第三章 砂塵と星
第三章 砂塵と星
5
それから一週間が過ぎた。エルヴィンは毎日のようにカフェに立ち寄り、ハンナが現れるのを待った。しかし彼女はついに姿を現さなかった。
その事実は、彼の胸に小さな棘のように残り続けた。
戦況の悪化よりも、撤退命令よりも、その棘の方がなぜか気になった。
撤退準備は着々と進んでいた。放送局の主要機材は分解され、トラックに積み込まれている。破壊すべきものには爆薬が仕掛けられ、最後の瞬間にスイッチを入れればいいだけとなった。ベッカー軍曹は無表情にそれらの作業を進めていた。
その無表情さが、逆にこの異常な状況を際立たせていた。
エルヴィンはある夜、放送局の屋上に上がった。高さ三階ほどのその建物からは、トリポリの街並みが一望できた。かつては白亜の美しい町並みだったというが、今では闇夜の向こうに、ただところどころの明かりが見えるだけだった。灯火管制のため、市民も軍も窓の光を厳しく遮蔽している。星だけが、無造作に輝いていた。
砂漠の上空は驚くほど星が近い。まるで手を伸ばせば届きそうなほどに。
その近さが、逆に孤独を強めた。
エルヴィンは星座を探した。北極星はない。オリオン座が南の空に傾いている。異国の星空だった。ベルリンではこんなふうに星は見えなかった。光害と煤煙が、星々を飲み込んでしまうからだ。
「ハルトマン中尉」
後ろから声がした。
その声は、砂漠の夜気よりも静かに、しかし確かに彼の背中に触れた。
振り返ると、ハンナが屋上の出入り口に立っていた。今日は三つ編みではなく、髪を緩やかに下ろしている。月明かりがその輪郭を銀色に縁取っていた。
「こんなところで何を?」
「星を。といっても、見えるのは星だけですから」
エルヴィンは手すりにもたれかかった。
ハンナが近づき、隣に立つ。
その距離が、思った以上に近かった。
風が彼女の髪を少しだけ揺らした。
その揺れが、彼の胸の奥の緊張をわずかにほどいた。
「あなたをカフェで待っていたのですが、姿を見せませんでしたね」
「今週は夜間の放送が多くて。連合軍の動きに関する情報をアラビア語で流す仕事が増えました。正直言って、あまり気持ちのいい仕事ではありません。偽情報も多いですから」
「それでもあなたはそれを流す」
「もし私が拒否すれば、代わりはいくらでもいます。それに、もし私がいなければ、誰も正確に翻訳されているかどうかをチェックできない」
彼女の口調には、諦念と誇りが混ざり合っていた。
その均衡が、彼には壊れやすいガラス細工のように思えた。
「ロンメル元帥の戦線は崩壊しつつある」エルヴィンは唐突に言った。「あなたもそれを知っているはずだ」
「知っています。撤退の噂は市内に広がっています」
「私はあなたに警告しなければならない。連合軍がこの街を占領した後、ユダヤ人であるという理由だけで、あなたは危険な立場に置かれる可能性がある」
ハンナは少し驚いたようにエルヴィンを見つめた。
その驚きは、彼の言葉の内容よりも、彼が自分を案じているという事実に向けられているようだった。
「あなたは連合軍がユダヤ人を迫害すると思っているのですか?」
「いいや。しかし、無秩序な状況では何が起こるかわからない。もしあなたの立場が、ドイツ軍に協力していたという嫌疑をかけられれば―」
「私はただの翻訳者です。宣伝のためではありません。実際の情報を伝えているだけです」
「連合軍はそうは見ないかもしれない」
ハンナは沈黙した。
風が強くなり、彼女の髪をより激しく揺らした。
エルヴィンは自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
その動作は自然だったが、胸の奥では何かが静かに跳ねた。
香ばしいような、かすかな花の匂いがした。ジャスミンだろうか。
「ありがとう」ハンナが小さな声で言った。
その声は、さっきよりも柔らかかった。
「でも、あなたはなぜ私を気にかけるのですか。私はユダヤ人です。あなたはドイツ国防軍の将校です」
「私はただ、一人の人間を気にかけているだけです。制服の下では、私たちは皆、同じ血と涙を持っている」
「その言葉を、ベルリンであなたの上官が聞いたらどうなりますか」
