麦の川
わたしは、その塔をずいぶん長いこと見ていた。
この国のどこにでもあるものだった。それでも、見た瞬間に息が詰まった。詰まってから、なぜ詰まったのかを考えた。
蝋燭の匂いを思い出したからだった。匂いを思い出すというのは、匂いがしていないのに、鼻の奥がその形になることだった。
形が同じだった。わたしの街の穹堂と、屋根の傾きが同じで、天辺の細いところの立ち方が同じだった。同じ形のものを、同じように建てる決まりがあるのだと、そのとき初めて分かった。
同じ形の建物の中には、同じ形の台があって、同じ銀の盆が置いてある。
その盆に手を入れる日が、この土地の子供にも毎年来る。
わたしがいま乗っている船は、その子たちの村の納屋を取りに来ていた。
盆に手を入れて白と出た子が、この冬に麦を失う。光った子は連れて行かれて、麦のことを心配しなくてよくなる。
どちらがましなのかを、また決められなかった。
「南だ」と老人が言った。
「知ってます」
彼はこちらを見た。
「どこの南だ」
わたしは答えなかった。
「言わんでいい」と彼は言った。「言えば、あんたはこの船で別のものになる。道を知っている者は、道を訊かれる」
川は思っていたよりも広かった。
広いのに浅い。船の底が何度か擦った。擦るたびに漕ぎ手が竿へ持ち替えて、押した。この船が浅くできている理由が、そこでもう一度分かった。
竿で押すときは、全員が同じ側に立った。片側へ寄せて船を傾け、底の擦っているところを浮かせて、それから押す。手順があった。手順があるということは、毎年ここを通っているということだった。
浅くなる場所まで覚えている。そういう相手に、この国は備えていなかった。
両岸に麦の畑が続いていた。冬なので、刈ったあとの茎が残っているだけだった。
畑と畑のあいだに、道があった。道は畑の縁を通って、遠くの塔のほうへ伸びていた。
その道を、荷車が一台走っていた。
こちらを見て走っているのではなかった。ただ走っていた。荷車の速さは、船の速さと同じくらいだった。しばらく並んで進んだ。
御者はこちらを見なかった。川に船がいることに、気づいていないようだった。
「気づかないんですか」
「船は川を上がらんものだと思っておる」と老人が言った。
「でも、目の前にいます」
「目の前におっても、船だと思わん」と彼は言った。「あるはずのないものは、見えても見えん。人はそういうふうにできとる」
わたしは、その荷車を見ていた。
麦を運ぶ車ではなかった。荷台に樽が積んであった。樽を運ぶのは、たいてい塩か、油か、酒だった。
御者は一人で、連れはいなかった。荷を積んで一人で走るというのは、その道が安全だと思っているということだった。
あの道を、あと何日か経ってから走る者は、同じようには走らないだろうと思った。
日が傾くころ、船は止まった。
葦の中へ突っ込んで、そこで待った。火は焚かない。声も出さない。漕ぎ手が交代で眠り、起きている者は水の音を聞いていた。
夜のあいだに、シグリが船尾へ来た。
老人に何か言い、それからわたしの前にしゃがんだ。前と同じように、右の袖をまくって、腕の内側を見た。
線の周りは、もう完全に塞がっていた。塞がったところが、白く盛り上がっていた。
彼女は指でそこを押した。
押されて、痛くなかった。押した形が残らないで戻った。
彼女は何か言った。
「使えるな、と言っている」と老人が訳した。
わたしは答えなかった。
シグリはもう一度、何か言った。今度は短かった。
「使うか、と訊いておる」
「意味が分かりません」
老人は伝えた。シグリは笑わなかった。彼女は自分の腕の線を一つ叩いて、それから川上のほうを指した。
「明日、先に下りたときに、使うかと訊いておる」
「使ったら、どうなるんですか」
「上がる」
「そのあとは」
「二日、動かん」
「動かないあいだ、どうなるんですか」
老人が伝えた。
「荷と一緒に置く、と言っている」
「戦ってる最中でもですか」
「戦っておる最中に倒れた者は、拾える者が拾う」と老人は言った。「拾う者がおらんかったら、置いていく」
「さっき、置いていかないと言いました」
「船まで戻れた者は置いていかん、と言ったんだ」と彼は言った。「戻れんかった者の話はしておらん」
わたしは、ヘルヴィの言ったことを思い出していた。開けて、三つ数えて、それから使う。打たれない場所で開けろ。使わないで済むなら、それが一番だ。
「使いません」
老人が伝えた。
シグリは、少し首を傾げた。それから、また何か言った。
「なぜだ、と」
「一度しか使えないからです」とわたしは言った。「一度使ったら、二日動けません。二日のあいだに、船は帰ります」
老人が伝えた。
シグリは、そのとき初めて笑った。
「置いていく、とは言っておらん、と言っている」
「置いていかないんですか」
「動かん者は、船へ積む」と老人が訳した。「荷と同じだ。積んで帰る」
わたしは、そのことを考えた。
考えて、それでも答えは変わらなかった。
「使いません」とわたしはもう一度言った。「使わないで済むなら、それが一番です」
老人が伝えた。
シグリは、しばらくこちらを見ていた。
それから、自分の首の付け根の線に指を当てて、何か言った。
老人は、少し間を置いてから訳した。
「そう言った者が、いちばん長く生きる、と言っている」
彼女は立ち上がった。
「そのかわり、いちばん役に立たん、とも」
彼女は船首のほうへ戻っていった。
わたしは老人のほうを向いた。
「あの人は、七つ目を刻まないんですよね」
「刻まん」
「それも、いちばん役に立たないってことになりませんか」
老人は、しばらく黙っていた。
「なるな」と彼は言った。
「じゃあ」
「じゃあ、と言われてもな」と老人は言った。「自分に当てはめて考えん者は、たいてい人にだけよく喋る」




