板
裏の壁の下のほうに、板を外して人が出られるだけの隙間があった。
わたしは知らなかった。ヘルヴィが蹴ると、外れた。外から見えないように、外側にだけ薄い板が張ってあったのだと、あとで思った。
刻む家を建てた者は、そこから人が逃げることを考えていた。板が持ち出せるように、人が出られるだけの隙間を空けてある。
考えていたということは、必要になったことがあるということだった。
「行け」
「ヘルヴィは」
「行けと言った」
わたしは腕に包みを抱えて、隙間から出た。出たところは斜面で、下が見えた。雪が斜面を白くしていて、その上を人が動いていた。
上のほうへ逃げるつもりだった。
上のほうへ逃げるのだと、下から上がってくる者たちも知っていた。
わたしが斜面を登りはじめたとき、上から回り込んでくる影が見えた。二人。走っていなかった。歩いて、斜面を横に切って、こちらの行く先を塞ぐように下りてきていた。
わたしは止まった。
止まって、腕の内側に手を当てた。
彫ったばかりのところは、まだ血が滲んでいた。押せば開く。開けて、三つ数えて、それから使う。ヘルヴィはそう言った。
三つ数えるあいだに、あの二人はここまで来る。
わたしは、開けなかった。
代わりに、板の包みを雪へ落として、その上に雪をかけた。
かけている途中で、腕を掴まれた。
掴んだ手は素手だった。冬の斜面で、手袋をしていなかった。掴まれたところが冷たくないので、その手が硬いのだと分かった。振り向くと、手首から先が白かった。
その男は、わたしを引き起こしただけで、殴らなかった。急いでいるようでもなかった。峡の底で何が終わって何が終わっていないのかを、こちらが知らないだけだった。
抵抗はしなかった。しても意味がないことは分かっていたし、暴れれば包みのほうを見られる。わたしは足を滑らせて座り込んで、そのまま引きずられた。
引きずられながら、雪をかけた場所を覚えた。
斜面の中ほど、折れた木の根方から、左へ大股で何歩。数えた。数えるのは得意だった。
峡の底へ下ろされると、そこにはもう人が集められていた。
三十人ほどいた。ほとんどが女と子供と、年寄りだった。走れた者は逃げたのだから、残っているのはそういう者だった。
集められた者は、順に見られた。
見ているのは、腕を出した男たちだった。彼らは一人ずつの前に立って、顔を見て、手を見て、口を開けさせた。それから、何か短く言う。言うと、その者は右か左へ分けられた。
わたしは、その分け方をしばらく見ていた。
年寄りは、みんな左だった。左へ行った者は、その場に座らされて、それきりだった。
若い女と、大きい子供は右だった。
小さい子は、左だった。
左が何なのかは、まだ分からなかった。
分かったのは、右へ行った者が、みんな歩けて、口が利けて、何年か働けそうな者だということだった。
そして、左へ行った者の中に、泣いている者がいなかった。声を出す者もいなかった。この土地の者は、そういうときに声を出さない訓練を受けているらしかった。
北五峡でも、峡でも、灰縁の村でも同じだった。減るのが当たり前になっている土地の人間は、減るときに黙る。
わたしの番になった。
前に立った男は、思っていたより若かった。ヨルグより若い。腕には刻印が二つあった。彼はわたしの顔を見て、手を取って、掌を上に向けさせた。
指の先の白いところを見ていた。
見ている時間が長かった。ほかの者のときは、手を取ってすぐ離していた。
わたしは、その白いところが何に見えるのかを考えていた。灰縁の村では村じゅうが同じ手をしていたから紛れた。ここでは紛れなかった。この土地では、指の先が白い子供は一つの意味しか持たない。
しばらく見て、それから袖を掴んで、まくり上げた。
腕の内側に、彫ったばかりの線があった。血が乾ききっていなかった。
男の顔が変わった。
彼は後ろを向いて、誰かを呼んだ。
呼ばれてきた者を見て、わたしは、それがこの集団の中で違う立ち方をしていることが分かった。歩き方が違ったのではない。まわりの者が、その人のために少しずつ場所を空けた。
女だった。
背は高くなかった。この土地の女としては低い。髪を短く刈ってあって、耳の後ろに何か彫ってあった。
腕を出していた。
両腕に、線が入っていた。数えた。左に三つ、右に二つ。それから、首の付け根に一つ。
六つ。
首に彫るのは最上位の戦士だと、ヘルヴィの峡で聞いたことがあった。首から上に刻印がある者は、同時にもう長くない者だ、とも聞いた。
わたしはその首の線を見た。周りの皮膚が、顎の下まで白かった。
線の周りは、全部白かった。腕の白は、肘から上まで続いていた。手を握ったり開いたりするたびに、その皮膚は動かないで、下の筋だけが動いた。
彼女はわたしの腕を見た。
見て、少し笑った。
それから、こちらの言葉ではない言葉で、何か短く言った。
まわりの男たちが笑った。
わたしを掴んでいた男が、わたしを右へ押した。
押されて、右の列へ入った。
入ってから振り返ると、彼女はもうこちらを見ていなかった。次の者の前へ行って、同じように顔を見て、手を見ていた。
何を言われて笑われたのかを、わたしはずいぶんあとになって知った。
刻む家に子供を売る親がいる、という意味のことを、彼女は言ったのだった。北の峡にはそれを商売にしている家があると、この島の者は思っていた。




