そんなものはない
その老人はグリムといった。
名を訊いたのはわたしのほうで、彼はグリム、とだけ答えた。父の名も母の名も付けなかった。この土地では付けないのか、彼が付けないのかは分からなかった。
あとで分かった。この土地でも父称は使う。ただし、名乗るときには使わない。名乗るというのはその場にいる相手に対してすることで、相手はもう誰の子かを知っている。知っている者に向かって誰の子かを言うのは、この土地では嫌味だった。
知らない相手に名乗る機会が、そもそもほとんどない土地だった。
「あんたは」
「アステ・ヴァイダドッタ」
彼の眉が動いた。
「ラスヴェルドか」
「たぶん」
「たぶんで名乗るな」と彼は言った。「この土地じゃ、ラスヴェルドと言えばラスヴェルドとして扱われる。それで得することはない」
「どうして」
「あそこは大きい」とグリムは言った。「大きいところの名は、大きいところの都合を連れてくる」
その日から、わたしは彼のそばで働くことになった。
働くというのは、灰縁の村の篩とは違った。決まった仕事がなかった。誰かが木を伐りに行くと言えばついていき、誰かが皮を剥ぐと言えばついていく。それが終わると、また別の誰かのところへ行く。
誰も指図しなかった。何をしろとも、何をするなとも言われない。ついていくと道具を渡される。渡された道具の使い方は教えてくれるが、なぜそれをするのかは教えない。
灰縁の村では、仕事の順番が決まっていた。ここでは順番がなかった。順番がないのに、必要なことは全部その日のうちに終わっていた。誰かが見ていて割り振っているのだろうと思って、しばらく探した。そういう者はいなかった。
木を伐る日、わたしは初めてそれを見た。
倒した木の切り株のところで、伐った男が屈み込んで、脇に置いてあった袋から何かを出した。種だった。彼はそれを、切り株から少し離れたところの土に埋めた。埋めて、足で踏んで、それだけで立ち上がった。
祈らなかった。何も言わなかった。手も合わせなかった。
種を埋めた場所も、切り株のちょうど横ではなかった。少し離れていた。理由を訊くと、切り株の根が腐るまで新しい木は伸びない、と言われた。だから離す。離す距離まで決まっていた。
決まっているのに、決まりだという言い方をしなかった。彼はそれを、自分の腕の長さで測っていた。
わたしは訊いた。
「いまのは、なに」
「植えた」
「うん、それは見た。そうじゃなくて」
男は分からないという顔をした。本当に分からないらしかった。
その晩、木の下でグリムに訊いた。
「ここの人たちの宗教って、なんていうんですか」
彼は火のそばで、皮を裏返して脂を落としていた。手を止めなかった。
「なんだそれは」
「宗教です。信じてるもの」
「信じる」
「南だと、教会があって、女神様がいて、決まった日にお祈りをするんです」
「決まった日」
「はい」
「その日に何をする」
「集まって、聞きます」
「何を」
「説教です。神さまの話とか、してはいけないことの話とか」
グリムは皮から手を離した。
「してはいけないことを、集まって聞くのか」
「そうです」
「なぜ、いちいち集まる」
わたしは答えられなかった。
グリムはしばらく皮を扱っていた。
「そういうものは、ここにはない」
「でも、木を伐ったら植えるでしょう」
「植える」
「あれは、なにか信じてるからじゃないんですか」
彼は顔を上げた。
「木を伐ったら植える」と彼は言った。「それだけだ」
「だから、どうして」
「植えないと、次に伐る木がない」
わたしは何か言おうとして、言えなかった。
「それだけですか」
「それだけだ」とグリムは言った。「ほかに何か要るか」
彼は皮をひっくり返した。
「南の坊主どもが、これに名前を付けたと聞いた」
「名前」
「根の、なんとかというやつだ」と彼は言った。「あいつらは何にでも名前を付ける。付けて、目録に書く。書いてから、それを信じてる者がいることにする」
「書かれると、どうなるんですか」
「書かれたものは、あとで直せる」とグリムは言った。「木を伐って植えるのは、直しようがない。やるかやらんかだ。だが目録に書いてある信仰は、書き足したり削ったりできる。異端と書けば異端になるし、改めたと書けば改まったことになる」
彼は火に木を足した。
「紙の上でなら、何でも起きるんだよ」
火が鳴った。
「木を伐って植えるのは、林の仕事だ」と彼は言った。「越冬の分け方は、越冬の仕事だ。坑の中で音を聞くのは、坑の仕事だ。土地も違えば中身も違う。それを一つの籠に入れて、名前を付けて、あとで異端と呼ぶ」
「異端」
「そう呼ばれてると聞いた」とグリムは言った。「異端になる前に、おれたちは何かだったことがない」
その夜、わたしは木の下で毛皮にくるまって、上を見ていた。
葉のあいだから空が見えた。星が出ていた。灰海では出なかったものだった。
わたしは、穹堂の中のことを思い出していた。蝋燭の匂いと、銀の盆と、司祭の言葉を。
あそこには名前があった。門があって、女神がいて、決まった数があった。名前のあるものは、名簿に載る。名簿に載るものは、数えられる。数えられるものは、配れる。
ここには名前がない。
だから配れない。
配れないというのは、足りないときに誰が我慢するかを、上から決められないということだった。
この土地では、それを自分たちで決めていた。決め方があった。まだ見ていなかったが、あることは分かった。あの記録小屋が、そのためにあるのだろうと思っていた。
そのことが、いいことなのか悪いことなのか、わたしにはまだ分からなかった。