「おそらく軍事法廷でしょうね」
エルヴィンは笑った。声を出さない、ただ口元が緩むだけの笑みだった。
ハンナもそれにつられて、かすかに笑った。
その笑みは、砂漠の夜よりも温かかった。
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6
その夜、二人は屋上で長い時間を過ごした。
話した内容は、戦争とは無関係のことばかりだった。
ハンナはハイファの海の話をした。
地中海の青さ。夕暮れ時に港に戻る漁船のランプの灯り。
父が連れて行ってくれたシナゴーグの古い聖歌。
エルヴィンはベルリンの冬の話をした。
凍りつくシュプレー川。クリスマスマーケットのローストアーモンドの匂い。
グレーテが編んでくれたマフラー。娘が初めて雪だるまを作った日のこと。
二人の言葉は、砂漠の夜気の中で静かに混ざり合った。
その混ざり方は、戦争の音とはまったく違う、柔らかい響きを持っていた。
「戦争が終わったら、何をしますか」
ハンナが尋ねた。
この質問は、この一週間で彼女が二度目にエルヴィンに投げかけるものだった。
「わからない。でもおそらく、ベルリンに戻って、また軍医として働くことになるでしょう。戦前は軍の病院に勤めていたのです」
「軍医? あなたは医学を学んでいたのですか」
「ええ。ミュンヘン大学で。戦争がなければ、もう開業していたかもしれません」
エルヴィンは右手を見つめた。
この手で多くの負傷兵を治療してきた。
多くは助かったが、多くは助からなかった。
「あなたはよい医者だったのでしょうね」
「そんなことはない。技術だけなら誰でも習得できます。大切なのは、患者の痛みを理解する想像力です。それが私には足りない」
「そんなことはないと思います。あなたは私のことを想像している。ユダヤ人でありながら、ドイツ軍に雇われている私の立場を」
ハンナの言葉に、エルヴィンは答えられなかった。
胸の奥に、静かだが確かな熱が灯った。
それは危険な感情だった。
軍人としても、一人の人間としても。
午前二時を回った頃、遠くで爆発音が聞こえた。連合軍の砲撃だった。まだ街には届いていないが、確実に近づいている。
「下に戻りましょう」エルヴィンは言った。「ここは危ない」
階段を降りる途中で、ハンナが突然立ち止まった。
「中尉」
「何ですか」
「あの歌をもう一度、私の声で聞いてみませんか」
エルヴィンは驚いた。
しかし、その驚きの奥に、抑えきれない期待があった。
二人は地下の技術室へ向かった。ベッカー軍曹は今夜は別の場所で待機している。誰もいない部屋で、ハンナは蓄音機の前に立った。エルヴィンは壁にもたれて、彼女を見つめた。
彼女は深く息を吸い、目を閉じた。
そして歌い始めた。
「Vor der Kaserne, vor dem großen Tor…」
その一節だけで、
兵舎の前の灯りの下で再会を誓う恋人たちの情景が、
まるで目の前に浮かぶようだった。
ハンナの声は澄んでいた。
澄んでいるのに、どこかかすれたような、夜露を含んだ草の匂いのような響きがあった。
エルヴィンはその声に、自分がなぜこの女性に惹かれるのかを理解したような気がした。
それは郷愁ではない。故郷への思いでもない。
もっと別のものだ。
それは、戦争の中で失われつつある、人間らしさの最後の灯火のようなものだった。
歌が終わった。針が擦れる音だけが部屋に残る。
ハンナがゆっくりと目を開けた。
その目には涙が浮かんでいた。
エルヴィンは何も言わず、胸の内ポケットから白いハンカチを取り出し、彼女に差し出した。
「泣いているのですか」
「泣いてはいません。ただ、砂埃が目に入っただけです」
ハンナはハンカチを受け取り、そっと目の端を押さえた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「嘘です。乾季に砂埃がない日はありませんから」
エルヴィンも笑った。
二人はそのまましばらく、針の擦れる音だけを聞いていた。
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