第4稿:銀色の竜 R
窓際に置かれた椅子に、その老人は腰掛けていた。
短く整えられた髪は真っ白で、顔に刻まれた深い皺は彼の生きてきた年月の証だ。
先ほどまで降っていた雨のおかげか、今日の月はいつものよりも数段美しく見えた。
離れて浮かぶ双つ月は、どちらもほぼ真円に近く柔らかな青い光を地上に投げかけていた。
神話の通り、寄り添うように月が並ぶ澄んだ空では、星々が漆黒の布に散りばめられた宝石の様な色とりどりに瞬く。
その老人の表情はどこか淋しげで、その蒼の双眸はじっと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
「おじいちゃん」
可愛らしい声がして、老人は視線をすぐそばに戻した。
老人の傍らには、同じ顔で同じ柄の寝間着の二人の子供が立っていた。
いや、よく見ると微妙に顔は違うのだが、二人を見分けることができる人間は少ない。 二人とも今年で四歳になる、黒髪の髪に老人と同じ深い蒼の瞳を持った可愛らしい女の子だ。
「どうかしたのかな?」
老人は優しく訊ね、当の彼女たちは互いに肘で突付き合い、やがて二人一緒に口を開いた。
「あのね、寝る前にお話してほしいの」
揃った言葉に老人は蒼い瞳を優しく細め、
「あぁ、いいよ。それじゃあ、先に部屋に行っておくれ」
そう告げた。その言葉に少女たちはうなずくと、嬉しそうに自分たちの部屋に向かって行った。
老人はもう一度夜空を仰ぐ。
眩しそうに目を細めて月を見ると、彼は自分の可愛い孫たちの部屋へ向った。
「さて、今日はどんなお話が聞きたいのかな。家出した王子さまの話かな? それとも、時を渡る魔女のお話?」
老人は、言いながら寝台のそばの椅子に腰を下ろした。
「わたし、海賊の話がいい!」
「それ聞いたことあるよぉ。わたしは、双子の英雄さんのお話がいいな」
「それだって前に聞いたよ。ねぇ、おじいちゃん。誰も知らない話はないの?」
「そうだね……」
こくりと首を傾げた幼子の問いかけに、老人は少し困ったように微笑んだ。
やがて、
「そうだね……。銀色の竜と魔法使いの話はしたことあるかな?」
そう尋ねると、二人の子供は聞いたことが無いと首を振り、老人は良かったとうなずいた。
「ならその話をしよう。それは昔、むかしの物語――」
ちょうど今日と同じくらい、月の綺麗な夜のことでした。
その森には、若い魔法使いがたった一人住んでいました。
ようやっと青年と呼べる年頃になった魔法使いは、ひとりぼっちで森で暮らしていました。
森は広く人里からは遠く離れ、共に暮らすのは言葉の交わせぬ動物たちばかりでしたが、 とても穏やかな時を過ごす事ができました。
森の外では、魔法使いは怖いお化けかなにかと思われているようで、 時折迷い込む者がいても悲鳴をひとつ、残して姿を消したのです。
魔法使いは広い森に、ひとりぼっちでした。
ですが、寂しいと思ったことは一度も、ありませんでした。
その日も、夜の帳が下りて双つ月が煌々と輝く頃、魔法使いは水差しとグラスを手に屋根に上りました。
それは毎日繰り返していることでした。
屋根に腰を下ろした魔法使いは、透明なグラスに水を注ぎ、それを月にかざします。
月の光を受けたグラスに口をつけ、魔法使いは一気にそれを飲み干しました。
グラスを置いた魔法使いは、淋しげに空を見上げます。
彼は一人そうやって夜空を眺めるのが好きだったのです。
暗い夜空に、満月と三日月がふたつ、遠く離れて浮かんでいました。
そして――。
魔法使いは見たのです。銀色に輝く小さな何かが森の北の方に落ちていくのを。
遅れて微かに地面が揺れ、取り落としたグラスは屋根から落ち、澄んだ音をたてて割れてしまいました。
しばらく呆然とその方向を眺めていた魔法使いは、我に返ると慌てて家の中に戻りました。
そして、愛用の杖を手にすると一目散に北へと向かったのです。
杖は、魔法使いにとって命の次に大切なものです。
大昔は杖が無くとも、ただ歌うように言葉を紡ぎ、踊るように紋様を描くだけで、人々は魔法が使えたといいます。
けれどそれは大昔のおはなし。
今の時代を生きる者たちには関係がなく、彼らは杖なしで魔法を使うことすらできないからです。
魔法使いも例外ではありませんでした。
