灰を掘る人
その車には幾日か乗った。
はじめの晩、女は焚火の向こうから乾いた麺麭のかけらを投げてよこし、自分は水に浸したものを噛んでいた。歯がもうあまり残っていなかった。次の晩には塩漬けの何かをくれた。そのあいだ、わたしのことは何ひとつ訊かなかった。
その代わり、こちらから訊いたことには短く答えた。女の名はメレといった。それが本当の名かは分からない、と本人が言った。村ではみんなそう呼ぶ、というだけの言い方だった。年を訊いたら、覚えていない、と答え、そのあとで、まあ相応に食っている、と付け足した。
一度だけ、彼女がこちらを見て口を開きかけたことがあった。何か訊こうとして、訊く前にやめた。やめてから、水袋を差し出した。訊かなかったぶんを何かで埋めるような手つきだった。
咳をよくした。話しているとちゅうで急に途切れ、体を折るようにして咳き込み、しばらくしてから何事もなかったように続きを話した。わたしが黙って見ていたらしく、これは病じゃない、と言われた。
「灰を吸った者はみんなこうなる。年季の勘定みたいなものだ」
焚火を挟んで座っているときに、わたしは訊いた。
「その灰は、なんの灰なの」
「なんの、というのは」
「燃やしたあとの灰でしょう。なにを燃やしたの」
メレは火を見たまま、しばらく答えなかった。
「なにも燃やしちゃいない」とやがて言った。「あれは焼けた跡じゃないんだ。焼けた跡なら炭が出る。骨も出る。あそこには何ひとつ出ない」
「じゃあ、なに」
「残ったものだよ。持っていかれたあとに、残ったもの」
わたしには意味が分からず、彼女もそれ以上説明する気はないようだった。話しているあいだ、一度も火から目を離さなかった。
西へ行くにつれて空が変わっていった。はじめは雲が減ったのだと思い、次に、雲がないのではなく空全体が薄く濁っているのだと分かった。青の上に灰色の紗を一枚かけたような、どこにも切れ目のない色だった。しまいには日の位置が判然としなくなった。明るいのに、影の向きが読めなかった。
そして、風がなくなった。
風がやんだのではなかった。やむというのは吹いていたものが止まることで、ここでは最初から吹いていなかった。幌が揺れず、草が動かず、焚火の煙がまっすぐ立ちのぼって、ほどけもせずに上へ消えた。
「季節がないんだ」とメレは言った。「暑くも寒くもならん。雨も降らん。冬も来ない」
「どうして」
「取られたからだよ」
それ以上は言わなかった。
その晩、わたしは煙を見ていた。焚火の煙が上へまっすぐ伸びて、途中でほどけないまま消えるのを、ずっと見ていた。家の竈の煙は横へ流れるものだった。母が竈の前にしゃがんで、煙の来るほうへ手を振って追い払うのを、わたしは何度も見ている。ここでは追い払う必要がない。誰も手を振らない。
灰海が見えたのは、丘の上に出たときだった。
視界のむこう半分が全部それだった。平らで、灰色で、端がどこにあるのか見えなかった。海と呼ばれているのに水はなく、砂漠のようでいて砂の起伏もなく、均されたように平たいものが視界の限りまで続き、その上に低く霞がかかって、霞の向こうにも同じものがあることだけが分かった。
音がしなかった。丘の上には人がいて、車も牛もいたのに、その全部の音が灰海の側へ吸い込まれていくように薄かった。
「三日だ」としばらくして彼女が言った。「あそこへ入って三日で、人は起き上がれなくなる。理由は誰も知らない。知らないままみんなそう言う」
「入った人を見たことがあるの」
「ずいぶん前にね。北から流れてきた男で、賭けをしたんだ。戻ると言って入っていって、言ったより遅れて出てきた」
「生きてたの」
「自分の足で歩いて出てきたよ。それから寝込んで、死んだ」
彼女はそこで咳き込み、それから灰海のほうを顎で示した。
「傷ひとつなかったし、熱も出なかった。ただ日に日に薄くなっていった。血が抜けたんでも、肉が落ちたんでもない。そういう抜け方じゃないんだよ」
村は灰海の縁から少し手前にあった。センという名だった。土壁の家が、掘り出した灰の山と、篩にかける櫓と、袋を積む小屋を囲んで並んでいて、家より櫓のほうが立派だった。垣根はなかった。柵も、門も、見張り台もなかった。
「囲うものがない」とわたしが言うと、メレは初めて笑った。笑うとまた咳き込んだ。
「囲ってどうする。ここは誰の土地でもない。取りに来る値打ちがないから、誰の土地でもないままなんだ」
荷を降ろす男たちがこちらを見て、わたしを見て、それからメレを見た。誰も何も訊かなかった。ひとりが顎をしゃくって井戸のほうを指した。それだけだった。
井戸へ行く途中で、子供たちの前を通った。籠を運ぶ手を止めて、こちらを見ていた。見ているのに、誰も近寄ってこなかった。新しい子が来たときにどうするかが、この村では決まっているらしかった。決まっているとおりに彼らは見て、それから仕事へ戻った。ひとりだけ、少し長く見ていた男の子がいた。
夕方になって、わたしは自分の名を言おうとした。拾われて、食べさせてもらって、寝る場所をもらったのだから、まず名を言うものだと思っていた。
「わたし」と言いかけたところで、メレが片手を上げた。
「言うな」
強い声ではなかった。
「ここでは訊かない。訊かないから、言わない。それだけの決まりだ」
「どうして」
「知らなければ、売れないからだよ」
その晩、わたしは寝床の中で自分の名を口の中だけで言った。マルグリット、と言って、それからアステ、と言った。声には出さなかった。どちらも、返事をする者がいなかった。




