返すものがない
その日の夕方、船は川岸へ寄せられた。
上陸するのではなく、水を汲むためだった。汲む者が下りて、残りは船に残った。シグリは下りなかった。
岸には人家がなかった。汲む場所は決まっているらしく、船は迷わずそこへ寄せた。何度も通っている川だった。
この船は、同じ道を毎年通っているのだと思った。同じ川を上がって、同じ村を焼いて、同じ場所で水を汲む。焼いた村がまた建っているから、また焼ける。
彼女は船尾へ戻ってきて、老人の隣に座った。
わたしは、訊いた。訊く相手を選んでいる場合ではなかったし、船の上で訊けることは限られていた。
「わたし、北の谷にいました」
老人が伝えた。
「そこの人たちは、取ったら返すって言ってました。木を伐ったら植える。取った量を柱に刻んで、決めた数を超えたら取らない。そういうふうにしてました」
シグリは聞いていた。
聞き方が丁寧だった。途中で遮らなかったし、退屈そうな顔もしなかった。老人が訳し終わるまで、こちらの顔を見ていた。
この人は北の作法を知っているのだと思った。知っていて、それでも別のことをしている。知らないでやっているのとは違った。
「あなたたちは、返さないんですか」
老人が伝えた。伝え終わると、シグリはこちらを見た。
彼女は短く答えた。
「返す、と言っている」と老人は言った。
「返すんですか」
「死ぬときに返す」
「え」
「海へ沈める」と老人は言った。「うちでは、死んだ者は埋めん。海へ沈める。それが返すということだ。生きているあいだは奪う。返すのは、その一度きりだ」
シグリはまた喋った。今度は長かった。老人は途中で止めて、順に訳した。
「海は魚から奪う」
「魚は小魚から奪う」
「返す者だけが取ってよいという決まりは、返せる土地に生まれた者の言い草だ」
「我々の島には、返すものがない」
シグリは、それを言ったあとで少し付け足した。
「あんたの言う北の谷も、返してはおらん、と言っている」
「返してます。木を植えてます」
老人が伝えると、シグリは首を振った。
「植えた木は、伐った木ではない、と言っている」
わたしは口をつぐんだ。
「伐ったものは戻らん。似たものがあとから生えるだけだ。それを返すと呼んでいるだけだ、と」
わたしは、何か言おうとした。
言うことが見つからなかった。
北五峡で、グリムは言っていた。木を伐ったら植える。植えないと、次に伐る木がない。それだけだ、と。あれは筋が通っていた。通りすぎるほど通っていた。
けれど、あれは木のある土地の理屈だった。
「あなたたちの島には、木がないんですか」
老人が伝えた。
シグリは首を横に振った。それから、指で薄い厚みを示した。
「土が薄い」と老人が言った。「火の山の島だ。掘ると石が出る。麦は、島全部でも人の五分の一しか食えん」
「残りは」
「奪う。買う。傭う」
「買うお金は」
「奪ったものを売る」
わたしは黙った。
輪になっていた。奪ったものを売って、売った銭で買って、買ったものが足りないから、また奪う。
「その輪、いつからですか」
老人は分からないという顔をした。
「ずっと前からだ」
「ずっとって、どのくらい」
「わしの祖父の代には、もうやっておった」
「毎年やるんですか」
「毎年だ」
「毎年、足りないんですか」
「足りん」
「足りないのが分かってるなら、島を出ればいいんじゃないですか」
老人が伝えると、シグリは笑わないで答えた。
「出た者はおる、と言っている」
「どうなったんですか」
「よその土地の者になった」と老人は言った。「よその土地には、よその土地の足りなさがある。そこでも下のほうに置かれる。下のほうに置かれた者は、票を持てん」
「じゃあ、来年も」
老人が伝えると、シグリは何か言った。短かった。
老人は訳すのを少し迷った。
「来年のことは、来年出た者が決める、と言っている」
わたしは、記録小屋の柱を思い出していた。
奥から手前へ、列が短くなっていく柱を。減り方はまっすぐではなく、増えた年もあり、それを上回る幅で落ち、少し戻って、戻りきらないまま次が落ちる。
北の谷は、取る量を刻んでいた。刻んでいるのに減っていた。
この島は、刻まないで奪っていた。
どちらも足りなかった。
どちらも、なぜ足りないのかを知らなかった。
「あの」
老人がこちらを見た。
「北の人たちは、取りすぎてはいけないって言ってました。でも、なんでいけないのかは、誰も知らないんです。ずっと前からそう言われてるから、そうしてるだけで」
老人は、それをシグリに伝えなかった。
「聞かせないんですか」
「聞かせても、同じことを言うだけだ」と彼は言った。「返せる土地の言い草だ、と言う」
彼は水を汲んで戻ってくる者たちのほうを見ていた。
「わしは、あんたの言うほうが気になるがな」
「え」
「なんで足りんのだ、という話だ」と老人は言った。「わしは若いころ、南の畑を焼いた。焼いた翌年、そこはまた麦を作っておった。三年目にも作っておった。土は減らん。魚も、獲りすぎなければ戻る。木も植えれば伸びる」
彼はもう一度、自分の動かない脚を叩いた。
「なのに、どこもかしこも足りんようになっていく。わしが子供のころより、いまのほうが足りん」
「どうしてですか」
「知らん」と彼は言った。「知らんが、あんたも同じことを訊いておる」
「わたしのほかにも、訊いた人がいるんですか」
「おった」と彼は言った。「ずっと前に、南の坊主が一人、捕まってこの船に乗ったことがある。あれも同じことを訊いておった」
「その人は」
「三度出て、二度目で死んだ」
老人は水を汲む者たちのほうを見たままだった。
「訊いた者が生き残った例を、わしは知らん」




