沈み月の海
出たのは、月のない晩だった。
船は四隻だった。灰狼盟のほかに三隻。ほかの盟の船で、乗っている者の顔はどれも知らなかった。並んで走るのではなく、離れて走った。まとまっていると、遠くから見て船団に見える。散らばっていれば、漁の船に見える。
散らばったまま、どうやって同じ場所へ着くのかを、わたしはしばらく分からなかった。
星ではなかった。冬の海は曇る。日でもなかった。日は出ない日のほうが多い。
漕ぎ手の一人が、ときどき水に手を入れていた。入れて、しばらくそのままでいて、それから何か言う。言うと、舵を持っている者が少し向きを変えた。
「水の冷たさで分かるんですか」
「冷たさと、味だ」と老人が言った。「川の出とる海は、少し甘い。どの川がどのあたりで出とるかを覚えとる者が、船に乗っておる」
海は、峡の水とは違った。
峡では、水は両側の壁に挟まれていた。海は挟まれていなかった。船縁の高さが胸までしかないという意味を、そこで初めて本当に理解した。波が来るたびに、水が船の中へ入った。入ったぶんは掻き出す。掻き出す係が決まっていた。
わたしたち四人は、掻き出す係にされた。
一日目は面白かった。二日目には手が動かなくなった。三日目には、手が動かなくなっていることに気づかなくなった。
寒さは、灰海の寒さとも、北五峡の寒さとも違った。濡れているというのが違いの全部だった。乾いていれば、寒くても体は保つ。濡れていると、保たない。
灰海では、口を開けないことが一番大事だった。北五峡では、乾いた地面を探すことだった。海では、濡れたところを乾かす手立てがないというのが、いちばん厄介だった。
火は焚かない。着替えはない。乾かすには体温を使うしかない。使えば減る。
盟の者は、濡れた服の上から毛皮を着ていた。乾かさないで、濡れたまま保温する。その手があるのを、わたしは三日目に知った。知ってから真似た。誰も教えてくれなかった。見ていれば分かることは、この島では教えないのだった。
漕ぎ手も鈍かった。
沈み月の最中だった。この土地の者は冬に眠る。眠るはずの時期に船を出しているのだから、彼らも本調子ではなかった。交代の間隔が短くなり、漕いでいないときは荷にもたれて動かなかった。
「なぜ、いま出るんですか」と、わたしは老人に訊いた。
「向こうがもっと鈍いからだ」
「向こう」
「南の連中だ」と彼は言った。「あちらは冬に沈まん。沈まんが、寒さに慣れておらん。慣れておらん者は、冬の夜に外へ出たがらん。見張りが屋根の下へ入る」
「こっちは沈むのに」
「沈むぶんと、慣れとるぶんを引き算して、こっちが少し勝つ」と老人は言った。「少し勝つほうへ賭ける。それだけの話だ」
「負けたことはないんですか」
「ある」と老人は言った。「三年前だ。冬が緩くてな。南の連中が外に出ておった。二隻出て、一隻帰った」
「シグリさんの五つ目ですね」
老人がこちらを見た。
「よく覚えとるな」
「負けた年に刻んだって、聞きました」
「あれは、あの年に船を任されておった」と彼は言った。「率いて失敗した者は票が減る。三つ引かれて、翌年まで負債になる。負債のある者は先に立たされる」
「じゃあ、次の年に」
「先に立って、勝った」と老人は言った。「それが六つ目だ」
四日目に、男の子が動かなくなった。
熱を出したのではなかった。震えていたのが、震えなくなった。ランがそれに気づいて、声を上げた。
漕ぎ手の一人が来て、その子を見て、何か短く言った。それから、自分の毛皮を外して、その子にかけた。
わたしは、その男の顔を覚えた。
腕を出していた。刻印は一つだけだった。一つということは、遠征に一度しか出ていないということだった。
あとで、老人がその男のことを言った。
「あれが、シグリの連れ帰った捕虜だ」
「三度生きて帰った人ですか」
「そうだ」
「刻印が一つしかありません」
「盟に入ってからの一度ぶんだ」と老人は言った。「捕虜のあいだに出た三度は、数に入らん」
わたしは、その男の腕をもう一度見た。三度死にかけて、それが一度も刻まれていない腕だった。
夜になって、その子の震えが戻った。震えが戻ったのは良いことなのだと、ランが手真似で教えてくれた。
シグリは、その一部始終を船首から見ていた。何も言わなかった。
五日目の朝、陸が見えた。
低かった。北の陸は、水から立ち上がるように高い。この陸は、水と同じ高さから始まって、そのまま奥へ平らに続いていた。
わたしは、その平らさを知っていた。
麦を作る土地の形だった。
平らというのは、隠れるところがないということだった。
北では、逃げる先が山だった。峡でも谷でも、人は上へ逃げた。上へ逃げれば、船は追ってこられない。
ここには上がない。
逃げる者は、平らなところを走る。走っているあいだ、ずっと見えている。
船は陸沿いに走って、川の口を探した。探すというより、知っている場所へ向かっていた。一隻が先に入り、しばらくして合図が返り、残りが続いた。
川へ入ると、波が消えた。
水を掻き出す仕事がなくなって、わたしは初めて手を休めた。休めてから、指が言うことをきかないのに気づいた。曲げようとしても、途中で止まる。爪の下の白いところが、前より広がっていた。
濡れて凍ったせいなのか、そうでないのかは、分からなかった。
川岸に、枯れた葦が並んでいた。その向こうに、平らな土地が続いていた。
平らな土地の遠くに、細い塔が立っていた。
穹堂の屋根だった。