若い魔法使いは暗い夜の森を、長い金髪を風になびかせて急ぎました。
やがて。
魔法使いは、月の光を受けて銀色に輝く生き物を見つけました。
――竜。
そう呼ばれる生き物がいます。
竜の体は硬く美しい鱗に覆われ、大きな翼で風を切り青空を舞いました。
その姿は美しく、多くの者は畏怖と尊敬の念を込めて竜を見るのです。
しかし、その竜たちも年々数を減らしていました。
竜の鱗や牙は薬になり、どんな難病でもたちまち治してしまう――そういう噂があるからです。
その噂に踊らされた人間たちは、竜の鱗や牙を得るために、彼らを狩り続けました。
その結果、竜の数は減ってしまったのです。
魔法使いは驚き、子竜の元へ駆け寄りました。
翼からは血が滲み、地面には数枚の銀の鱗と青い羽のついた折れた矢が落ちていました。
彼の前にいるのは、犬ほどの大きさの子竜でした。意識を失っているのか、竜はぐったりと地面に横たわっています。
彼はしゃがみこみ、蒼い瞳を閉じました。
息を吸って、竜の傷に手をかざし歌い始めます。
その言葉は、人間の言葉ではありませんでした。
精霊の使う言葉です。
歌の内容は、偉大な精霊に願うものでした。
傷を癒し、また元通り暮らせるように。
そのための力を貸してくれ、と。
若い魔法使いは、他の魔法使いのように短い言葉で魔法を操ることができません。
彼が魔法を使うには、呪文よりももっと長い歌を歌い、精霊の力を貸してもらうほかありませんでした。
魔法使いは、精霊の言葉で必死に歌いました。
魔法使いの歌に呼応するように、杖の先に付けられた蒼い宝石は淡く明滅を繰り返しました。
やがて――。
翼の付け根に小さな痕を残し、子竜の傷はふさがりました。
それを確認すると、魔法使いは安堵の溜息を吐きました。
そっと子竜を抱きかかえると、彼はゆっくりと家に向いました。
意識を失っている子竜の体はずっしりと重く、魔法使いはフラフラとしながらゆっくりと歩きました。
それから、一週間が経ちました。
それまでずっと眠っていた子竜は、目を覚ますと寝かされていたバスケットの中でピーピー鳴きます。
すぐそばで床に敷いた毛布の上で寝ていた魔法使いは、その声に慌てて起き上がりました。
まだ太陽すら昇っていないことを知った魔法使いは、頭をかきながら立ち上がりました。
魔法使いは、じたばたと暴れる子竜をバスケットから抱き上げて、床の上にそっと座らせます。
短い尻尾をパタパタとさせ、子竜はじっと魔法使いを見上げます。
おなかが空いている、と判断した魔法使いは、棚の中から木の実と干し肉を取り出しました。
それを美味しそうに食べる子竜を見て、魔法使いは決めました。
子竜をしばらくの間自分の家に置いておくことを。
幸いというべきか……。
魔法使いの住む森には、竜に危害を加えた者たちが立ち入ることはなかったからです。
理由は簡単です。
彼が、魔法使いであるから。
魔法という力を使う人間は、魔法を使えない者から見るととても恐ろしい存在だったのです。
だから、彼の住む森に訪れる者はありません。
魔法使いは、もちろん悪いことにその力は使いませんでした。けれども、森の近くの村人たちからは恐れられ嫌われていたのです。
魔法使いはいつも一人でした。
森には鹿や鳥も住んでいましたが、彼らは話すことができません。 いえ、話しているのかもしれませんが、魔法使いには彼らの言葉を理解できないのです。
誰とも話さず彼は生活していました。
だから、魔法使いは少しだけ嬉しかったのです。
新しい同居者ができたことが。
子竜が魔法使いの家に来て一ヶ月。
一人と一匹は、森の中を散策していました。
魔法使いは杖と小瓶をいくつか持って、子竜は彼の足にまとわりついて、あてもなく森を歩きます。 立ち止まったその場所で、柔らかな春の日差しを浴びて子竜は気持ち良さそうに首を伸ばしました。
魔法使いはその様子を見て笑みを浮かべました。一月前の怪我が嘘のように、子竜は元気になっています。
子竜が仲間の元に戻る日まで、このまま何もなければいいのに……。
魔法使いは空を仰いで、そう願いました。
ガサガサッ。
不意に、背後で茂みが揺れました。
ほとんど無意識のうちに、魔法使いは子竜の元に駆け寄ります。
――化け物が化け物を匿っているとはな。魔法使い?
