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『百二十一人目』 ~魔力を持って生まれた子〜  作者: 音


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ヴァイダドッタ

峠の向こうで最初に分かったのは、音の量だった。

灰海は音を吸う。村では誰かの咳の順番が数えられるほど静かだった。峠を下りきったところにあった集落では、音が減らないまま重なっていて、鎚の音と、犬と、女の声と、家畜の鈴が、全部そこに残っていた。

耳が痛くなった。

灰海の中では、自分の足音も自分の息も、出た端から吸われていった。ここでは全部が返ってきた。石の壁に当たって、屋根に当たって、二度三度と戻ってくる。しばらくのあいだ、わたしは自分の立てている音の量に驚いていた。

わたしを引き受けた男は、峠にいた二人のうちの背の高いほうだった。頭一つどころではなく高く、家の戸口をくぐるときに腰から折れた。腕が太く、手の甲に毛が生えていて、その毛が銀色だった。

言葉が通じなかった。

彼はわたしに何か言い、わたしが答えないと、もう一度同じことを言い、それでも答えないと肩をすくめて先へ歩いた。ついてこいという意味だと分かるまでに、少し時間がかかった。

彼の言葉には、母のあの音があった。喉の奥で詰まって、そこから抜けるときに短く鳴る音だった。意味は一つも取れないのに、その音だけがいちいち耳に引っかかった。

母が最後に言ったのは、四つほどの音だった。その中にこの音があったのかどうかを思い出そうとして、やはり思い出せなかった。

家は木と石でできていた。屋根が地面近くまで下りていて、家というより伏せた舟に見えた。中は暗く、真ん中に炉があり、煙が屋根の隙間から抜けていくのに、抜けきらないぶんが天井の下に溜まっていた。

壁沿いに寝床が並び、その上に毛皮が積んであった。梁から吊るしてあるのは魚で、燻したものが列になって下がっている。床は土のままで、炉のまわりだけ石が敷いてあった。窓は一つもなかった。

暖かかった。灰縁の村の家は、暖かくも寒くもなかった。季節のないところでは、家は温度のためのものではない。ここの家は温度のためにできていた。

女が炉の前にいた。男より低いが、それでもわたしの街の男より背が高かった。灰銀の髪を編んで背中へ流し、その編み目に骨のような留め具が挟んであった。

彼女はわたしを見て、それから男に何か言った。男が答えた。女はもう一度わたしを見た。

そして、こちらの言葉で言った。

「名は」

聞き取れるまでに一拍かかった。言い方が硬く、音が奥のほうで鳴る話し方だった。

「アステ」

女の手が止まった。編んでいた紐から指を離して、彼女は男のほうを見た。男は肩をすくめた。

「誰がつけた」

「母さん」

「母の名は」

わたしは答えられなかった。答えられないことを、そこで初めて恥ずかしいと思った。

女はしばらく待って、それから炉のそばの木の椅子を指した。座れという意味だった。座ると、彼女は椀に何かをよそって寄越した。魚と麦を煮たもので、塩がひどく濃かった。

食べているあいだ、彼女は何も訊かなかった。

食べ終わってから、彼女は言った。

「この国では、名は二つで一つだ。おまえの名と、母の名。それが揃って人になる」

「母さんの名前を知らない」

「知らないのか」

「呼ばれてるのを、聞いたことがない」

女は編み目に手を戻した。指が動いていた。

「南では、女の名を呼ばないのか」

「呼ぶ人もいる」とわたしは言った。「うちでは呼ばなかった」

「父親は」

「帳付けをしてた」

「母親は」

「縫い物」

女は指を止めなかった。

「南の男が北の女を家に入れて、名を呼ばないでおくのは、名を呼べば北の女だと知れるからだ」と彼女は言った。「近所に知れれば、子供の話になる。子供の話になれば、儀の話になる」

わたしは何も言えなかった。

「あんたの父親は、馬鹿ではなかったな」

そのあと、長く黙っていた。炉の火が音を立て、屋根の下に煙が溜まり、外で誰かが薪を割っていた。

「持ち物を出せ」と女が言った。

わたしは布と、水袋と、それから寝床の下から掘り返してずっと懐に入れていたものを、床に並べた。

女は針を見た。

見て、動かなかった。

それから手を伸ばして、平たく潰してある側を火にかざした。彫ってある短い線を、しばらく見ていた。

「これを誰から」

「母さん」

「母の名は」

「だから、知らない」

女は針を持ったまま立ち上がり、炉のむこう側の壁のところへ行った。壁に木の板が何枚も掛かっていて、そのうちの一枚を外して持ってきた。板には焼き印のような線が並んでいた。

彼女は針の彫りと、板の上のどれかを並べて置いた。

「ヴァイダ」と彼女は言った。

「え」

「この刻みを打つ家は、この峡に一つしかない。ヴァイダ・ラスヴェルド。その人の下で針を受けた者は、みな家名の刻みを入れる」

女はわたしのほうを見た。

「ヴァイダは、あんたの母親の名か。それとも、母親に針をやった者の名か」

わたしには分からなかった。

「どっちなら、いいことなの」

「どっちも同じくらい面倒だ」と彼女は言った。「母親の名なら、ラスヴェルドの家の者が南へ嫁いだことになる。針をやった者の名なら、ラスヴェルドの家が南へ針を出したことになる。この国では、どっちも公にはしない話だよ」

彼女は板を壁へ戻した。

「どっちでも同じだ」と彼女は言った。「どっちにしても、あんたはヴァイダドッタだ。今日から、そう名乗れ」

アステ・ヴァイダドッタ。

わたしはそれを口の中で言った。声には出さなかった。

初めて、返事をする者がいる名前だった。

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