灰狼盟
船は、思ったよりも狭かった。
漕ぐ場所が両側にあって、真ん中の細い通路に荷が積んである。屋根はない。雪が積もると誰かが掻き出す。人はその荷のあいだと、漕ぎ手の足元に押し込まれた。
わたしたちは、船尾に近いほうへ入れられた。
峡から出るとき、わたしは水の色を見ていた。
浅い船だというのは、斜面から見たときの印象だった。乗ってみると、水面が近いというのはこういうことかと分かった。手を伸ばせば届いた。船縁の高さがわたしの胸ほどしかなくて、揺れると水が入ってきた。
こんなもので海を渡るのかと思った。
それから、その浅さの意味が分かった。
船は峡を出て、海へは向かわないで、海沿いに走った。走って、次の川の口へ入った。川を上がった。
わたしの街には川があった。あの川を、船が上がってくることを、誰も考えたことがなかった。船が来るのは港で、港は海にあるものだった。
この船は、川を上がる。
上がった先には、港ではないものがある。
港には守りがある。城もある。城には兵がいる。
川の上には、それがない。あるのは村だった。
城は食えない、とあとで老人が言った。城を落とすには何日もかかるし、落としても中にあるのは石と兵で、麦は外の村にある。だから城には近づかない。守備隊が集まる前に、外だけ取って離れる。
そのために、船が浅くできている。
一日目の夜に、右へ分けられた者の数が減った。
減ったのではなく、別の船へ移されたのだと、あとで分かった。船は一隻ではなかった。峡に入ったときは何隻いたのか、わたしは上から見て数えていなかった。数えておけばよかったと思った。
同じ船に残ったのは、わたしと、わたしより少し年上の女が二人と、男の子が一人だった。
女たちはこの土地の言葉しか話さなかった。男の子は何も話さなかった。
その子は、わたしより小さかった。灰縁の村へ運ばれる馬車で、灰塔ってなんですかと訊いた女の子と、同じくらいだった。
二日ほど何も食べなかった。三日目に、漕ぎ手の一人が干した魚を割ってよこして、それは食べた。
誰も、その子を殴らなかった。誰も、優しくもしなかった。荷と同じ扱いだった。荷は殴らない。
漕ぎ手は、途中で交代した。
交代の仕方に順番があった。誰がいつ漕ぐかが決まっていて、決まったとおりに動いた。誰も指図しなかった。北五峡の仕事の割り振りに似ていたが、あちらは順番がなくて回っていたのに対して、こちらは順番がきっちりあって回っていた。
順番を破る者はいなかった。破れば次の遠征でどうなるかが決まっているのだと、あとで分かった。この島のことは、たいてい次の遠征でどうなるかで決まっていた。
夜になると、火は焚かなかった。
船の上で火を焚けば見える、というだけではなかった。焚くものがなかった。木は積んでいなかった。積んでいたのは、麦の袋と、塩と、峡から持ち出したものだった。
三日目に、老人が話しかけてきた。
この船で、その人だけが老人だった。ほかの者はみんな若かった。若いというより、若い者しかいなかった。
「南の子か」
こちらの言葉だった。訛りが強く、グリムのものとも違っていた。
「はい」
「わしはヘズという」
彼は船尾の荷にもたれていた。片方の脚を投げ出していて、その脚は膝から下が動いていないようだった。
動かないのは怪我のせいではないと、あとで知った。刻印を脚に入れた者が、そこから硬くなっていく。彼は若いころ、脚に二つ刻んでいた。
「なんで脚に刻んだんですか」
「速く走れるからだ」と彼は言った。「若いときは、みんな脚に刻む。走れば死なんと思っておるからな」
「読めるか」
「読めます」
「何を」
「数です」
老人はしばらく黙った。
「数だけか」
「文字は、少しだけ」
「どっちの文字だ」
わたしは答えなかった。答えれば、どこの子かが分かる。
老人は、それ以上訊かなかった。
「わしは読めん」と彼は言った。「この船で読める者はおらん。わしは記録者だが、読むのではなく、覚えて言う」
「覚えるんですか」
「戦功録だ」と彼は言った。「誰が何回出て、何回帰って、何を持ち帰ったか。それを覚えて、盟約会で言う。言ったとおりに票が決まる」
「書いてないんですか」
「書いてある」と彼は言った。「書いてあるものを、わしが読み上げることになってる。読めんから、覚えて言う。合ってるかどうかを確かめる者もおらん」
彼は笑った。笑い方が乾いていた。
「間違えたことは」
「一度もない」と老人は言った。「間違えたら、その者の票が減る。減った者は次の遠征で先に立たされる。先に立った者は帰らん」
わたしは、そのつながりを頭の中で追った。
読めない記録者が、覚えたものを口で言う。それがそのまま、誰が死ぬかを決めている。
「あの人は、いくつ持ってるんですか」
わたしは、あの女のほうを見て訊いた。彼女は船首のほうにいた。何もしていなかった。座って、前を見ていた。
「シグリか」
「名前ですか」
「シグリ・アスクドッタ。灰狼盟を率いてる」
「刻印が六つありました」
老人は、そのときこちらを見た。
「数えたのか」
「はい」
彼はしばらく何も言わなかった。
「あれは、あと一つ刻める」と彼は言った。「刻めば七つだ」
「七つ刻んだら、どうなるんですか」
「十年で石になる」
「じゃあ、刻まなければ」
「刻まん者は、票が増えん」と老人は言った。「票が増えんと、次の遠征で先に立たされる。先に立った者は帰らん」
わたしは、その筋道を並べ直した。
刻めば十年。刻まなければ、次の冬。
どちらを選んでも短かった。短いほうを自分で選ぶ形にだけ、なっていた。




