だから何だ
わたしは、懐から紙を出した。
濡れて、折り目のところが裂けかけていた。船の上の明かりは、火を焚かないので月しかなかった。それでも、字は読めた。
シグリは、その紙を見た。
見て、何も言わなかった。読めないからだった。
読めないものを見せられたときの顔を、わたしは初めて見た。
嫌そうではなかった。困ってもいなかった。ただ、こちらが次に何か言うのを待っていた。文字は、この人にとって鳴らない道具だった。鳴らない道具を差し出されたら、持ち主が説明するまで待つ。それだけのことだった。
わたしは老人のほうを向いた。
「これは、南の教会があの谷で作ったものです。名簿です。人の名前と、その人の父親の名前が書いてあります」
老人が訳した。
シグリは、聞いていた。
「この中に、島の名前があります」とわたしは言った。「アスクスンと、ヴィグドッタと、ヴァルグホルムの名を持つ人が二人。あの谷の何軒かに、この島から人が入っています。何代か前です」
老人が訳した。
訳しているあいだ、シグリはこちらの顔を見ていた。老人のほうを見なかった。
訳し終わると、彼女は紙のほうへ目を落とした。落として、また上げた。
「どこに書いてあるか、と訊いておる」
わたしは、指で示した。
彼女は、その場所を見た。文字は読めない。読めないので、わたしが指したところにわたしの言ったことが書いてあるかどうかを、確かめる手立てがなかった。
彼女は、そのことを分かっている顔をしていた。
訳し終わったあと、少し間があった。
シグリは、こちらを見ていた。夜だったので、目の中までは見えなかった。
彼女が何か言った。短かった。
老人は、それを訳すのに、少し迷った。
「だから何だ、と言っている」
わたしは、その言葉を待っていたような気もするし、待っていなかったような気もした。
期待していたのは何だったのだろうと、あとで考えた。
やめると言うことか。悔やむと言うことか。少なくとも、驚くことは期待していた。
驚きもしなかった。
驚かなかったのは、彼女がその話に興味がないからではなかった。話の筋道は分かっていた。分かったうえで、そこから何かが起きるという考え方をしていないだけだった。
「あの谷の人は、この島の人の親戚です」
老人が訳した。
シグリは、また短く答えた。
「知らんかった、と言っている」
「知らなかったんですよね」
「知らんかった」
「じゃあ」
シグリが、こちらの言葉を遮った。今度は長かった。老人は、区切りながら訳した。
「盟は船だ」
「船は土地に紐づかん」
「谷に親戚がおるというのは、土地の話だ」
「わしらには、土地の勘定がない」
わたしは、何か言おうとした。
「盟へ入れば、その者はうちの者になる」と老人は訳し続けた。「入らんかった者は、うちの者ではない。血の話ではない。入ったか、入らんかだ」
わたしは言い返そうとして、言い返す言葉が北の谷のものになるのに気づいた。
同じ谷の者だから分ける。同じ土地の者だから割る。土地の話だった。
この人たちには、土地がない。船があるだけだった。船に乗った者が身内で、乗っていない者は身内ではない。乗るか乗らないかは、選べることになっている。
選べることになっている、というのが、いちばん厄介なところだった。
「入る機会があったんですか」
老人が伝えた。
「毎年ある、と言っている」
「毎年、襲われることが、機会なんですか」
老人は、それを訳した。
シグリは、そこで初めて言葉を止めた。
止めて、それから、こちらの言葉ではない言葉で、ゆっくり何か言った。
老人は訳さなかった。
「なんて言ったんですか」
「訳さん」
「訳してください」
「訳しても、あんたには分からん」
「分からなくてもいいです」
老人は、杖の先で船の板を叩いた。
「あんたの言う通りだ、と言っておる」
わたしは、シグリを見た。
「そのうえで、それがどうした、と言っておる」
わたしは、それが訳の全部ではないと分かっていた。
シグリの言葉は長かった。老人が言ったのは二行だった。二行に収まる長さではなかった。
「まだ、なにか言いましたよね」
「言った」
「訳してください」
「訳した」と老人は言った。「意味は、それで全部だ。ほかは言い方の話だ」
「言い方も知りたいです」
老人は、杖の先を板から離した。
「あんたと同じことを、昔、誰かが言ったんだろうよ」と彼は言った。「同じことを言われて、同じように答えたことが、あれには何度かある。何度も答えとる者の言い方だった」
彼女は、紙のほうへ手を伸ばした。
わたしは渡さなかった。
シグリは、手を止めた。止めて、少し笑った。それから船首のほうへ戻っていった。
老人が、そのあとで言った。
「あれは、あんたを止めたのではない」
「え」
「紙を取ろうとしたのは、燃やすためではない」と老人は言った。「読める者が持っておるほうがいい、と思っておる。ただ、あんたがそれを渡さんのを見て、渡さんほうがいいと考え直した」
「どうして分かるんですか」
「九年見ておるからな」
彼は座り直した。
「わしも、そう思う」と彼は言った。「あんたが持っておれ」
「持ってて、どうするんですか」
「知らん」
「知らないって」
「わしは読めん」と老人は言った。「読めん者が、読める者に、持ち物の使い道を教えられるか」
船が出た。
北五峡の峡が後ろへ流れて、両側の高いところが低くなって、それから海へ出た。
わたしは、船尾から谷のほうを見ていた。
見えるはずがなかった。谷は奥にあって、海からは見えない。それでも、しばらくそちらを見ていた。
老人が、隣で言った。
「二度目だ」
「はい」
「あと一度」




