浅い船
斜面を横へ回って下りた。
まっすぐ下りると、峡の底の道へ出る。道には人がいた。走っている者がいるということは、走らせている者もいるということだった。
雪が味方だった。降っている雪は、上から見ている者の目を遮る。遮るぶん、こちらからも見えなかった。何度か、思ったより近くを人が通った。
音も遮った。雪の日は足音がしない。しないというのは、こちらの足音もしないということだった。
そのことに何度か助けられて、一度だけ危うくなった。木の陰から出たところで、正面から人が来ていた。向こうも気づいていなかった。二人とも同時に止まって、同時に別の方向へ動いた。相手は走っている途中で、こちらを見なかった。
一度、木の陰で息を殺しているところを、通り過ぎていく男の背中が見えた。
背が高かった。この土地の男は高いので、それだけでは分からない。分かったのは、腕だった。
冬なのに、腕を出していた。
肩から手首まで、皮膚に線が入っていた。刻印だった。腕の外側に、隠さないで彫ってある。ヘルヴィがわたしの腕の内側を選んだのは、隠すためだった。この男は逆をやっていた。
一つではなかった。上腕に一つ、前腕に一つ、手の甲に一つ。
そして、線の周りが白かった。
腕の付け根に近いほうほど白く、白いところは盛り上がって、皮膚というより石の表面に近くなっていた。歩くたびに、その腕は肘から先しか曲がっていなかった。肩は動いていない。動いていないのに、歩き方は速かった。脚のほうは硬くなっていないらしかった。
刻む場所を選べるのだと、そのとき分かった。ヘルヴィがわたしの腕の内側を選んだのは、隠すためだけではなかった。硬くなる場所を、使わないところへ寄せていた。
腕の外側を選んだ者は、隠さないことを選んだ者だった。
男は通り過ぎた。
刻む家までは、斜面を横へ行って、それから急なところを登る。登り口まで来たとき、上から人が下りてきた。
わたしは伏せた。
下りてきたのは、この土地の者だった。二人。片方が片方を担いでいて、担がれているほうは動いていなかった。彼らは登り口の脇を通って、峡の底とは反対の、山のほうへ入っていった。
そこへ逃げるのだと分かった。船は水から来る。だから水から遠いほうへ逃げる。
逃げる先が決まっているということは、追う側もそれを知っているということだった。
けれど、追ってはこなかった。斜面の下ではまだ人が動いていたが、山のほうへ登っていく者を追いかける影はなかった。
追わない理由が、そのときは分からなかった。
わたしは登った。
登りきったところで、刻む家が見えた。
戸が開いていた。
厚い戸は、開けたまま留めておくものではなかった。冬は特にそうだ。開いているということは、開けた者がまだ中にいるか、開けたまま出ていったかのどちらかだった。
わたしは中へ入った。
ヘルヴィがいた。
壁の前に立って、板を外していた。両手で外して、足元の布の上に積んでいる。積み上がった板は、もう彼女が一人で運べる量を超えていた。
「ヘルヴィ」
彼女は振り向かなかった。
「戻ったのか」
「うん」
「間の悪い子だ」
彼女は板を外し続けた。手が速かった。壁の順番どおりではなく、飛ばしながら外していた。選んでいた。
選び方が分からなかった。上の段から取るのでも、下の段からでもない。奥から順でもない。
しばらく見ていて、気がついた。古い板を取っていた。
「新しいのは置いていくんですか」
「新しいのは、彫った者がまだ生きてる」とヘルヴィは言った。「生きてる者のことは、みんな覚えてる。覚えてない者のぶんを持ち出す」
「何をしてるの」
「持ち出す」
「全部は無理でしょう」
「無理だ」と彼女は言った。「だから選んでる」
わたしは彼女の隣へ行って、下のほうの板に手をかけた。
「触るな」
「手伝う」
「順番がある」と彼女は言った。「あんたには分からん順番だ」
彼女は外した板を布に包み、包んだものを背負おうとした。持ち上がらなかった。
「多すぎる」
「分かってる」
彼女は包みを下ろして、上から三枚外した。外した三枚を、床に置いた。置いてから、しばらくそれを見ていた。
わたしはその三枚を見た。
彫ってある線は、どれもまだ新しかった。若い人の板だった。名前の下に、彫った者の印が入っている。ヘルヴィの印だった。
「その三人は」
「生きてる」とヘルヴィは言った。「生きてる者の板は、また彫れる」
そう言ったとき、その三人が本当に生きているかどうかを、この人はまだ知らないのだと分かった。峡の底で何が起きているかは、ここからは見えない。
見えないから、生きていることにして、置いていく。
彼女は包みを背負った。今度は持ち上がった。
「行くぞ」
「どこへ」
「山だ」
戸口へ出たところで、彼女は足を止めた。
峡の底のほうから、煙が上がってきていた。さっきより多かった。風が奥へ向かって吹いていて、煙は斜面に沿って上へ流れていた。
「あんた、なんで戻ってきた」
わたしは答えた。
「二つ目を刻んでもらいに来ました」
ヘルヴィは、背負った包みの紐を握り直した。
長いあいだ、何も言わなかった。
峡の底から、また音が上がってきた。
「いま、要るのか」と彼女は言った。
「要ります」
「彫っても、傷が塞がるまでは使えんぞ」
「知ってます」
「知ってて言ってるのか」
「はい」
彼女は包みを背負い直した。背負ったまま、動かなかった。
「中へ入れ」と彼女は言った。




