環を描く男
北の縁が終わったのは、地面の色が変わったからだった。
灰色の上に、まず茶色が混じり、それから緑になった。緑になったところで、わたしは膝をついた。倒れたのではなく、しゃがんだつもりだったのに、そのまま座り込んで立てなくなった。
エルネスも座っていた。
「風だ」と彼が言った。
わたしは分からなかった。それから、頬に何か当たっているのに気がついた。冷たいものが動いていた。
風だった。
灰海を出るまで、わたしは風がどういうものだったかを忘れていた。忘れていたことにも気づいていなかった。
草が動いていた。倒れて、起きて、また倒れた。それを見ているだけでしばらく過ごした。エルネスも同じほうを見ていた。
その晩、初めて火を焚いた。灰海の中では焚かなかった。燃やすものがなかったし、煙が立てば遠くから見えたからだった。
火のそばで、エルネスは布を全部外した。顔の下半分に、布の跡が白く残っていた。
彼は袋から干した魚を出して、半分に割ってこちらへ寄越した。
「食え」
噛んで食べたのは、村を出てから初めてだった。噛むと味がした。灰の中では口を開けないので、味というものがずっとなかった。
わたしは受け取って、それから訊いた。訊かない決まりの土地は、もう後ろにあった。
「エルネスって、本当の名前」
彼は魚を噛んでいた。噛みながら、少しのあいだ火を見ていた。
「エルネス・ド・ヴァレという男が、おれを匿った」
火の音がした。
「南の街で、代書屋をしてた。文字の書けない者のかわりに、証文だの願い状だのを書く男だ。おれは十四で出た口でな。出た日に家を出て、二月ばかり街道をうろついて、その男の店の裏で寝てるところを見つかった」
「白と出たあとで」
「そうだ」
「出たときのこと、憶えてる」
「憶えてるよ」と彼は言った。「井戸端で桶を落として、落とした桶が地面に着く前に止まった。宙で止まった。それを見てるやつがいた」
「見られたの」
「見られた。だから家を出た。見た相手が誰かに言うまでの間だけ、こっちに時間がある。その時間でどこまで行けるかだ」
「言われたの」
「言われた。おれが家を出て二日後に、教会が来たと聞いた」
彼は残りを噛み終えて、指を舐めた。
「その男は、おれに文字を教えた。読めるようになると、おれは自分の名前が帳面のどこにあるかを知りたくなった。教会の帳面じゃない。街の帳面だ。人別の帳面には、済んだ人間も載る」
「見たの」
「見た。載ってた。済と書いてあった」
彼は火に枝を足した。
「安心したよ。安心して、それから半年で捕まった」
わたしは黙っていた。
「安心した人間は、家の外へ出るからな」
エルネスは、そこで初めてわたしのほうを見た。
「おれは三日と持たなかった。全部言った。おれを匿った男の名も、店の場所も、教わった文字も、何もかも」
その話を、わたしは小屋の中で聞いていた。焼き印の跡がある男が話したのだと思っていた。
「あれは、あんただったの」
「あの晩、あれを言った奴が二人いた」と彼は言った。「同じことを言える人間が、あの村には二人いる」
彼は火のほうへ手を伸ばした。手のひらを開き、指を広げて、それから胸の前で環を描きはじめた。今度は途中でやめなかった。最後まで描いて、手を下ろした。
「エルネス・ド・ヴァレは、おれのかわりに灰塔へ入った」
「かわりに」
「そういう書き方をされた。匿った者は匿われた者と同じ扱いだ。おれは逃げて、あの人は逃げなかった。それだけの違いだ」
火が小さくなっていた。彼は足そうとしないで、そのまま消えるに任せた。
「峠を越えたら、おれは戻る」
「一緒に来ないの」
「行ってどうする」と彼は言った。「北へ入れば、おれはただの南の男だ。連れの南の男がいると、あんたも南の子になる」
「じゃあ、なんで」
「訊くな」
彼はそれきり横になった。灰海のほうへ足を向けて寝る癖が、風のある土地に出ても抜けていなかった。
峠に着いたのは、それから幾日か後だった。
石を積んだ道標のところに男が二人立っていて、エルネスは彼らと短く何か話した。言葉はわたしの知らないものだった。喉の奥で詰まる音が、いくつも混じっていた。
話が済むと、エルネスはわたしのほうを向いて、初めてしゃがんだ。
「一つだけ言っておく」
「うん」
「あんたを逃がした聖堂騎士がいるって言ったな」
「うん」
「あれは、これから先ずっと、あんたの味方じゃない」
わたしは何か言おうとした。
「そういう話をしてるんじゃない」とエルネスは言った。「いい人間かどうかの話をしてない。あの男は帳面の内側にいる。内側にいる人間は、いつか帳面のほうを選ぶ。おれがそうだった」
「エルネスさんも、選んだの」
「選んだ。三日目にな。おれは帳面の外にいたのに、痛かったから内側の言うことを聞いた。あの人は内側にいて、それでも最後まで書かなかった。逆なんだよ、本当は」
彼は火の跡を足で崩した。
「だから言ってるんだ。誰がどっちを選ぶかは、事前には分からん。分からないものを当てにするなということだ」
彼は立ち上がり、道標に手を触れ、それから来た道を戻っていった。
一度だけ振り返った。振り返って、手を上げた。胸の前で環を描くのではなく、ただ上げただけだった。
わたしも上げた。
彼が見えなくなるまで、峠の男たちは待っていた。待ってから、背の高いほうがわたしの肩を押して、北のほうを指した。




