↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『百二十一人目』 ~魔力を持って生まれた子〜  作者: 音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/96

そんなものはない

その老人はグリムといった。

名を訊いたのはわたしのほうで、彼はグリム、とだけ答えた。父の名も母の名も付けなかった。この土地では付けないのか、彼が付けないのかは分からなかった。

あとで分かった。この土地でも父称は使う。ただし、名乗るときには使わない。名乗るというのはその場にいる相手に対してすることで、相手はもう誰の子かを知っている。知っている者に向かって誰の子かを言うのは、この土地では嫌味だった。

知らない相手に名乗る機会が、そもそもほとんどない土地だった。

「あんたは」

「アステ・ヴァイダドッタ」

彼の眉が動いた。

「ラスヴェルドか」

「たぶん」

「たぶんで名乗るな」と彼は言った。「この土地じゃ、ラスヴェルドと言えばラスヴェルドとして扱われる。それで得することはない」

「どうして」

「あそこは大きい」とグリムは言った。「大きいところの名は、大きいところの都合を連れてくる」

その日から、わたしは彼のそばで働くことになった。

働くというのは、灰縁の村の篩とは違った。決まった仕事がなかった。誰かが木を伐りに行くと言えばついていき、誰かが皮を剥ぐと言えばついていく。それが終わると、また別の誰かのところへ行く。

誰も指図しなかった。何をしろとも、何をするなとも言われない。ついていくと道具を渡される。渡された道具の使い方は教えてくれるが、なぜそれをするのかは教えない。

灰縁の村では、仕事の順番が決まっていた。ここでは順番がなかった。順番がないのに、必要なことは全部その日のうちに終わっていた。誰かが見ていて割り振っているのだろうと思って、しばらく探した。そういう者はいなかった。

木を伐る日、わたしは初めてそれを見た。

倒した木の切り株のところで、伐った男が屈み込んで、脇に置いてあった袋から何かを出した。種だった。彼はそれを、切り株から少し離れたところの土に埋めた。埋めて、足で踏んで、それだけで立ち上がった。

祈らなかった。何も言わなかった。手も合わせなかった。

種を埋めた場所も、切り株のちょうど横ではなかった。少し離れていた。理由を訊くと、切り株の根が腐るまで新しい木は伸びない、と言われた。だから離す。離す距離まで決まっていた。

決まっているのに、決まりだという言い方をしなかった。彼はそれを、自分の腕の長さで測っていた。

わたしは訊いた。

「いまのは、なに」

「植えた」

「うん、それは見た。そうじゃなくて」

男は分からないという顔をした。本当に分からないらしかった。

その晩、木の下でグリムに訊いた。

「ここの人たちの宗教って、なんていうんですか」

彼は火のそばで、皮を裏返して脂を落としていた。手を止めなかった。

「なんだそれは」

「宗教です。信じてるもの」

「信じる」

「南だと、教会があって、女神様がいて、決まった日にお祈りをするんです」

「決まった日」

「はい」

「その日に何をする」

「集まって、聞きます」

「何を」

「説教です。神さまの話とか、してはいけないことの話とか」

グリムは皮から手を離した。

「してはいけないことを、集まって聞くのか」

「そうです」

「なぜ、いちいち集まる」

わたしは答えられなかった。

グリムはしばらく皮を扱っていた。

「そういうものは、ここにはない」

「でも、木を伐ったら植えるでしょう」

「植える」

「あれは、なにか信じてるからじゃないんですか」

彼は顔を上げた。

「木を伐ったら植える」と彼は言った。「それだけだ」

「だから、どうして」

「植えないと、次に伐る木がない」

わたしは何か言おうとして、言えなかった。

「それだけですか」

「それだけだ」とグリムは言った。「ほかに何か要るか」

彼は皮をひっくり返した。

「南の坊主どもが、これに名前を付けたと聞いた」

「名前」

「根の、なんとかというやつだ」と彼は言った。「あいつらは何にでも名前を付ける。付けて、目録に書く。書いてから、それを信じてる者がいることにする」

「書かれると、どうなるんですか」

「書かれたものは、あとで直せる」とグリムは言った。「木を伐って植えるのは、直しようがない。やるかやらんかだ。だが目録に書いてある信仰は、書き足したり削ったりできる。異端と書けば異端になるし、改めたと書けば改まったことになる」

彼は火に木を足した。

「紙の上でなら、何でも起きるんだよ」

火が鳴った。

「木を伐って植えるのは、林の仕事だ」と彼は言った。「越冬の分け方は、越冬の仕事だ。坑の中で音を聞くのは、坑の仕事だ。土地も違えば中身も違う。それを一つの籠に入れて、名前を付けて、あとで異端と呼ぶ」

「異端」

「そう呼ばれてると聞いた」とグリムは言った。「異端になる前に、おれたちは何かだったことがない」

その夜、わたしは木の下で毛皮にくるまって、上を見ていた。

葉のあいだから空が見えた。星が出ていた。灰海では出なかったものだった。

わたしは、穹堂の中のことを思い出していた。蝋燭の匂いと、銀の盆と、司祭の言葉を。

あそこには名前があった。門があって、女神がいて、決まった数があった。名前のあるものは、名簿に載る。名簿に載るものは、数えられる。数えられるものは、配れる。

ここには名前がない。

だから配れない。

配れないというのは、足りないときに誰が我慢するかを、上から決められないということだった。

この土地では、それを自分たちで決めていた。決め方があった。まだ見ていなかったが、あることは分かった。あの記録小屋が、そのためにあるのだろうと思っていた。

そのことが、いいことなのか悪いことなのか、わたしにはまだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。