三日
老人が動けなくなったのは、その冬の半ばだった。
前の日まで、修繕場の裏まで杖をついて来ていた。来て、石を並べて、三十七年目までを渡した。渡し終わって、いつもより早く帰ると言った。
翌朝、来なかった。
わたしは、彼の寝ている場所へ行った。囲いのある小屋で、脚の動かない者や、腕を落とした者が何人か寝ているところだった。この島で、そこに寝ている者はみんな、戦えなかった者だった。
小屋には、十人ばかりが寝ていた。
脚のない者と、腕の動かない者と、それから、体のどこも欠けていないのに起き上がれない者がいた。起き上がれない者は、腕を出していた。腕の線の周りが、肩まで白かった。
刻印を使いすぎた者だった。
この島で年を取るというのは、そういうことだった。戦えなくなってから、しばらく生きる。しばらくのあいだ、誰も追い出さない。追い出さないが、勘定にも入れない。
老人は、起きていた。
「来たか」
「来ました」
「早いな」
「昼まで待ったら、間に合わないと思いました」
彼は、少し笑った。笑って、それから咳をした。咳の仕方が、灰縁の村の咳と似ていた。あそこの咳は、灰を吸った者の咳だった。この人が吸ったのは灰ではない。それでも、音が似ていた。
体の中が石になっていくのと、灰が肺に溜まるのは、別のことのはずだった。
別のことなのに、終わり方が似ていた。
メレも、あの咳をしていた。あの人は灰を吸っていた。同時に、白と出て十四で発現した有脈者でもあった。どちらのせいで咳をしていたのかを、わたしは訊かなかった。
訊いても、答えなかったと思う。
「始めるぞ」
「はい」
「三日だ」
彼は、そこから喋りはじめた。
いちばん古い年から、順に。盟の並びと、遠征の並びと、出た者と帰った者と、持ち帰った量。すでに渡したところも、もう一度言った。並べ直すためだった。
わたしは、聞いた。
聞きながら、頭の中で並べた。並べる場所は、もう出来ていた。半年かけて作った場所へ、入ってきたものを順に置いていく。置くたびに、置いた場所が正しいかどうかを確かめた。
一日目は、十五年目まで進んだ。
そこで彼は寝た。寝るときに、どこまで言ったかを一度言った。次に起きたときに、そこから続けるためだった。
二日目に、彼の声が細くなった。
細くなったが、順番は崩れなかった。崩れるとしたら量のほうだと思っていたが、量も崩れなかった。四十年ぶんが、彼の中でどれだけきちんと並んでいるかが、二日目でよく分かった。
途中で、二度止まった。
止まったところは、どちらも十三年目から十五年目のあいだだった。
彼は、そこで少し息を継いでから続けた。続けた数は、前に聞いたものと同じだった。それらしい数のほうを、彼はきちんと覚えていた。
覚えていないと、そこで別の数を言ってしまう。別の数を言えば、聞いている側にはそれが本当の数に見える。
入れた数を正確に繰り返すことが、この人の四十年の一部だった。
二日目の終わりに、三十年目まで来た。
そこから先は、わたしがすでに受け取っているところだった。受け取ってはいたが、並べ直すために、もう一度必要だった。
「明日で終わる」と彼は言った。
「はい」
「終わったら、一つ言うことがある」
「いま言ってください」
「いま言うと、あんたが最後まで聞かん」
わたしは、そこで何も言えなくなった。
言われたとおりだった。
言うことがある、と言われた時点で、わたしはもう、それが何かを考えはじめていた。考えながら聞けば、落とす。落とせば、そこから先がずれる。
この人は、四十年をきちんと渡すことを、自分が最後に言いたいことより上に置いた。
置いたことに、わたしはその晩、気がついた。
三日目の朝、彼は起きなかった。
起きていたが、喋れなかった。口は動いた。動いても、音にならなかった。
わたしは、隣に座った。
「三十年目までは、受け取りました」
彼の目が動いた。
「三十一年目からは、わたしが自分で聞いたところです。三十七年目までは、この夏に渡してもらいました。三十八年目と三十九年目は、わたしが島に来てからです。全部あります」
彼は、口を動かした。
わたしは、耳を近づけた。
音は出ていなかった。
けれど、口の形は見えた。
同じ形を、三度繰り返していた。
わたしは、その形を読んだ。読める形だった。この島の言葉ではなかった。こちらの言葉だった。彼はこちらの言葉を話す。だから、こちらの言葉で言っていた。
たのむ、と言っていた。
わたしは、うなずいた。
何を頼まれたのかは、分からなかった。
四十年を落とすな、ということかもしれない。それらしい数の場所を忘れるな、ということかもしれない。読み上げろ、ということかもしれない。
あるいは、まるで別のことかもしれなかった。
その人が最後に言いたかったことを、わたしは聞かないままになった。聞かないまま、うなずいた。
うなずいたのを、彼が見たかどうかは分からない。目は開いていた。開いていたが、こちらを見ていたのかどうかは分からなかった。
その日の夕方に、死んだ。
島の葬りは、海だった。
生きているあいだは奪う。返すのは、その一度きり。船を出して、沖まで運んで、沈める。石をつけるのではなく、そのまま入れる。沈むまで、みんなで見ている。
わたしは、その船に乗せられなかった。
捕虜だからではなかった。乗る場所が決まっていて、そこに座るのは盟の者だけだった。
岸から見ていた。
船が戻ってきたとき、シグリが最初に下りた。
彼女は、まっすぐこちらへ来た。
そして、こちらの言葉で言った。
「三度、出た」
わたしは、彼女を見た。
この人がこちらの言葉を喋れることを、わたしはそのときまで知らなかった。
「盟の者だ」と彼女は言った。




