冷ます
出立の朝、ヘルヴィは刻む家にいた。
家のほうで待っていろと言われたのに、わたしは斜面を上がった。厚い戸は開いていて、中で彼女が壁の板を並べ替えていた。空いていたところに新しい板が入って、その両隣も動かされていた。順番があるらしかった。
「言ったろう。来るなと」
「言われてない」
「言った気になってた」と彼女は言って、手を止めなかった。
わたしは自分の板を見た。彫られた線は、腕の内側にあるものと同じ形をしていた。名前の下に、もう一組の線が入っていた。
「これは」
「彫った者の印だ。わたしのだよ」
「じゃあ、ヘルヴィが死んだら」
「あんたが知る」と彼女は言った。「知ったからどうということもない。知るだけだ」
板を掛け終えると、彼女は戸口へ行って、外の光を入れた。壁一面の板が、また全部見えた。空いているところの数は、前に見たときと変わっていなかった。変わっていないということは、この冬に誰も死ななかったということだった。
「よかったですね」
「よくない」とヘルヴィは言った。「死んでないだけだ。死んでない者は、まだ使う」
「ヨルグが下で待ってる」と彼女は言った。「塩と鉄を北へ運ぶ男だ。悪くない」
「悪くないって」
「喋らないという意味だ」
わたしは戸口のところで立ち止まった。何か言うべきだったのに、言うことが見つからなかった。
「行け」とヘルヴィは言った。「礼を言うな。言われると、彫ったことを思い出す」
峡を出て街道へ下りるまでが半日、そこから南三峡の境まで、ヨルグの言うところではもう半日だった。
ヨルグは背が低かった。この国の男としては低いというだけで、わたしの街の男よりは高い。牛ではなく馬に荷を積んで、自分は歩いていた。手綱を持つ手の甲に、古い切り傷が何本もあった。
彼はヘルヴィの言ったとおり、ほとんど喋らなかった。
代わりに、道の脇のものを指した。何かを指して、こちらが見たのを確かめると、また前を向く。それだけの合図で、水の場所と、休む場所と、通ってはいけない斜面を教えていった。
一度だけ、彼が振り返って口をきいた。歩きながらでは聞き取れないほどの声だった。
「その腕、掻くな」
わたしは自分の手を見た。無意識に、袖の上から腕の内側を押さえていた。刻んだところは、かさぶたが剥がれたあとも痒かった。掻くと、皮膚の下の白いものが盛り上がる。
それきり彼は前を向いた。
道が下って、木立が切れたところで、彼が足を止めた。
指も差さなかった。手綱を短く持ち直して、馬の首に手を当てただけだった。
前方の街道に、人が集まっていた。
荷を停められた車が並び、その脇に子供が立たされていた。数えるほどの数だった。街道の真ん中に卓が出してあって、そこに男が座り、その前に浅い盆が置いてあった。
盆に、水が張ってあった。
わたしは足が止まった。止まったことを、ヨルグが横目で見た。
「南か」と彼は言った。この道に出てから、初めて聞いた声だった。
「うん」
「あれは、いつもは港でやる」
彼は馬を歩かせはじめた。止まったままでいるほうが目立つと分かっていたからで、わたしはついていくしかなかった。
近づくにつれて、卓の男の胸に縫い取られたものが見えてきた。あの色ではなかった。この国の教会の色だった。それでも盆は同じで、水も同じで、その水がただの水に見えるところまで同じだった。
「歳は」と男が訊いた。こちらの言葉ではなかった。
ヨルグが答えた。何と答えたのかは分からない。男は名簿を見ないで、顎で盆を示した。
わたしは前へ出た。
腕の内側が、そのとき熱くなった。
熱くしたのはわたしだった。ヘルヴィの教えたとおりに、そこへ意識を置いて、置いたまま押した。押すとひとりでに開いた。錠が外れるような、そういう開き方をした。腕の内側から肩へ細い熱が上がって、それから体じゅうに薄く広がって、消えた。
指を入れた。
手首まで沈めても、水は水のままだった。
しばらく誰も何も言わなかった。卓の男が水を覗き込み、それから盆を持ち上げて傾け、また置いた。傾けたところで水が光らないのは、光るものが入っていないからだった。
「白」
男は名簿に一つ書きつけた。書いてから、次を呼んだ。
わたしの後ろに並んでいたのは、この土地の子だった。灰銀の髪をした男の子で、手を入れると、水が光った。
光り方が違った。あの日の穹堂で見たものより、ずっと薄かった。それでも光は光で、卓の男は立ち上がりもしないで、書記のほうへ顎をしゃくった。
母親が声を上げた。何を言っているのかは分からなかった。
わたしは手を引いた。布で拭くものはなかったので、そのまま服で拭いた。
ヨルグが馬を進めた。
卓を過ぎて、荷車の列を過ぎて、街道の曲がりを二つ越えるまで、彼は歩く速さを変えなかった。木立に入って、後ろが見えなくなってから、初めて振り返った。
「歩け」と彼は言った。
「歩いてる」
「もっと歩け」
そこから先、彼は休まなかった。水も飲ませなかった。日が傾いてもまだ歩かせて、わたしの足がもつれるようになってから、ようやく岩の陰へ入った。
わたしは座り込んだ。座り込んでから、腕の内側に手を当てた。
熱はもうなかった。
「あの盆に、もう一度手を入れてたら」とわたしは言った。「そのときは、光った」
ヨルグは水袋を差し出しながら、こちらを見なかった。
「そうだろうな」
「知ってるの」
「刻む家の者が北へ送る子は、たいていそれを持ってる」と彼は言った。「初めて運ぶ子じゃない」
彼は自分も水を飲んだ。
「二度目を言われる前に、その場を離れる。それだけが手だ」




