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『百二十一人目』 ~魔力を持って生まれた子〜  作者: 音


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北の言葉

目が覚めたとき、眠っていたのか気を失っていたのかが分からず、それを考えているあいだに体が動かないことのほうが先に分かった。服が肌に貼りついてそこだけ冷たさが濃く、指を開こうとすると関節が錆びた蝶番のように渋った。

雨は上がっていた。木々の間から入ってくる光がずいぶん高いところにあった。

握ったままの針を明るいほうへ持っていって見た。わたしの小指ほどの長さで、太さは麦の茎ほどあり、先は鋭いのに全体はどこか鈍く、鉄というより石に近い手触りがした。平たく潰してある側に彫ってあるのは文字ではなく、短い線を角度を変えて重ねただけのもので、模様と呼ぶには少なすぎ、印と呼ぶには読めなさすぎた。

母が最後に言った音を思い出そうとして、思い出せなかった。喉の奥で詰まるような音がひとつ混じっていたことだけが耳に残っていた。

母は縫い物で銭を取っていた。父の帳付けの給金では足りず、近所の繕い物を引き受けて、夜になると窓際へ椅子を寄せ、日が落ちきるまで針を動かしていた。蝋燭は使わなかった。もったいないからだと言っていた。

一度、母が縫っているところへ隣家の女が来たことがある。北の者は目がいいから助かる、とその女は言った。母は笑って、ええ、とだけ答え、その日の残りを黙って縫っていた。

母はこの街で北の言葉をひとつも使わなかった。使わずにいたその年月を全部飲み込んだうえで、最後に、いくつもない音を吐き出していった。

歩く方角は決めるまでもなかった。あの人が顎で示した先へ行けばよく、そこが川でないことも、その人が知っていて言ったことも、もう分かっていた。

林を抜けると麦畑が続き、麦畑が途切れると土が痩せはじめた。半日も歩かないうちに畑と呼べるものは消えて、灌木と石ころと、風に曲がった細い草だけになった。人の背丈より高いものが視界から減っていくのが怖かった。隠れる場所が減るということだった。

前の日から何も食べていなかった。空腹は昼を過ぎたあたりで一度消えて、消えたあとに別のものが来た。頭の中に薄い膜が張ったようになり、足を出すことと足を出そうと考えることのあいだに、少しずつ間が空きはじめた。水は途中の窪みに溜まっていたのを飲んだ。牛の足跡の中の水だった。飲んでから、それが牛の足跡だと分かった。

街道に出たのは日が傾きかけたころで、思っていたよりずっと広い道に、轍が深く掘り込まれていた。

荷馬車が通っていくのを、わたしは石の陰から見ていた。東へ向かう車はどれも麻袋を積み上げて幌をかけ、車輪が軋むほど重そうで、袋の縫い目から灰色の粉が細く漏れて、通ったあとの道に薄く尾を引いていた。西へ戻る車は空で、軽い音を立てて速く走っていた。

灰は西から来て東へ行き、車だけが西へ帰る。

わたしはそのとき、灰が何であるかも、それがどこから掘られてくるかも知らなかった。空の車のほうが乗りやすいということだけが分かった。

見ているあいだに、荷馬車ではないものが通った。駅逓の早馬が鞍の後ろへ革の筒を括りつけて東へ抜け、それからしばらくして騎馬の一隊が来た。同じ色の外套を着て、鞍の脇に細長い包みを提げていた。先頭の馬が石の陰のすぐ近くを通ったとき、わたしは息を止めて、通り過ぎるまで数えた。

彼らがわたしを探していたのかどうかは分からない。ただ、あの一隊は速すぎた。荷を運ぶ者の速さではなかった。

荷馬車の御者たちは、行き違うときに互いへ手も上げなかった。同じ道を同じ荷で行き来しているのに、目を合わせないで通り過ぎた。そのかわり、どの御者も似た咳をしていた。車が石を踏んで揺れるたびに幌の中から乾いた咳が上がり、それが道の先へ間を置いて連なっていくのが、遠くからでも分かった。

道端で車が停まったのは、御者が水を飲むためだった。わたしは荷台の後ろから這い上がり、床板の隅にうずくまって幌の垂れを引き寄せた。

車が動きだしてすぐ、匂いに気がついた。乾いていて、少し甘く、そのくせ喉の奥に引っかかる匂いだった。荷を降ろしたあとの空の車でさえ床板の継ぎ目や幌の裏側に灰が残っていて、揺れるたびに細かく舞い上がった。しばらくすると咳が出た。こらえようとして、こらえきれずに出た。

幌が外から捲られたのは、それから間もなくだった。

明かりを背にして立っていたのは老いた女で、頭に巻いた布の下から白っぽい髪がほつれ、片手にまだ水袋を提げていた。わたしを見つけても声を上げず、驚いた顔もしなかった。

わたしは何か言おうとして、言うべきことがひとつも見つからなかった。名前を言ってはいけないということだけが、なぜか先に分かっていた。

女はしばらくわたしを見て、それから幌を捲ったまま片手を出し、荷台の隅に押し込んであった布切れを取ってこちらへ放った。

「口を覆え」

しゃがれた声だった。

「吸うと、あとで難儀する」

わたしが布を受け取ると、女はもう見もしないで幌を下ろし、御者台へ戻っていった。

腹が鳴ったのは、車が動きだしてしばらくしてからだった。自分の腹の音なのに、他人のもののように大きく聞こえた。幌の向こうで御者台がきしみ、それから何かが荷台へ放り込まれた。乾いた麺麭のかけらだった。わたしはそれを、噛まずに飲み込んだ。

名前も、どこから来たのかも、なぜ荷台にいるのかも訊かれなかった。

車が動きだして、わたしは布を口に当てた。布は何度も洗われて薄くなっていたが、洗ってもとれなかった灰の色が繊維の奥に残っていた。

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