四千の高さ
山道に入って、二日目から、息が続かなくなった。
坂がきついからではなかった。坂はきつかったが、それとは別に、息を吸っても足りなかった。吸って、吸って、それでも足りない。足が止まる。止まって、しばらく息をして、また歩く。
ベルグは慣れていた。漕ぎ手の二人も、途中から慣れた。
シグリは、平気そうに見えた。
「なんで平気なんですか」
彼女は、たどたどしいこちらの言葉で答えた。
「息が、要らん」
「要らないわけないです」
「刻みだ」と彼女は言った。
わたしは、彼女の袖を見た。
「使ってるんですか」
「違う」と彼女は言った。「使わん。刻んだ者は、要る息が減る」
わたしは、自分の腕の内側に手を当てた。
そのころには、白いところが肘の近くまで来ていた。触っても、触られたことが分からない範囲が広がっている。息が楽になった覚えはなかった。
「わたしは、そうなってません」
「二つだからだ」とシグリは言った。「六つになれば、分かる」
彼女は、それきり歩いた。
息が要らなくなる、というのは、聞いた話と合わなかった。
刻印は、皮膚を硬くする。硬くなったところは動かない。動かないところが増えれば、体は不便になるはずだった。ヘズは脚に二つ刻んで、その脚が動かなくなった。
不便になるのに、息は減る。
わたしは、それをどう考えればいいのか分からなかった。分からないまま、シグリの歩き方を見ていた。
彼女は、肩を動かさないで歩いていた。
三日目に、木がなくなった。
林が途切れて、そこから上は岩と草だけになった。草も、腰までしかない。風が強かった。強いというより、遮るものがないので、ずっと吹いていた。
灰海には、風がなかった。
この山は、逆だった。止むことがない。同じ強さで、同じ方向へ、ずっと吹いている。
止まないものと、はじめからないものは、しばらくすると同じになる。どちらも、気にしなくなるからだった。
わたしは、灰海で風を忘れていた。この山では、風があることを忘れそうだった。
木がなくなると、燃やすものもなくなる。この街の者が何を燃やしているのかは、あとで分かった。下から運び上げていた。荷を背負って上がる者の背に、薪が載っていた。
その岩の斜面に、穴があった。
一つではなかった。
道から見えるだけで、いくつもあった。斜面に横穴が開いていて、口のところに木の枠が組んである。枠から下へ、掘り出したものを流す樋が伸びていた。樋の先に、石を積んだ場所があった。
穴のいくつかは、人が出入りしていた。
いくつかは、していなかった。
出入りしていない穴は、枠が朽ちていた。朽ちた枠のあいだから、石が崩れて口を半分塞いでいる。塞ぎかけたまま、誰も直していなかった。
直さないのは、直しても意味がないからだった。
直せば、また掘れると思っているなら、直す。直さないというのは、もう掘るつもりがないということだった。
朽ちた枠は、どれも同じくらい朽ちているわけではなかった。新しく朽ちかけているものと、ほとんど崩れているものが、混じって並んでいた。
塞がった順番が、そこに出ていた。
わたしは、その数を数えた。
道から見えるところだけで、動いている穴が七つ。動いていない穴が、十九あった。
十九という数が、頭の中でひとりでに北の谷の柱と並んだ。関わりのない数だった。ただ、同じ数だったので、並んだ。
「あの穴、なんで塞いだままなんですか」
ベルグは、そちらを見なかった。
「掘り終わったからだろう」
「掘り終わったら、埋めないんですか」
「埋める銭が出ん」
「危なくないんですか」
「危ない」とベルグは言った。「だが、崩れて困る者がおらん。中に人がおらんからな」
わたしは、その言い方を置き直した。
人がいなくなった場所は、崩れても構わない。構わないから、放っておく。放っておけば、そこに何があったかも、そのうち分からなくなる。
街は、山の腹にあった。
平らなところがないので、家が段になっていた。上の家の床が、下の家の屋根と同じ高さにある。道は段のあいだを斜めに走っていて、荷を運ぶのは全部背負いだった。車が通れる道が一本もなかった。
そのかわり、人の数が多かった。
段のどこにも人がいた。荷を背負って上がる者と、下りる者が、細い道ですれ違う。すれ違うときの避け方が決まっていて、上がる者が壁側を歩いた。荷を背負って上がるほうが、止まると危ないからだった。
決まりが体になっている街だった。北の谷とは違う決まりだったが、体になっている点は同じだった。
そして、街じゅうが少し揺れていた。
揺れているのは、地面のほうだった。
立っていると、足の裏に伝わってくる。震えというほどではない。ただ、地面が止まっていないのが分かった。
「これは」
「鳴りだ」とベルグが言った。
「鳴り」
「坑の音だ。ここの者は、生まれたときから聞いておる」
わたしは、しばらくその場に立っていた。
音として聞こえるのではなかった。耳では拾えない。足の裏と、腹のあたりで感じるものだった。
腹のあたり、というのが引っかかった。
腹の底が焼けるようになる晩がある、とメレは言った。何かがそこから出たがる。それを毎晩押さえて、押さえたまま年を取る、と。
この街の揺れは、そこと同じ場所に来ていた。
「街の人は、これを聞いて何をするんですか」
「聞かん」と彼は言った。「あって当たり前のものは、聞かんようになる」
「聞かなくなったら、変わったときに分からないんじゃないですか」
ベルグは、そこで少し考えた。
「そうだな」
「困りませんか」
「困るから、聞く者を置いとるんだろう」と彼は言った。「わしは詳しくない」




