第四章 最後の放送 〜 終章
第四章 最後の放送
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撤退命令が正式に下ったのは、それから三日後のことだった。トリポリからドイツ軍部隊は四十八時間以内に完全に撤退しなければならない。機材は持ち出せるものだけを積み込み、残りは破壊する。書類は焼却。連合軍の進撃はすでに街の西端まで迫っていた。
エルヴィンはその日、ほぼ徹夜で作業を指揮した。放送局の書類を分類し、重要なものだけをトランクに詰める。機密文書は炉の中で燃やし、灰をかき混ぜて完全に消し去る。紙が燃える匂いが、夜明け前の冷たい空気に混ざって漂った。
焦げた紙の匂いは、いつも彼にベルリンの冬を思い出させた。暖炉の前で娘が絵本を読んでいた光景。だが今は、その記憶すら遠い。
午前四時、彼は最後の仕事に取り掛かった。ベルリンへの最終報告の暗号文を作成することだった。執務室のランプだけが、薄暗い机の上を照らしている。ランプの光は弱々しく、まるでこの街の運命を象徴しているかのようだった。エルヴィンは鉛筆を手に取り、便箋に書き始めた。『トリポリ放送局、本日をもって機能停止。全機材処理完了。撤退準備完了。』書き終えたとき、ドアをノックする音がした。
「ハルトマン中尉、ハンナ・ローゼンタールが参りました。面会を求めています」
伝令兵の声に、エルヴィンは胸の奥がわずかに跳ねるのを感じた。彼は一瞬考えるふりをしてから、「通せ」と答えた。
ハンナはシンプルなグレーのスカートと白いブラウスという出で立ちで現れた。手には小さな鞄一つ。それが彼女のすべての所有物らしかった。彼女の姿は、戦争の混乱の中にあっても不思議な静けさをまとっていた。
「中尉、撤退は明日ですか」
「そのはずだ。あなたはどうする」
「私もハイファに戻ります。バスで。まだ動いている便があると聞きました」
エルヴィンはうなずいた。最善の選択だと理解しているのに、胸の奥には何かが引っかかった。この女性をこのまま送り出してしまっていいのか。二度と会えないかもしれない。戦争が終われば尚のこと、敵性国民となったユダヤ人とドイツ軍将校が会うことはありえない。
「一つお願いがあります」
ハンナが言った。
「何です」
「最後の放送をさせてください。リリ・マルレーンを。この街に残る人々に、あの歌を届けたいのです」
その願いは、彼女の声の奥にある震えとともに響いた。彼女にとって、この歌は単なる曲ではない。灯りそのものなのだ。エルヴィンはしばらく考えた。放送局の機材はすでに大半が撤収されている。しかし、簡易的な送信機ならまだ動かせるだろう。
「許可しよう。ただし、時間は十分しかない。誰も聴いていないかもしれないぞ」
「それでも構いません。たとえ誰も聴いていなくても、歌うことに意味があるのです」
その言葉は、彼の胸の奥に静かに沈んだ。技術室へ向かう途中、エルヴィンはベッカー軍曹を呼び止め、簡易送信機を準備させるよう指示した。ベッカーは無表情だったが、わずかに眉を動かした。それが彼なりの驚きの表現だった。スタジオは荒れ果てていた。機材が撤去されたあとで、壁の防音材が剥がれ、床には埃が積もっている。しかし、中央のマイクだけは残されていた。エルヴィンが手配したものだ。ハンナはマイクの前に立ち、一度深呼吸をした。
「中尉、お願いがあります。あなたもここにいてくれませんか。私だけでは少し怖いのです」
「私は軍人だ。歌を歌うためにいるのではない」
「あなたがそこにいるだけでいいのです。誰かが自分の存在を認めてくれるとわかるだけで、人は強くなれます」
その言葉は、彼の防壁を静かに崩した。エルヴィンはためらったが、結局スタジオの隅に立つことにした。ハンナはマイクのスイッチを入れた。赤いランプが点灯する。
「こちらはトリポリ放送局です。これが最後の放送になります。司会のハンナ・ローゼンタールが、一曲お送りします。どうか、どうか皆さん、ご無事で」
その声は、祈りそのものだった。ハンナは歌い始めた。
「Unsere beiden Schatten, sahen wie einer aus…」
その一節だけで、灯りの下で寄り添う恋人たちの影が、まるでスタジオの中に浮かび上がるようだった。彼女の声は澄んでいた。澄んでいるのに、どこか震えていた。その震えは恐れではなく、願いだった。エルヴィンは目を閉じた。ベルリンの灯り。グレーテの顔。エーリカの笑顔。そして――なぜかハンナの横顔が重なる。振り払おうとしても、振り払えなかった。歌が終わった。赤いランプが消える。ハンナはマイクの前から離れ、エルヴィンの方を向いた。頬には涙の跡。
「ありがとう、中尉」
「どういたしまして」
二人はしばらく無言で立っていた。その沈黙は、戦場の沈黙とは違った。温度があった。
