刻む家
雪が緩みはじめると、家の者が一人ずつ起き出してきた。
沈み月が明けた最初の日、スカルドは丸一日かけて薪を割り、割り終わってから海のほうへ下りていった。峡の奥に舟があった。人が沈んでいるあいだ、舟も上げられたままだった。
ヘルヴィは違うところへ行った。
峡の斜面を少し上がったところに、屋根の低い建物が一つあった。家ではなかった。窓がなく、戸が一つしかなく、その戸だけが妙に厚かった。
峡の者はその建物の前を通るとき、少し歩き方が変わった。速くなるのでも遅くなるのでもない。ただ、通るあいだ誰も喋らなかった。
「来い」と彼女は言った。
中は暗かった。壁沿いに棚があり、棚の上に木の板が並んでいた。ヘルヴィが炉の火から移した明かりを一つ点けると、板の上の線が見えた。あの晩に見せられた板と同じもので、それが壁一面にあった。
板ごとに線の組み方が違った。
板は上下三段に並んでいて、下の段ほど古かった。木の色が違う。古い板は角が丸くなり、彫った線の底に煤が溜まって黒くなっていた。上の段は新しく、線が白かった。
数えようとして、やめた。数えられる量ではなかった。
「これは、なに」
「型だ」と彼女は言った。
彼女は奥の台へ行って、布をめくった。台の上に、細く短い鉄が並べてあった。長さも太さも少しずつ違い、平たく潰してある端に、それぞれ違う線が彫ってあった。
わたしは自分の懐にあるものを思い出した。
「あんたの持ってるやつは、この列だ」とヘルヴィは端のほうを指した。「一番はじめに使うやつ。何も彫れない針だよ。名を入れるだけの針だ」
「名前」
「刻む前に、誰の体かを書く。誰が彫ったかも書く。そのための針だ」
「書いたら、どうなるの」
「刻んだ者と刻まれた者が、それで結ばれる」とヘルヴィは言った。「結ばれるというのは、片方が死ねばもう片方が知るということだ。板を見れば分かるようになってる」
「どうやって」
「知らん」と彼女は言った。「そういうものだと教わって、そのとおりになる。理屈を知ってる者は、うちの家にはもういない」
彼女は台に手をついた。
「この家は刻む家だ。この峡で誰に何を刻むかを決めるのは、わたしの仕事になってる」
わたしはその建物の中を見回した。窓がなく、戸が厚い理由が分かった。ここは仕事場ではなく、記録の置き場だった。
「わたしにも刻むの」
「刻まない」
即答だった。
「どうして」
ヘルヴィは明かりを持ち上げて、壁の棚の一つのところへ持っていった。そこだけ板の数が少なく、間が空いていた。
「刻める数が決まってる」と彼女は言った。「体一つに、七つまでだ。八つ目を刻むと、それまでの七つが全部死ぬ。だから七で止める」
「七つ刻んだら」
「十年で全身が石になる」
彼女は明かりを下ろした。
「北の人間は七つ刻める。皮膚が耐える。ほかの土地の者は四つが限度だ。五つ目を入れると、そこから先は硬化が止まらなくなる。止まらないというのは、七つ刻んだ者と同じ速さで、四つしか持たないまま死ぬということだ」
わたしは自分の指を見た。
「わたしは」
「あんたは半分だ」とヘルヴィは言った。「沈み月に半分しか沈まない子は、皮膚も半分しか耐えない。四つだよ」
建物の中は寒かった。壁の板が、明かりの揺れるたびに影を動かした。
「じゃあ、四つ刻めば」
「そういう話じゃない」
彼女は初めて声を大きくした。
「四つしかない体に彫るというのは、その子の残りを四つに区切るということだ。刻んだ数だけしか、その子には手がない。刻んだ日から、その子は減っていくだけになる」
「北の子は七つ」
「七つだ」
「七つあれば、いいの」
「よくない」とヘルヴィは言った。「七つ刻んだ者は十年で石になる。ただ、七つある者は、七つのうちの三つで済ませる道も選べる。四つしかない者にはその余裕がない。一つ使えば、残りは三つだ。三つの使いどころを、十の年から死ぬまで考えつづけることになる」
彼女は棚の間の空きを指した。
「ここにあった板は、みんな人だ。わたしが決めて、わたしが彫って、わたしより先に死んだ人間の板だ。うちの家では、彫った者が死ぬと板を外す。外して焼く。「刻む家の人間は、自分が何人ぶん決めたかを忘れないようにできてる」
「何人」
「訊くな」
「訊いちゃだめなの」
「憶えてるからだ」とヘルヴィは言った。「訊かれれば答えられる。答えたら、あんたはその数を憶える。憶えた数のぶんだけ、あんたはわたしを見る目を変える。変えられると、次に彫るときに手が鈍る」
彼女は棚から手を離した。
「刻む家の人間は、鈍っちゃいかん」
わたしは何も言えなかった。
「あんたには道がある」とヘルヴィは言った。「一生使わないという道だ。この国にもそうやって生きてる者はいる。手を動かす仕事をして、腹の底のやつを毎晩押さえて、そのまま年を取る」
「押さえられなかったら」
「押さえるんだ」
彼女は明かりを吹き消した。戸を開けると、外の光が入ってきて、壁の板の列がひととき全部見えた。空いているところが、思っていたより多かった。
「いいか」と彼女は戸口で言った。「刻んでくれと言ってきた子供に、はいと言ったことは一度もない。「この峡でわたしが彫った者は、みんな彫らないでくれと言った者だ」
「彫らないでくれって言った人を、彫るの」
「彫る」とヘルヴィは言った。「言わなきゃならん理由がある者だけが、そう言うからだ」




