ヴァイダドッタ
峠の向こうで最初に分かったのは、音の量だった。
灰海は音を吸う。村では誰かの咳の順番が数えられるほど静かだった。峠を下りきったところにあった集落では、音が減らないまま重なっていて、鎚の音と、犬と、女の声と、家畜の鈴が、全部そこに残っていた。
耳が痛くなった。
灰海の中では、自分の足音も自分の息も、出た端から吸われていった。ここでは全部が返ってきた。石の壁に当たって、屋根に当たって、二度三度と戻ってくる。しばらくのあいだ、わたしは自分の立てている音の量に驚いていた。
わたしを引き受けた男は、峠にいた二人のうちの背の高いほうだった。頭一つどころではなく高く、家の戸口をくぐるときに腰から折れた。腕が太く、手の甲に毛が生えていて、その毛が銀色だった。
言葉が通じなかった。
彼はわたしに何か言い、わたしが答えないと、もう一度同じことを言い、それでも答えないと肩をすくめて先へ歩いた。ついてこいという意味だと分かるまでに、少し時間がかかった。
彼の言葉には、母のあの音があった。喉の奥で詰まって、そこから抜けるときに短く鳴る音だった。意味は一つも取れないのに、その音だけがいちいち耳に引っかかった。
母が最後に言ったのは、四つほどの音だった。その中にこの音があったのかどうかを思い出そうとして、やはり思い出せなかった。
家は木と石でできていた。屋根が地面近くまで下りていて、家というより伏せた舟に見えた。中は暗く、真ん中に炉があり、煙が屋根の隙間から抜けていくのに、抜けきらないぶんが天井の下に溜まっていた。
壁沿いに寝床が並び、その上に毛皮が積んであった。梁から吊るしてあるのは魚で、燻したものが列になって下がっている。床は土のままで、炉のまわりだけ石が敷いてあった。窓は一つもなかった。
暖かかった。灰縁の村の家は、暖かくも寒くもなかった。季節のないところでは、家は温度のためのものではない。ここの家は温度のためにできていた。
女が炉の前にいた。男より低いが、それでもわたしの街の男より背が高かった。灰銀の髪を編んで背中へ流し、その編み目に骨のような留め具が挟んであった。
彼女はわたしを見て、それから男に何か言った。男が答えた。女はもう一度わたしを見た。
そして、こちらの言葉で言った。
「名は」
聞き取れるまでに一拍かかった。言い方が硬く、音が奥のほうで鳴る話し方だった。
「アステ」
女の手が止まった。編んでいた紐から指を離して、彼女は男のほうを見た。男は肩をすくめた。
「誰がつけた」
「母さん」
「母の名は」
わたしは答えられなかった。答えられないことを、そこで初めて恥ずかしいと思った。
女はしばらく待って、それから炉のそばの木の椅子を指した。座れという意味だった。座ると、彼女は椀に何かをよそって寄越した。魚と麦を煮たもので、塩がひどく濃かった。
食べているあいだ、彼女は何も訊かなかった。
食べ終わってから、彼女は言った。
「この国では、名は二つで一つだ。おまえの名と、母の名。それが揃って人になる」
「母さんの名前を知らない」
「知らないのか」
「呼ばれてるのを、聞いたことがない」
女は編み目に手を戻した。指が動いていた。
「南では、女の名を呼ばないのか」
「呼ぶ人もいる」とわたしは言った。「うちでは呼ばなかった」
「父親は」
「帳付けをしてた」
「母親は」
「縫い物」
女は指を止めなかった。
「南の男が北の女を家に入れて、名を呼ばないでおくのは、名を呼べば北の女だと知れるからだ」と彼女は言った。「近所に知れれば、子供の話になる。子供の話になれば、儀の話になる」
わたしは何も言えなかった。
「あんたの父親は、馬鹿ではなかったな」
そのあと、長く黙っていた。炉の火が音を立て、屋根の下に煙が溜まり、外で誰かが薪を割っていた。
「持ち物を出せ」と女が言った。
わたしは布と、水袋と、それから寝床の下から掘り返してずっと懐に入れていたものを、床に並べた。
女は針を見た。
見て、動かなかった。
それから手を伸ばして、平たく潰してある側を火にかざした。彫ってある短い線を、しばらく見ていた。
「これを誰から」
「母さん」
「母の名は」
「だから、知らない」
女は針を持ったまま立ち上がり、炉のむこう側の壁のところへ行った。壁に木の板が何枚も掛かっていて、そのうちの一枚を外して持ってきた。板には焼き印のような線が並んでいた。
彼女は針の彫りと、板の上のどれかを並べて置いた。
「ヴァイダ」と彼女は言った。
「え」
「この刻みを打つ家は、この峡に一つしかない。ヴァイダ・ラスヴェルド。その人の下で針を受けた者は、みな家名の刻みを入れる」
女はわたしのほうを見た。
「ヴァイダは、あんたの母親の名か。それとも、母親に針をやった者の名か」
わたしには分からなかった。
「どっちなら、いいことなの」
「どっちも同じくらい面倒だ」と彼女は言った。「母親の名なら、ラスヴェルドの家の者が南へ嫁いだことになる。針をやった者の名なら、ラスヴェルドの家が南へ針を出したことになる。この国では、どっちも公にはしない話だよ」
彼女は板を壁へ戻した。
「どっちでも同じだ」と彼女は言った。「どっちにしても、あんたはヴァイダドッタだ。今日から、そう名乗れ」
アステ・ヴァイダドッタ。
わたしはそれを口の中で言った。声には出さなかった。
初めて、返事をする者がいる名前だった。




