名前を訊かない村
センでの仕事は単純で、覚えることは幾日かで終わり、あとは毎日それを繰り返すだけだった。
灰は縁から掘る。海の中へ入ってはいけない決まりで、縁に沿って杭が打ってあり、その杭より奥へ行った者はその日のうちに戻らないことがあるという言い方をされた。掘った灰は籠で運び、櫓の上の粗い篩と細かい篩に順にかけ、粒の揃ったものだけを麻袋に詰める。詰めた袋は口を二重に縫って、荷馬車が来る日まで小屋へ積んでおく。
その灰は東へ運ばれ、建物を建てるときに石と石のあいだへ練り込む糊のようなものになるのだと、あとで教わった。灰海の灰を混ぜた壁は割れにくいのだそうで、聖都の大きな穹堂の壁にも入っているという話だった。神罰で焼けた土地から掘り出したものが、神を祀る建物の壁に塗り込んである。誰もそれを可笑しいとは言わなかった。
値はいつも向こうが決めた。村が言い値を出すことはなく、司祭が紙に書いた数字がその月の値になった。それでも誰も文句を言わないのは、ほかに買う相手がないからで、ほかに買う相手がないのは、この灰を欲しがるのが教会だけだからだった。
わたしは篩の係になった。子供の背丈でも櫓の下段には届いたし、指が細いほうが目詰まりを直しやすいということだった。
一度、風のない村で風が吹いた。吹いたと言うほどのものではなく、灰海のほうから空気がひとかたまり動いてきただけだったけれど、櫓の上の細かい篩がそれで舞った。目に入った灰は水では出ない。涙が出るだけで、粒はそこに残る。半日、片目をつぶって仕事をした。誰も手を止めなかった。手を止めるようなことではなかった。
一日じゅう灰を触っていると、爪の内側が白くなった。洗っても落ちず、井戸の水で擦っても、指の皮膚の皺の一本一本に入り込んだ灰が白い線になって残った。村の大人はみな同じ手をしていて、村の中では誰の手も同じに見えた。あの林の夜に見た自分の指先の白さが、これでどれなのか分からなくなった。
夜になると村じゅうが咳をした。家と家が近いので誰の咳かはだいたい分かった。左の家の男が最初に始め、それが向かいへ移り、少し間があってから遠くの端の家で老人が長く咳き込む。順番まで毎晩ほとんど同じだった。慣れるまで眠れず、慣れてしまうと、その音がないと落ち着かなくなった。
咳のしない夜が一度あった。端の家の老人が咳をしないまま朝になり、それで全員が気づいた。埋めるのは村の外の、灰海とは反対側の斜面と決まっていた。掘るのは若い者で、掘っているあいだ誰も何も言わなかった。名を訊かない村では、墓に彫る名もない。石を置くだけだった。
村の大人で、ここに生まれた者はいなかった。訊いたわけではない。訊いてはいけないのだから訊いていない。ただ、暮らしていれば分かることがあった。手の甲に焼き印を消した跡がある男がいて、その跡は消しきれていなかった。北の訛りで寝言を言う女がいた。食事の前に胸の前で環を描く仕草をしかけて、途中でやめる男がいた。やめるということは、以前はしていたということだった。
誰も来歴を語らず、そのかわり誰も他人の来歴を推し量る顔をしなかった。
子供のほうは、大人ほど上手には黙っていられなかった。この村で生まれた子は自分の生まれを平気で口にした。よそから来た子は違って、いつ来たのかも、どこから来たのかも言わず、訊かれても答えないことに慣れていた。わたしはひと月もしないうちにそちら側の子になった。
トゥーという男の子がいた。わたしより少し上に見えたが、正確なところは本人も含めて誰も知らなかった。トゥーというのも本当の名ではなく、来たときに寝かされた小屋にそういう呼び名がついていたというだけのことだった。彼はほとんど喋らなかった。喋らないくせに、篩の目が詰まるといつのまにか横に来ていて、黙って直し、また黙って自分の持ち場へ戻っていった。
一度、彼が寝言を言うのを聞いた。なにを言っているのかは分からなかったが、言葉が途中で切れ、そのあと長く息を吸う音がして、それきり静かになった。翌朝の彼はいつもどおりだった。
針のことがメレに知れたのは、そのころだった。寝床の下の土に埋めておいたのを、彼女が寝具を干しに来て見つけた。
取り上げられるかと思って身構えたが、メレは針を指の腹で転がし、彫ってある線を光にかざして、それからずいぶん長いこと黙っていた。
「どこで拾った」
「拾ったんじゃない」
「そうか」と彼女は言い、それ以上訊かなかった。訊かない決まりだった。
その代わりに教えてくれた。
「これは北の刻み針だ。刺すための針じゃない。彫るための針だよ」
「彫る」
「体に。肌を割って、下へ印を入れる。北の連中がやる」
「なんのために」
メレはわたしの顔を見た。
「その話は、まだしない」
「まだ、っていつ」
「あんたがそれを使わずに済む道が、全部なくなったときだ」
彼女は針をわたしの手へ戻し、埋めるならもっと深く埋めろ、とだけ言った。それから寝具を抱えて出ていこうとして、戸口で立ち止まり、咳をした。長い咳だった。
体を起こしたとき、戸口の光がまっすぐ彼女の手を照らした。
寝具を掴んでいる指を、わたしは見た。爪の内側が白いのは村の全員が同じだった。けれどメレの指は、そこから先が違っていた。第一関節から先だけ色が抜けていた。灰が入り込んだ白ではなく、洗えば落ちる白でもなく、内側から色をなくした白で、皮膚の下にうっすらと石の目のような筋があった。
わたしは自分の手を見た。
それから、もう一度、彼女の手を見た。




