白い水
朝からの雨で穹堂の石段は黒く濡れていて、そこに子供が並んでいた。背丈がどれも似ているのは同じ年に生まれた者ばかり集めてあるからで、この街でその年になった子は残らずここへ来ることになっており、来なかった家がどうなるかについては誰も口に出さないまま全員が知っていた。
わたしは列の後ろのほうにいて、母がわたしの手を握っていた。その手はいつもと同じに冷たく、北の生まれだからだと父はいつも言っていたけれど、わたしは母の手が温かかったことを知らないので、それが北のせいなのか母のせいなのか確かめようがなかった。
「アステ」と母が呼んだ。
わたしの名前はマルグリットで、教会の名簿にもそう書いてあり、それは父がつけた名だった。母はその名でわたしを呼んだことがなく、家の戸を閉めてしまえばわたしはいつでもアステで、道へ出るとまたマルグリットに戻るという決まりのようなものが、うちにはあった。
「なに」
「今日のことは、よく見ておきなさい」
「なにを」
母は答えず、握った手の力をわずかに強くしただけだった。
列が進むにつれて前のほうで何度か声が上がり、そのたびに誰かの親が泣いた。泣いているのに嬉しそうで、隣に立っていた女が白だと言い、その隣の男が白だってさと繰り返したので、白というのが良いものらしいということだけはわたしにも分かった。雨は上がらず、石段を上がるころにはみな肩まで濡れていた。
穹堂の中は昼でも暗く、古い蝋燭の匂いがこもっていた。正面に司祭が立ち、その前の台に銀の浅い盆が置かれて水が張ってあったが、ただの水にしか見えなかった。
「両手を、入れなさい」
司祭はそれ以外を何も言わなかった。
わたしの前は痩せた男の子で、両手を水につけたまましばらくじっとしていたが、何も起こらないまま水は水のままで、司祭が白と言うと、後ろにいたその子の母親が小さく息を吐き、吐いてしまってから慌てて口を押さえた。
「次」
盆の水は思っていたより温かく、指を入れて手首まで沈めても、はじめのうちは何も起こらなかった。
それから水が光った。
蝋燭より淡い、琥珀を薄く溶かしたような色だった。穹堂の中が静かになり、司祭がわたしの顔を見て、それから名簿を見て、もう一度わたしの顔を見た。
「マルグリット」
「祝福を」
父が前へ出て司祭の手を取り、一族の名誉です、と言った。それから、もう一度同じことを言った。誰も聞いていなかった。
母は動かなかった。泣かず、声も出さず、そこに立っていた。
司祭が父のほうへ体を向けた隙に、母がわたしの手を取って、硬く細く冷たいものを握らせ、それから北の言葉で何か言った。音がいくつもない、ごく短い言葉だった。母が北の言葉を使うのを聞いたのは、それが二度目だった。聞き返そうとしたところで修道士がわたしの肩をつかんだので、わたしは握らされたものを袖の中へ落とした。
後で見ると、それは針だった。鉄の、太くて短い針で、縫い物に使うには太すぎ、片方の端が平たく潰してあってそこに何か彫ってあるようだったが、暗くて読めなかった。
馬車にはわたしのほかにも乗せられた。男の子たちと、わたしより小さい女の子。女の子は小さすぎて、この年には見えなかった。向かいに修道士が座って膝の上で名簿を開き、ときどき何か書き足しては頁をめくり、しばらくのあいだ誰も喋らないまま車輪の音だけがしていた。
「あの」と、小さい女の子が言った。「灰塔って、なんですか」
修道士は書く手を止めず、御者も何も言わなかった。男の子たちは窓の外を見ていたが、窓の外には雨の上がったあとの濡れた麦畑しかなかった。
女の子はもう一度、同じことを訊いた。
修道士が頁をめくって、紙のこすれる音がした。
わたしは袖の中の針を指先で探した。硬くて冷たく、それがわたしの持ち物の全部だった。
日が暮れてから馬車が止まったのは、橋の手前で川が増水していたからで、修道士が降りて御者と何か話しはじめ、そのうち声が高くなって、二人ともこちらを見ていなかった。わたしは扉にいちばん近いところに座っていた。
どうして走ったのか、うまく説明できない。考えて決めたわけではなく、考えていたら走らなかった。母の手が冷たかったことと、父が同じことを繰り返したことと、あの子の質問に誰も答えなかったことがいっぺんに来て、体のほうが先に動いた。
土手を降りて麦畑を突っ切ると、後ろで声がして、誰かがわたしの名を呼んだ。マルグリット、と呼んだ。だからわたしは振り向かなかった。その名で呼ばれる子なら、まだあの馬車の中にいる。
林に入る手前で追いつかれた。若い男で、まだ大人になりきっていない顔をしており、黒い髪を短く刈り、左の眉に古い傷があって、胸に縫い取られた紋章は暗くてよく見えなかった。あれだけ走ってきたのに息はそれほど乱れていなかった。
腰に剣を下げていた。
わたしは動けず、逃げるでも謝るでもなく、膝を笑わせて立っていた。男はわたしを見ていた。
彼は剣に手をかけないまま、一度うしろの馬車のほうを振り返り、それからわたしにも馬車にも属さない方角を顎で示した。
「そっちは川だ」
彼が示したのは、川とは反対の方角だった。
わたしが動けずにいると、男はもう一度、今度は少し早口で言った。
「そっちは川だと言った」
そして背を向けて来た道を戻っていき、振り返らなかった。
林の中をどれだけ走ったのかは覚えていない。木の根につまずいてからは歩き、歩けなくなって太い木の根元に座り込むと、また雨が降りはじめていて、葉が受けてくれるので直接は当たらなかったが、寒かった。
袖から針を出して両手で握った。それしか持っていなかった。震えが止まらないので自分の手を見ると、暗いのにそれは見えた。
指先が白かった。爪の先のすぐ下が、血の色だけ抜けたように白くなっていて、両手ともだった。
寒いからだ、とわたしは思うことにして、目を閉じた。




