっと悪いかもしれなかった。
坑主が困る、とわたしはトルヴェクで考えた。坑主が困るのは、坑主に何かを預けている者がいるからだ、とも考えた。預けている者は、街の外にいる、と。
外にいる者が、この街だった。
確認埋蔵量が四分の一になれば、割り算の答えも四分の一になる。二百年が、五十年になる。
五十年でも、まだ長いように聞こえた。
わたしは、五十年という長さを、うまく掴めなかった。
十年なら分かる。七つ刻んだ者が、それで死ぬ。シグリは、あと十年で三十五になる。
五十年は、その五倍だった。
五倍というのは、頭では分かる。けれど、五十年後にいる人の顔が、一つも浮かばなかった。
浮かばない相手のために何かを決めるというのは、たぶん、とても難しいことだった。
けれど、担保というのは、そういうものではないはずだった。二百年ぶんあると思って貸した金は、五十年ぶんしかないと分かった日に、貸した側が困る。
困る額が、どのくらいなのかを、わたしは知らなかった。
知らないなりに、大きいことは分かった。
取引所の建物は、穹堂より高かった。柱が太く、床が広く、中に何百人も入っていた。あれだけのものが、その数の上に建っている。
数が四分の一になったら、建物が四分の一になるわけではない。建物はそのまま残る。残ったまま、中身がなくなる。
そういう壊れ方を、わたしは見たことがなかった。
翌日、わたしは取引所へ戻った。
セリーナは、板の下にいた。同じ場所で、同じように書いていた。
「昨日は、途中で行っちゃったのね」
「すみません」
「いいけど」
彼女は、書く手を止めなかった。
「一つ、訊いていいですか」
「どうぞ」
「担保にした石は、一つの相手にだけ入れるんですか」
セリーナの手が、止まった。
止まって、そのまま動かなかった。
「なんでそれを訊くの」
「わたしは、数を数えてるからです」
彼女は、板から目を離した。
「ここじゃない」と彼女は言った。「ついてきて」
わたしたちは、取引所を出て、港の壁のほうへ歩いた。荷が上がっているところだった。梁のそばで一人が数え、荷車のところでもう一人が数えていた。
彼女は、その音が聞こえるところで止まった。
「うるさいところで話すのは、この街の作法よ」
「なんでですか」
「静かなところで二人でいると、何を話しているか気にされる」
わたしは、そのやり方を覚えた。
灰縁の村では、名を訊かないことが防具だった。北の谷では、二人で行くことが決まりだった。この街では、うるさいところで話す。
どこも、同じことをしていた。守り方が土地ごとに違うだけだった。
守らなければならないものがある土地は、必ず何か作法を持っている。
彼女は、壁に寄りかかった。
「同じ石が、二度入っていることがある」
わたしは、彼女を見た。
「二度」
「ある家がトルヴェクに貸して、坑の出をあてにする。別の家も同じ坑をあてにして貸す。坑は一つなのに、あてにしている家が二つある」
「それは、いけないことですよね」
「いけないことよ」と彼女は言った。「三港商法で禁じてる」
「破ったら、どうなるんですか」
「訴えられる」
「訴えられたら」
「証言官が立ち会って、帳面を突き合わせる」と彼女は言った。「昔は、それでたいてい決まった」
「昔は」
彼女は、少し間を置いた。
「いまは、突き合わせても分からないものが増えたの」
「じゃあ、なんで起きるんですか」
「見えないから」
彼女は、荷を数えている男のほうを見た。
「あの荷は、目の前で数えられる。二人が別々に数えて、合わせる。合わなければ、その場で分かる」
「はい」
「地面の中の石は、誰も数えられない」と彼女は言った。「申告された数を、そのまま使う。二人で数え直すことができない」
わたしは、その言葉を聞いていた。
数えられないものを、数えたことにして使う。
使っているうちに、それが数えられたもののように見えてくる。
板に書いてあれば、書いてある数に見える。壁に貼ってあれば、確かめられた数に見える。
誰も、それを申告した者の顔を見ていなかった。
「気づいてる人は、いるんですか」
「いる」とセリーナは言った。「私も、その一人」




