眉の傷
世界は、まだ遅かった。
葦の穂が揺れているのが見えた。揺れが一往復するのに、ずいぶんかかった。自分の息の音が、耳の中で低く伸びていた。
その人は、こちらを見上げていた。
息が上がっていなかった。走ってきたはずなのに、あの日と同じだった。
胸の紋章が見えた。あの日は暗くて見えなかったものが、いまは見えていた。輪の中に、細い線が三本入っている。それが何を意味するのかを、わたしはこの二年で知る機会がなかった。
前より、少し老けていた。二年ぶんだけ老けていた。頬のあたりが痩せて、日に焼けて、目の下に薄い影があった。左の眉の傷は同じだった。
彼はわたしの顔を見た。
見て、それから、目が動いた。
わたしの右腕を見ていた。袖がまくれていた。水に入るときにまくって、そのままだった。腕の内側の線が、外に出ていた。
彼はそれを見ていた。見ているあいだに、目の中で何かが並び替わっていくのが分かった。
北の刻印を入れた子供が、北の船に乗って、南の村を焼きに来ている。
その並びの中に、わたしの顔が入る場所は、たぶん最初はなかった。
彼は動かなかった。抵抗もしなかった。動かないのは、動けないからでもあった。わたしの膝が彼の胸に乗っていて、その重さは、いまのわたしには軽かった。
「マルグリット」
彼が言った。
その名は、二年のあいだ一度も呼ばれていなかった。
呼ばれた瞬間に、体の中の何かが戻ろうとした。あの穹堂の、蝋燭の匂いのするところへ戻ろうとした。父が同じことを繰り返している声と、母の冷たい手と、それから、馬車の中で誰も答えなかった質問へ。
わたしは、答えなかった。
答えるということが、どういうことなのかを、わたしはもう知っていた。灰縁の村で教わった。名前は身元ではない。帳面と引き合わせるための鍵だ。合う鍵を出せば、錠が開く。
開けたくなかった。
二年のあいだに、わたしはいくつかの名を持った。
穹堂の名簿にあるマルグリット。母だけが呼んだアステ。灰縁の村では何も名乗らず、北の峡でアステ・ヴァイダドッタになり、この船では南の子と呼ばれている。
そのうち、帳面に載っているのは一つだけだった。
載っている一つを言えば、残りの全部が消える。
彼はもう一度、同じ名を言った。今度は疑問の形だった。確かめていた。
わたしは首を横に振った。
振ってから、それが答えになっていることに気づいた。振るというのは、違うという意味だ。違うと言えば、それは嘘だった。嘘をつくなら、何も言わないほうがよかった。
けれど、首を振ったのは嘘ではなかった。
マルグリットという子は、あの馬車から降りなかった。降りなかったことになっている。帳面の上ではそうなっている。
帳面がそう言っているのなら、わたしは違うと答えていいはずだった。
彼の目が変わった。
分かった、という目だった。分かったうえで、どうするかを考えている目だった。
遠くで、鉄の音が動いていた。近づいてきていた。彼の連れが、こちらへ来ようとしていた。
わたしは立ち上がった。
立ち上がるのは、まだ跳ねる動作になった。彼は起き上がろうとして、片手を地面についた。
そのとき、彼が言った。
「川へ行くな」
わたしは止まった。
「船は、もう出た」と彼は言った。「上流に堰がある。堰を落としてある。水が引いてる」
わたしは、川のほうを見た。葦の向こうは見えなかった。
「下流に回るなら、そっちだ」
彼は、葦の切れているほうを指した。
指したのは、川とは違う方角だった。
わたしは、その方角を見た。
葦が切れて、その先は畑だった。畑には隠れる場所がない。平らなところを走る者は、ずっと見えている。
北では、逃げる先は上だった。ここには上がない。
あの人が指したほうへ行けば、わたしは畑の真ん中を走ることになる。
わたしは彼を見た。
二年前、雨の上がった麦畑で、この人は同じことをした。そっちは川だ、と言って、川と反対の方角を指した。
いまは、反対のことを言っていた。川へ行くな、と言って、川ではないほうを指していた。
どちらが嘘なのか、わたしには分からなかった。
「どうして」
わたしは訊いた。二年ぶりに、その人に向かって喋った。
彼は答えなかった。
鉄の音が、葦の際まで来ていた。
「行け」と彼は言った。
わたしは走った。
彼の指したほうへは行かなかった。川のほうへ走った。
走りながら、なぜそうしたのかを自分で考えていた。信じなかったからではなかった。信じるとか信じないという話ではなかった。
あの人は帳面の内側にいる。内側にいる人間は、いつか帳面のほうを選ぶ。エルネスがそう言った。ヘルヴィも同じことを言った。二人とも、それを自分でやった側だった。
けれど、そういうことではなかった。
あの人は、あの日わたしを逃がした。逃がしたことを、たぶん帳面には書かなかった。書かなかったから、二年経ってもわたしを探す者がいて、回状に別名の可能性ありと添えられた。
つまり、あの人はまだ選んでいなかった。
選んでいない者が指す方角は、どちらへも転ぶ。転んだあとで、あれが親切だったのか罠だったのかを確かめる手立ては、わたしにはない。
確かめられないものに、体を預けたくなかった。
わたしは、この人がまだ選んでいないほうへ賭ける気になれなかった。
葦を抜けたところで、川が見えた。
水は引いていなかった。
船は、まだそこにいた。
堰は落ちていなかった。水は引いていなかった。
わたしは走りながらそれを見て、そして、走るのをやめなかった。
あの人が嘘をついたのか、嘘だと思われることを承知で本当のことを言ったのか、それとも自分でも知らないことを言ったのか。どれなのかは、そのとき分からなかったし、いまも分からない。