遠くで爆発音がした。今度は近い。
「行かなければ」
ハンナが言った。
「送っていく」
「そんな、あなたは仕事が―」
「構わない。これも仕事のうちだ」
彼は彼女の鞄を取り、外へ出た。夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。
8
二人はデクマヌス通りを東へ歩いた。街はひっそりとしていたが、どこかで荷造りをする音がした。人々の息遣いが、戦争の終わりと始まりの狭間で揺れていた。ハンナの足取りは軽くはなかった。だが、迷いはなかった。
「中尉、一つ聞いてもいいですか」「何だ」
「もし、もしも戦争が違う形だったら。あなたと私は、友人になれたと思いますか」
エルヴィンは足を止めた。その問いは、彼の胸の奥の痛点に触れた。
「おそらく、なれたでしょう。私はあなたの歌を聴きたかった。あなたは私に医学の話を聞きたかったかもしれない」
「そうですね。麻酔の話とか、手術の話とか」
「つまらない話ばかりですが」
「退屈な話が、一番聞きたいくらいです。戦争の話は、もうたくさんですから」
その言葉は、彼の胸に静かに沈んだ。バスターミナルに着くと、老朽化したバスが待機していた。乗客は十数人。皆、何かを失い、何かを守ろうとしている顔だった。
「これでお別れですね」
「そうなります」
「あなたのハンカチ、お返しします」「持っていなさい。私はベルリンに戻ったら、新しいのを買える」
「ありがとう。ずっと大事に持ってます」
ハンナは微笑んだ。その微笑みは、別れの痛みを隠すためのものではなく、感謝そのものだった。
「中尉、最後に一つだけ。本当のことを言います」
「何を」
ハンナは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
砂漠の夜気が、喉の奥に入ってくるみたいに重い沈黙があった。
彼女は息を吸う。
その息は、わずかに震えていた。
「私はあなたに恋をしてい......」
そのとき、遠くでバスのエンジンがかかる音がした。
乾いた空気の中で、それだけがやけに現実的だった。
ハンナは小さく息を吐き、わずかに笑った。
「行かなければ。あなたの隣に立っているときだけ、私は戦争を忘れられました」
エルヴィンは何も言えなかった。
返すべき言葉はいくつもあったはずなのに、そのどれもが声になる前に失われていった。
「無事を祈る」
エルヴィンは鞄を持ち直し、それ以上何も言わなかった。
ハンナの言葉は、砂漠の夜よりも静かに、しかし鋭く彼の胸に落ちた。「あなたの隣に立っているときだけ、私は戦争を忘れられました」エルヴィンは胸の奥が熱くなり、痛くなった。ハンナは振り返らずにバスに乗り込んだ。バスが動き出す。砂埃を巻き上げながら、東の門へ向かう。エルヴィンは、その後ろ姿を見送った。バスが完全に見えなくなるまで。
終章 灯り
それから約二か月後、ドイツ軍は北アフリカから完全に撤退した。エルヴィンはベルリンに戻り、家族と再会した。グレーテは彼を無言で抱きしめ、エーリカは彼の首に飛びついて泣いた。家族の温もりは、戦争の冷たさを一瞬で溶かした。だが、心の奥にはまだ砂漠の風が残っていた。一九四五年、戦争は終わった。エルヴィンは連合軍の捕虜となり、二年間の収容所生活を経て、一九四七年にベルリンへ戻った。街は廃墟と化していたが、人々はそこに再び家を建て、道を作り、生きることを選んだ。軍医の多くは研究機関や病院で医師として再就職したがtエルヴィンは医学の道に戻ることはしなかった。代わりに、彼は小さな出版社を始めた。戦争文学を扱う本屋も兼ねた小さな出版社だった。グレーテが経理を担当し、エーリカは成長して店の手伝いをするようになった。平凡な、しかし平和な日々だった。ある夏の夕暮れ、エルヴィンは店のラジオをつけた。どこかの放送局が、戦時中のヒット曲を集めた特別番組を流していた。
「さて、次の曲は皆さんよくご存じのあの曲です。戦争が終わって十年。今でも色あせない名曲。リリ・マルレーンをどうぞ」
針の音。そして、あの旋律。
エルヴィンは目を閉じた。トリポリの砂漠の風。星の降るような夜空。地下の技術室で歌うハンナの横顔。彼はあの後、彼女の消息を一切知らなかった。ハイファに無事に着いたのか。戦争を生き延びたのか。そして今、どこで何をしているのか。しかし、それでよかったのだと思う。あの一瞬の邂逅があったからこそ、彼は戦争のただ中で人間性を失わずに済んだ。彼女もまた、そうだったらいい。たとえ二度と会えなくとも、あの灯りの下で交わした瞬間は、確かに二人の人生を変えた。歌は続く。
「Wie einst Lili Marleen…」
エルヴィンはラジオのボリュームを少し上げた。店の外では、夏の夕暮れが静かに降りていた。




