四つと七つ
春の荷が入るようになると、峡に人が来た。
来るのは商人と、傭兵の斡旋人と、南から食い物を運ぶ船だった。この国は自分の土地で食う分を作れない。麦は全部よそから来る。峡の者はそれを当たり前のこととして話し、当たり前のこととして値を気にした。
「今年は上がるな」とスカルドが言った。
「上がる」とヘルヴィが言った。
「東が絞ってる」
「絞ってるな」
東というのがどこを指すかは、聞かなくても分かった。麦を輸出できる大国は一つしかない。わたしが生まれた国だった。
峡の者は、東を憎んではいなかった。麦の値が上がると腹を立てるが、腹を立てる相手は東ではなく、値を取り次ぐ港の商人だった。東は遠すぎて、憎むにも顔がない。
顔があるのは、袋を運んでくる者だけだった。
その話を聞いていると、こちらの背中を見ている目に気がついた。
斡旋人だった。エイクスケの者だと名乗った男で、傭兵の口を取り持って歩いている。峡へ来るたびにヘルヴィの家に泊まり、刻印を持つ者の数と、その中で使い物になる者の数を数えていく。
彼はわたしを見ていた。見ながら、こちらの言葉で話しかけてきた。
こちらの言葉が上手かった。峡の者の話し方とは違い、南の抑揚をそのまま持っていた。口入れは言葉で食う商売だと、あとでヘルヴィが言った。
「南から来たのか」
「はい」
「歳は」
わたしは答えなかった。答えていいかどうかを、そのとき初めて考えた。
「答えなくていい」と男は笑った。「訊いたのは、あんたを数えるためじゃない。あんたの顔が、こないだ東で見た紙に似てたからだ」
炉のそばで編んでいたヘルヴィの手が止まった。
「紙」
「教会の回状だよ。峡には来ない。港には来る」
男は袋から折った紙を出して、炉のそばへ置いた。開かなかった。開かないまま、指で押さえていた。
「有脈と記録された子が、儀のあとに行方知れずになってる。名前が書いてある。人相も書いてある。書いてあるのに、下のほうに妙なことが添えてあってな」
「なんだ」
「別名の可能性あり、と書いてある」
炉の火が鳴った。
「教会の回状に別名の可能性ありと書くのは、珍しいことだ」と男は言った。「あれは、誰かが別の名で帳面に入れたのを、上のほうが気づいてるという意味だよ」
「気づいたのは、誰」
「そこまでは書いてない」と男は言った。「ただ、書き足した者は、書いた者を知ってるはずだ。帳面は誰が書いたかが残る。名前が残るんじゃない。筆跡が残る」
炉の火が鳴った。
「筆跡を照らし合わせるのは面倒な仕事だ」と男は続けた。「面倒な仕事をやったということは、上のほうが本気だということでもある」
わたしは動かなかった。動かないことしかできなかった。
「あんたを売るつもりなら、こんな話し方はしない」と男は続けた。「おれは口入れだ。人を売るのは商売だが、教会に売るのは商売じゃない。あそこは代金を払わない。祝福で払う」
彼は紙をしまった。
「ただ、港には来てる。港に来たものは、そのうち峡にも来る」
その晩、ヘルヴィは編み物をしなかった。
炉の前に座って、火を見ていた。スカルドは何も訊かなかった。訊かないほうがいい種類の顔を、彼女はしていた。
夜が更けてから、彼女はわたしのほうを見ないで言った。
「南へは戻れないな」
「うん」
「この峡にもいられない。港に来たものは峡に来る。あんたを匿った家は、匿った者と同じ扱いになる」
わたしはエルネスのことを考えていた。
「じゃあ、どこへ」
「北だ」とヘルヴィは言った。「もっと北。根の教えのほうへ行けば、輪環教の帳面は届かない。あそこは南と口をきかない」
「行ける」
「歩けばな」
彼女は炉から目を離さないで続けた。
「ただし、冬の山を越える。荷を持って歩く。追われたら走る。子供の体でやることじゃない」
「一人で行くの」
「わたしは行けない」とヘルヴィは言った。「刻む家の者は峡を離れられん。離れれば、次に誰かが彫られるときに決める者がいなくなる」
「スカルドは」
「兄は舟だ。舟は山を越えない」
彼女は炉の火を見たままだった。
「途中まで連れていってくれる者は探す。探すが、それ以上は約束できん」
わたしは自分の手を見ていた。
「ヘルヴィ」
「なんだ」
「一つ刻んだら、あと三つ」
「そうだ」
「一つも刻まなかったら、四つのまま」
「そうだ」
「四つのまま、山で死んだら」
ヘルヴィが顔を上げた。
わたしは、それ以上うまく言えなかった。四つのまま死ぬのと、三つ残して生きるのと、どちらが多いのかという計算が、頭の中で組み上がらなかった。ただ、組み上がらないなりに、答えのほうは先に出ていた。
わたしは、あの朝のことを考えていた。袋の間から引っぱり出されて、光の中で見上げたときのことを。あのとき、わたしにできたのは名前を選ぶことだけだった。名前しか持っていなかったからだ。
次に同じことが起きたときに、名前しか持っていないのは嫌だった。
ヘルヴィは長いこと黙っていた。
それから、立ち上がった。
「刻んでくれと言うな」
「言ってない」
「言うな」と彼女はもう一度言った。「言わなかった者しか彫らないと、わたしは決めてる。決めた通りにさせろ」
彼女は戸口へ行き、外の暗いほうを見た。
「明日の朝、刻む家へ来い」
彼女は炉に薪を足した。足しすぎだった。沈み月が明けたばかりの晩に、あれだけ足す必要はなかった。
「一つ言っておく」と彼女は火のほうを向いたまま言った。「わたしは、あんたを助けようとしてこれをやるんじゃない。あんたを匿ってるこの家を助けるためだ。そっちが本当だ」
「うん」
「うん、じゃない。憶えとけ。そのほうが、あとで楽になる」




