鳴り聞き
銭は、その日のうちに出なかった。
「明日にしてください」と代理人は言った。「これだけの量は、蔵から出します」
わたしたちは、街の下のほうの宿へ入れられた。宿というより、坑夫の泊まる場所だった。板の間に藁を敷いて、そこへ寝る。飯は麦の粥だった。
その粥が、思っていたより薄かった。
薄いというのは、水が多いということだった。
灰縁の村でも、北の谷でも、粥は薄かった。薄い粥を出す土地は、たいてい足りていない。
ただ、この街は違った。銭はあった。段の上の家は大きく、代理人の服は上等で、爪が切り揃えてあった。
銭があるのに、粥が薄い。
買うものが遠いからだった。
「ここは、麦が採れないんですか」
「採れん」とベルグが言った。「山だ」
「じゃあ、全部買ってるんですか」
「買っとる」
わたしは、部屋の中を見回した。泊まっているのは、ほとんどが坑夫だった。手が黒かった。爪の中に、灰縁の村の者と同じように、洗っても落ちないものが入っている。ただし色が違った。あちらは白で、こちらは黒に近い灰だった。
爪の中のものが違うだけで、手つきは同じだった。
椀を持つときに、指の関節が伸びきらない。伸ばそうとして、途中で止まる。毎日同じ形で道具を握る者の手だった。
わたしの手も、篩を回していたころ、そうなりかけていた。
その晩、わたしは眠れなかった。
揺れていたからだった。
慣れれば聞かなくなる、とベルグは言った。あって当たり前のものは聞かなくなる、と。当たり前になっていない者には、それはずっとあった。
腹の底に、来ていた。
メレの言ったことと、区別がつかなかった。
有脈者の中には道があって、その道を通りたがるものが腹の底に溜まる。溜まったものは、出したがる。出さないためには手を動かす。
ここでは、外から来ていた。外から来ているのか、内から出ようとしているのかを、確かめる方法がなかった。
わたしは、両手を握って開いた。何度かやった。やっても、変わらなかった。
わたしは起き上がって、外へ出た。
段の上に座って、街を見下ろした。夜でも、坑の口には明かりがあった。夜も掘るのだった。地下は年じゅう同じ温さなので、昼も夜もないのだと、あとで知った。
昼も夜もない場所で働く者は、外に出たときに時刻が分からない。
だから、この街には水時計があった。
坑の入り口ごとに、一つずつ置いてある。交代の時刻を、それで測る。空を見ても分からない者のために、水が落ちていた。
隣に、人が座っていた。
先に座っていたのか、あとから来たのかは分からなかった。年寄りの女だった。小柄で、背中が丸く、膝の上に木の桶のようなものを置いていた。
桶ではなかった。
水が入っていて、その底に小さい穴が開いていた。水が下の器へ落ちている。落ちる速さが一定だった。
一定なのは、上の器の水位が変わらないようにしてあるからだった。上にもう一つ器があって、そこから溢れたぶんだけが下へ行く。溢れる量は、水位が同じなら同じになる。
そういう作りを、わたしは初めて見た。
見て、誰かがこれを考えたのだと思った。考えた人は、たぶん、正確に測りたかった。正確に測りたい理由が、この街にはあった。
「水時計ですか」
女は、こちらを見た。
「よその子だね」
こちらの言葉だった。訛りはあったが、分かりやすかった。
「はい」
「眠れんのか」
「揺れてます」
女は、少し笑った。
「よそから来た者は、みんなそう言う」
「みんな言うんですか」
「言う」と彼女は言った。「言って、三日ほどで言わなくなる」
「慣れるんですか」
「慣れる者もおる」と彼女は言った。「慣れん者は、出ていく」
彼女は、水の落ちる先を見ていた。
「慣れるのと、聞こえんようになるのは、違う。この街の者は、慣れたのではない。聞こえんようになったんだ」
彼女は、水時計に目を戻した。
「聞こえるのかい」
「耳では聞こえません」
「どこで」
わたしは、自分の腹のあたりに手を当てた。
女の手が、止まった。
水時計の水は落ち続けていた。彼女は、それを見ないで、わたしのほうを見ていた。
「ここでかい」
「はい」
「そこで聞く者は、そう多くない」と彼女は言った。「わたしは、ここで聞く」
彼女は、自分の腹に手を当てた。
「名は」
「アステです」
「家名は」
わたしは、少し考えた。
「ヴァイダドッタです」
「北か」
「半分です」
女は、うなずいた。うなずいてから、自分のことを言った。
「ドラだ」
「家名は」
「ない」
彼女は、水時計の器を膝の上で持ち直した。
「この街で家名があるのは、鉱区を持っとる者だけだ。うちの家名は鉱区の名から取る。鉱区を持っておらん者は、名だけだ」
「掘る人には、ないんですか」
「ない」
「名前がないと、困りませんか」
「名はある」とドラは言った。「家名がないだけだ」
「同じ名前の人がいたら、どうするんですか」
「どこの坑の誰、と言う」
わたしは、その言い方を頭に入れた。
坑の名で人を呼ぶ。坑がなくなれば、その呼び方はなくなる。二百年で百九十五の坑が止まったのなら、なくなった呼び方が、その数だけあるということだった。
わたしは、その仕組みを頭の中に置いた。
名前が、持ち物の記録になっている。持っていない者は、記録に残らない。
「ドラさんは、何をしてるんですか」
彼女は、水時計を見た。
「聞いとる」
「なにをですか」




