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『百二十一人目』 ~魔力を持って生まれた子〜  作者: 音


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眉の傷

世界は、まだ遅かった。

葦の穂が揺れているのが見えた。揺れが一往復するのに、ずいぶんかかった。自分の息の音が、耳の中で低く伸びていた。

その人は、こちらを見上げていた。

息が上がっていなかった。走ってきたはずなのに、あの日と同じだった。

胸の紋章が見えた。あの日は暗くて見えなかったものが、いまは見えていた。輪の中に、細い線が三本入っている。それが何を意味するのかを、わたしはこの二年で知る機会がなかった。

前より、少し老けていた。二年ぶんだけ老けていた。頬のあたりが痩せて、日に焼けて、目の下に薄い影があった。左の眉の傷は同じだった。

彼はわたしの顔を見た。

見て、それから、目が動いた。

わたしの右腕を見ていた。袖がまくれていた。水に入るときにまくって、そのままだった。腕の内側の線が、外に出ていた。

彼はそれを見ていた。見ているあいだに、目の中で何かが並び替わっていくのが分かった。

北の刻印を入れた子供が、北の船に乗って、南の村を焼きに来ている。

その並びの中に、わたしの顔が入る場所は、たぶん最初はなかった。

彼は動かなかった。抵抗もしなかった。動かないのは、動けないからでもあった。わたしの膝が彼の胸に乗っていて、その重さは、いまのわたしには軽かった。

「マルグリット」

彼が言った。

その名は、二年のあいだ一度も呼ばれていなかった。

呼ばれた瞬間に、体の中の何かが戻ろうとした。あの穹堂の、蝋燭の匂いのするところへ戻ろうとした。父が同じことを繰り返している声と、母の冷たい手と、それから、馬車の中で誰も答えなかった質問へ。

わたしは、答えなかった。

答えるということが、どういうことなのかを、わたしはもう知っていた。灰縁の村で教わった。名前は身元ではない。帳面と引き合わせるための鍵だ。合う鍵を出せば、錠が開く。

開けたくなかった。

二年のあいだに、わたしはいくつかの名を持った。

穹堂の名簿にあるマルグリット。母だけが呼んだアステ。灰縁の村では何も名乗らず、北の峡でアステ・ヴァイダドッタになり、この船では南の子と呼ばれている。

そのうち、帳面に載っているのは一つだけだった。

載っている一つを言えば、残りの全部が消える。

彼はもう一度、同じ名を言った。今度は疑問の形だった。確かめていた。

わたしは首を横に振った。

振ってから、それが答えになっていることに気づいた。振るというのは、違うという意味だ。違うと言えば、それは嘘だった。嘘をつくなら、何も言わないほうがよかった。

けれど、首を振ったのは嘘ではなかった。

マルグリットという子は、あの馬車から降りなかった。降りなかったことになっている。帳面の上ではそうなっている。

帳面がそう言っているのなら、わたしは違うと答えていいはずだった。

彼の目が変わった。

分かった、という目だった。分かったうえで、どうするかを考えている目だった。

遠くで、鉄の音が動いていた。近づいてきていた。彼の連れが、こちらへ来ようとしていた。

わたしは立ち上がった。

立ち上がるのは、まだ跳ねる動作になった。彼は起き上がろうとして、片手を地面についた。

そのとき、彼が言った。

「川へ行くな」

わたしは止まった。

「船は、もう出た」と彼は言った。「上流に堰がある。堰を落としてある。水が引いてる」

わたしは、川のほうを見た。葦の向こうは見えなかった。

「下流に回るなら、そっちだ」

彼は、葦の切れているほうを指した。

指したのは、川とは違う方角だった。

わたしは、その方角を見た。

葦が切れて、その先は畑だった。畑には隠れる場所がない。平らなところを走る者は、ずっと見えている。

北では、逃げる先は上だった。ここには上がない。

あの人が指したほうへ行けば、わたしは畑の真ん中を走ることになる。

わたしは彼を見た。

二年前、雨の上がった麦畑で、この人は同じことをした。そっちは川だ、と言って、川と反対の方角を指した。

いまは、反対のことを言っていた。川へ行くな、と言って、川ではないほうを指していた。

どちらが嘘なのか、わたしには分からなかった。

「どうして」

わたしは訊いた。二年ぶりに、その人に向かって喋った。

彼は答えなかった。

鉄の音が、葦の際まで来ていた。

「行け」と彼は言った。

わたしは走った。

彼の指したほうへは行かなかった。川のほうへ走った。

走りながら、なぜそうしたのかを自分で考えていた。信じなかったからではなかった。信じるとか信じないという話ではなかった。

あの人は帳面の内側にいる。内側にいる人間は、いつか帳面のほうを選ぶ。エルネスがそう言った。ヘルヴィも同じことを言った。二人とも、それを自分でやった側だった。

けれど、そういうことではなかった。

あの人は、あの日わたしを逃がした。逃がしたことを、たぶん帳面には書かなかった。書かなかったから、二年経ってもわたしを探す者がいて、回状に別名の可能性ありと添えられた。

つまり、あの人はまだ選んでいなかった。

選んでいない者が指す方角は、どちらへも転ぶ。転んだあとで、あれが親切だったのか罠だったのかを確かめる手立ては、わたしにはない。

確かめられないものに、体を預けたくなかった。

わたしは、この人がまだ選んでいないほうへ賭ける気になれなかった。

葦を抜けたところで、川が見えた。

水は引いていなかった。

船は、まだそこにいた。

堰は落ちていなかった。水は引いていなかった。

わたしは走りながらそれを見て、そして、走るのをやめなかった。

あの人が嘘をついたのか、嘘だと思われることを承知で本当のことを言ったのか、それとも自分でも知らないことを言ったのか。どれなのかは、そのとき分からなかったし、いまも分からない。

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