白のままの人間
その日、メレは篩を止めさせた。
櫓は日のあるうちは動かし続けるものだったから、それだけで何人かがこちらを見た。彼女は気にしないでわたしを小屋の裏へ連れていき、井戸の縁石に座らせた。
「一度しか話さないから、覚えておけ」
冬だったという。洗い場で盥に手を入れていて、指がちぎれそうに痛くて、痛いと思ったところで、水が沸いた。
沸くというのは、じわじわ温まって泡が立つことではなかった。盥の水が一度に持ち上がり、湯気が顔に当たるほど沸いて、それからすぐ元の冷たさに戻った。手の中を何かが通った感じがあって、その何かは通ったあとに戻ってこなかった。
「体の中に道ができるんだ」とメレは言った。「できるまで、そんなものがあることも知らない。できた日に、ああ、ここに道があったのかと分かる。分かったときにはもう通ってる」
まわりに誰もいなかった。誰もいなかったから、彼女はまだ生きている。
「それだけだ。それだけで、わたしはここにいる」
「使わなければいいの」
「使わなければ誰にも分からん。あの盆のほかに、人の中を見る手立てはない。そして盆は穹堂にしかない。だから穹堂へ行かなけりゃいい。それだけのことで、逃げられる」
「そんなに簡単なの」
「簡単じゃないよ」とメレは言った。「一生、一度もだ。火の中に手を突っ込みたくなる晩がある。腹の底が焼けるみたいになって、何かがそこから出たがる。それを毎晩押さえて、押さえたまま年を取る」
「どうやって押さえるの」
「手を使う仕事をする」とメレは言った。「一日じゅう指を動かしてる仕事だ。篩でも、縫い物でも、灰を袋に詰めるのでもいい。手が疲れてれば、夜に出たがるものが少し静かになる。理屈は知らんよ。ただ、この村の年寄りはみんな手の仕事をしてる」
わたしは村の大人たちの手を思い出していた。籠を編む男。網の目を繕う女。食事の前に環を描きかける、あの男の指。
「みんな、そうなの」
「訊いたことはない」とメレは言った。「訊かない決まりだからな」
わたしは自分の手を見た。指の先の白いところを、彼女はもう見ていた。
「使ったか」
「使ってない」
「一度も」
「一度も」
メレは何も言わなかった。しばらく黙ってから、話を先へ進めた。
「もうひとつ、覚えておけ。帳面の話だ」
白と出た者は、その日のうちに帳面の上で済んでしまう。済んだ者は、そのあと何が起きても調べられない。生きているあいだ一度も、二度目の盆に手を入れることはない。彼女はそれからずっと、済んだ人間として生きてきた。
「教会は帳面で世界を見る。目じゃない。帳面だ。帳面に済と書いてある者は、目の前で火を噴いてても済んでるんだよ」
「見ても」
「見た者が困るんだ」とメレは言った。「済と書いた者がいて、その上に承と書いた者がいて、そのまた上がいる。いまさら違ってましたと言えば、下から上まで全部が間違えたことになる。だから見なかったことにする。教会が嘘つきなんじゃない。帳面がそういうふうにできてる」
「じゃあ、わたしも」
「あんたは違う」
メレはそこで初めて声を落とした。
「あんたは光った。光ったところを司祭が見て、名簿に書いた。書いたものが馬車に乗って、馬車から降りなかった。帳面に穴が空いてる」
風がないので、彼女の声はどこへも流れないでそこに残った。
「教会は穴を嫌う。穴は上へ報せなきゃならんし、報せれば誰かが叱られる。だから、埋まるまで探す。人を探してるんじゃない。穴を埋めたいだけだ。そのほうが厄介なんだよ。人を探す者は諦める。穴を埋めたい者は諦めない」
わたしはその晩のことを思い出していた。左の眉に古い傷のある男が、川と反対の方角を指したときのことを。
「逃がしてくれた人がいた」
メレの目が動いた。
「そいつは何と言った」
「そっちは川だって。でも川じゃなかった」
「見たのは、そいつだけか」
「たぶん」
メレは井戸の縁石に手をついて、しばらく灰海のほうを見ていた。ここからは見えないのに、そちらを見ていた。
「なら、そいつは帰ってから何か書いたはずだ。川へ落ちたと書いたか、それとも何も書かなかったか」
「どっちだと、どうなるの」
「前のほうなら、あんたはもう死んでることになってる。帳面は閉じる。誰も来ない」
「後ろは」
「帳面は開いたままだ。開いたままの穴には、そのうち誰かが差し向けられる」
「どんな人が来るの」
「知らんよ。ただ、穴を埋めに来る者は、埋まりさえすればいいんだ。あんたを連れて帰るのでも、あんたが死んだと書くのでも、どっちでも帳面は閉じる。閉じるほうが早いやり方を、そいつは選ぶ」
わたしは訊いた。訊かないほうがいいと分かっていたのに訊いた。
「どっちだと思う」
「わたしに分かるものか」とメレは言った。
そして立ち上がり、着物の裾についた灰を払った。
「ただ、どっちにしても、そいつの名前もいまごろ帳面のどこかにある」
その日の残り、わたしは篩の前に立って、目の詰まりを指で押し出していた。指を動かしていれば夜に出たがるものが静かになるという話を、さっき聞いたばかりだった。
日が落ちるころ、トゥーが横へ来た。詰まってもいない目を、黙って直していった。
「なんでもない」とわたしは言った。
彼は何も言わないで、自分の持ち場へ戻った。




