樹の下
山は、越えるというより通り抜けるものだった。
峰を跨ぐのではなく、峡と峡のあいだの、水の落ちた跡を辿っていく。両側が高いので日が入るのは真昼だけで、それ以外の時刻はずっと薄暗かった。地面は濡れていて、石が滑った。
ヨルグは馬に荷を積んだまま先を行き、危ないところでは自分が先に踏んで、こちらへ手を出した。
馬は北五峡まで行かない、と彼は言った。途中の隘路で荷を背負い直して、馬は返す。返した馬は勝手に峡へ帰る。何度も通っている馬だからだった。
「帰らなかったら」
「帰らなかった年は、おれも帰ってない」
それが冗談なのかどうか、わたしには分からなかった。
「北五峡は五つある」と、彼はある日そう言った。
道の上でものを説明するのは珍しかったので、わたしは黙って聞いた。
「五つとも貧しい。麦は来ない。来ても値が合わん。だから魚と、獣と、木の実で冬を越す」
「木の実で越えるの」
「越える年もあるし、越えない年もある」
「越えない年は」
ヨルグは答えなかった。少し行ってから、思い出したように付け足した。
「南三峡から人を買いに来る」
「買いに」
「働きに出すという言い方をする」と彼は言った。「出た者が戻った例を、おれは知らん」
彼はそれだけ言って、また前を向いた。
「教会は」
「南三峡までだ」
「ここには来ないの」
ヨルグは少し間を置いた。
「来なかった」
来なかった、という言い方が引っかかったけれど、わたしはそのとき何も訊かなかった。
四日目に、木が変わった。
それまでは細くて背の低いものばかりだったのが、幅の広い谷へ出たところで、急に太くなった。幹が二抱えもあるものが、間隔を空けて立っている。間隔が揃っていた。
自然に生えたものではなかった。
「植えたの」
「植えた」
「誰が」
「知らん」とヨルグは言った。「うちの祖父の祖父よりは前だ」
「じゃあ、この谷の木は、全部」
「植えたやつだ」
「伐ったぶんだけ」
「伐ったぶんだけだ」と彼は言った。「だから減らん。減らんが、増えもせん」
わたしは幹のあいだを歩いた。間隔が揃っているのは、伐った跡に植えたからだった。伐った木の場所が、そのまま次の木の場所になる。何代も続ければ、林は同じ形のまま残る。
同じ形のまま残るというのは、増やさないと決めたということだった。
その谷を下りきったところが、目的の場所だった。
わたしは、着いたことに気づかなかった。
家がなかったからだ。
灰縁の村にも土壁の家はあった。ヘルヴィの峡には木と石の家があった。ここには、それがなかった。あるのは、木の枝を組んで皮を張った低いもので、それは家というより、風を切るための壁が三方に立っているだけのものだった。
そういうものが、太い木のあいだに散らばっていた。
数を数えようとして、途中でやめた。壁の向きがばらばらで、どれが一つの住処なのかが分からなかった。風の来る側にだけ壁を立てるので、住処の形が土地の形で決まる。同じ形のものが一つもなかった。
人はいた。木の下に座り、あるいは立ち、あるいは何かを剥いでいた。近づいてくる者はいなかったが、こちらを見ない者もいなかった。
「ここに住んでるの」
「住んでる」
「冬は」
「冬は下へ入る」とヨルグは言った。彼は足で地面を叩いた。「掘ってある。上に何も建てんのは、建てると屋根に雪が乗るからだ。乗ると潰れる」
彼が荷を下ろすと、何人かが寄ってきた。塩の袋を開けて中を見て、鉄の束を持ち上げて重さを量る。銭のやりとりはなかった。代わりに、燻した肉と、皮と、乾した木の実の袋が出てきた。
量を量る道具は出てこなかった。塩の袋を持ち上げて、肉の束を持ち上げて、片手ずつで比べる。それで決まった。誰も揉めなかった。
あとで知ったことだが、この土地では毎年ほとんど同じものが同じだけ動く。動く量が決まっているので、量る必要がない。量りはじめるのは、量が変わった年だけだった。
そのあいだ、誰もわたしを見なかった。
見ないというのは、灰縁の村の見なさ方とは違っていた。あそこでは、見ないと決めて見ていなかった。ここでは、そもそも視界に入っていないような見なさ方だった。
やりとりが済むと、ヨルグは荷を積み直し、こちらへ来た。
「おれは戻る」
「うん」
「あんたのことは話した。置いてくれるそうだ」
「なんて言ったの」
「南から来た子だ、と」
「それだけ」
「それ以上言うと、それ以上訊かれる」
彼は馬の首を撫でて、それから初めてこちらの顔をまっすぐ見た。
「この土地の者は、来た者を追い出さん。ただし、勘定に入れるかどうかは別だ」
「かんじょう」
「そのうち分かる」
彼は谷を上がっていった。振り返らなかった。ヘルヴィの峡から来た者は、みんな振り返らない訓練を受けているらしかった。
わたしは荷の下ろされた跡のところに立っていた。
しばらくして、木の下から老人が一人、こちらへ歩いてきた。
背は高くなかった。髪はほとんど残っていなくて、残っているところが白く、頭のかたちがそのまま見えた。手が大きかった。指の関節が全部太くなっていて、その指で杖を持っていた。
彼はわたしの前で止まり、上から下まで一度見た。
それから、後ろの太い木を指した。
「あの下だ」と、こちらの言葉で言った。訛りが強かった。「屋根の下で寝たいなら、あっちの掘ってあるところへ行け。木の下でいいなら、あの木だ」
「どっちがいいんですか」
老人は少し考えた。
「木の下は寒い」と彼は言った。「掘ってあるところは、人がいる」
わたしは木を選んだ。
老人は、そのことについて何も言わなかった。うなずきもしなかった。ただ、しばらくして毛皮を一枚持ってきて、木の根元に置いていった。置いてから、こちらを見ないで戻っていった。