そう言って彼らは茂みから姿を現しました。
全部で五人の男たちです。
彼らは各々の武器――斧や剣、弓を構えながら言い、魔法使いの足元の子竜に注意を向けました。
彼らは森の近くに住む村人でした。
弓を構える若者の持つ矢は――青い羽のついたものでした。
とっさに魔法使いは小瓶を投げつけました。
瓶が割れた瞬間、子竜を抱いて魔法使いは走り始めます。 瓶が割れると同時に煙が視界を覆い隠し、派手な音が森に木霊しました。
魔法使いの作った魔法の道具です。煙と音で追っ手を惑わすための――。
青い羽の矢が魔法使いの肩をかすりましたが、それを無視して彼は走りました。
瓶の効果があまりなかったのか、遠くから怒鳴り声と足音が聞こえました。
魔法使いは、いつもより遠回りをして走りました。森は彼の家のようなもので、迷うことはありません。
子竜は紫の瞳を心配そうに細めて、魔法使いを見上げて鳴きました。 魔法使いは大丈夫だよというように笑って、また前を向いて走りました。
魔法使いは全力で走り続けました。
彼にとってそれは初めての経験です。
息は切れ足は重く、もうこれ以上走れない。
魔法使いは何度もそう思いましたが、そのたびに子竜に励まされました。
ようやく自分の家が見えたとき、彼はほっとしました。
家の中に入り鍵をかけると子竜を抱いたままその場に座り込んでしまいました。
何度も何度も、彼らは村人に追いつかれました。 そのたびに何とか逃げ切りましたが、矢に、剣に、魔法使いの服は切り裂かれ、彼の白い肌には血が滲んでいました。
それでも、一人と一匹は何とか無事でした。
魔法使いは、子竜を床にそっと下ろすと杖を握ったままずっと警戒していました。
村人がここまで来れたとしても、すぐに反撃できるように。
夜になっても、魔法使いの家には誰一人来ませんでした。
諦めて帰ったか、迷ってしまったか。
そのどちらかでしょう。
もっとも。彼らが森で迷っていたとしても、魔法使いは助ける気などありません。
――それは彼らも同じで、魔法使いに助けられる気もありませんでした。
子竜はそっと魔法使いの表情を伺います。
それに気付いた魔法使いは、にっこりと笑いかけました。子竜はピーピーと鳴いて、魔法使いに擦り寄ります。 優しく頭をなで、魔法使いは自分の傷の手当てをし始めました。もう血は乾き、傷が塞がっている部分もありました。
魔法使いは、血を拭い汚れを落とし消毒します。服を着替えると、一人と一匹はそっと家の外に出ました。
外には、彼らしかいませんでした。
改めて、魔法使いはそっと子竜を抱き上げました。
子竜は――安心したのか、ぐっすりと眠っていました。
その幸せそうな寝顔を見ていると、魔法使いは子竜を手放したくないと思いました。
一人ぼっちの魔法使いにとって、子竜のいる生活はずっと望んでいたものです。
家に戻るといつも誰かがいて、彼を迎え入れてくれる者を、魔法使いは望んでいました……。
例えそれが叶わぬものだとしても、魔法使いはずっと子竜と一緒にいたいと願いました。
そして。
どれ程願おうとも、その時はやってくるものです。
それは、彼らが出会ってから六回目の満月の日でした。
子竜は、子竜と呼べないほど大きくなり、今では魔法使いを見下ろせるほどです。
いつものように、魔法使いは竜とともに空を見上げていました。
満月は美しく、星はちらちらと輝きます。
彼らが出会った日の夜に劣らない、美しい月夜でした。
しばらく眺めていると、北の空に銀色に輝く何かを、魔法使いは見つけました。
それは少しずつ大きくなっているように見えます。
肉眼でそれが確認できるようになった時、魔法使いはそこから視線を逸らしました。
認めたくなかったのです。
子竜を迎えに来た、銀色の鱗を持つ者たちのことを……。
視線をそらした魔法使いに、子竜はめずらしく甘えた声でねだりました。
言葉は通じませんが、なんとなく、魔法使いには竜の言いたいことがわかりました。
泣きそうになって、無理矢理それを我慢して。
口を開いたら嗚咽が漏れそうだったけれど、少し待ってと魔法使いは言って、杖を持って来ます。
子竜の隣に腰を下ろすと、魔法使いはいつものように歌い始めました。
旅立つ者に安全を。行く先にあるのは幸福を――。
大切な者の旅立ちを祝福し、その旅路が安全なものであるように願う歌。
魔法使いは、心を込めて歌いました。
子竜は――子竜は、紫の瞳を幸せそうに細めていました。
上空には一匹の銀色の竜が待っています。
まるで子竜を誘っているかのように。
そして。
子竜は翼を広げると、上空へと羽ばたいて行きました。
上空で待つ竜の元にたどり着くと、子竜は地上を見下ろして、一声鳴きました。
長く、優しく、そして長く。
その声は、森に響き渡ります。
そして、二匹の竜はそのまま北の空へと飛翔していきました。
魔法使いが屋根に上ると、北の空には無数の銀色の光が漂っています。
しばらくの間、空を漂っていたその光の集団は、やがて消えていきました。
魔法使いはじっと、その光が見えなくなっても北の空を眺めていました。
それは、とてもとても綺麗な光景で。
「魔法使いは、まるで瞼に焼き付けるかのように、その光が消えるまでずっと眺めていたのです。
光が消えた頃。魔法使いの頬を、涙が濡らしていました……」
老人は、そこまで語ると二人の子供を見て微笑んだ。
「もう終わり?」
「そう……だね。これで、この話は終わりだよ」
老人は悲しそうに笑ってそう言った。
「ねぇ、魔法使いはどうなったの?」
子供の一人はそう訊いた。
「魔法使いはね。魔法使いはその後、森の中である人と出会って……幸せに暮らしているんだよ。
さぁ、もう遅い。今日はおやすみ」
微笑むと、布団を掛けなおしてやり、老人はそっと廊下に出た。
窓際の椅子に戻り、彼は腰をかけるとまた空を見上げた。
丸い月は、美しく。
部屋に入り込む風は、優しく老人の頬を撫でた。
「――竜と別れた後」
老人は、月を見上げながら静かに語り始めた。
誰に聞かせるでもなく、ただ静かに――。
――竜と別れた後、魔法使いはまた元の孤独な生活に戻りました。
振り向いても誰もいない。
甘えて擦り寄る子竜の姿はどこにもなく。
早朝に鳴き声で起こされることも無い。
元の生活に戻っただけなのに、魔法使いは孤独に押し潰されそうでした。
そんなある日です。
ある日、孤独な魔法使いは森に迷い込んだ一人の女性と出会いました。
その人は、美しい黒髪に、明るい緑の瞳を持っていました。
二人は、出会ったその瞬間に恋におちました。
それからの日々は、彼にとって幸せなものでした。
一人しかいない家には、笑い声が絶えずいつも誰かがいる。
愛する妻と、子供たちと。
永遠と思われる幸せな時はやがて過ぎ去り、また別れの時が来て――。
魔法使いは、最愛の者を喪いました。
それでも。
少なくとも魔法使いは、また孤独に戻ることは無かったのです。
愛する者を失った悲しみは残るけれど、彼は一人ではない。
大切な人がいなくなった分、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったけれど。
子供たちと、孫たちと。
魔法使いは、彼らに囲まれて幸せに過ごしていました。
月を見上げるその蒼い瞳から、涙が一粒零れ落ちました。
――――
レクナーにて
初出:2004/05/29




