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リリ・マルレーン 〜Lili Marleen  作者: はまゆう


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第二章 灯りの下の影

第二章 灯りの下の影


3


翌日の午後、エルヴィンは司令部からの帰り道、デクマヌス通りに面したカフェに立ち寄った。イタリア風のテラス席は、日中は強い日差しを避けるため日よけの帆布で覆われているが、その帆布もところどころ破れ、陽光がアスファルトに斑模様を落としていた。

その斑模様が、彼には妙に落ち着きなく揺れて見えた。昨夜から、心のどこかが静まらない。


カフェの主人は四十代のリビア人で、ムスタファと呼ばれていた。彼はドイツ語もイタリア語も自在に操り、将校たちの溜まり場となったこの店を辛うじて営業し続けていた。砂糖もコーヒー豆も不足する中で、よくもまあ供給を維持できているものだとエルヴィンは常々感心していた。

(同時に、彼がどこまで“こちら側”なのか測りかねてもいた。)


「今日は何にしますか、中尉」


「いつものもので構わない」


簡素なエスプレッソが、銀製の小さなカップで運ばれてきた。エルヴィンはそれを一口含み、苦味が舌の上で広がるのを確かめた。砂糖は入っていない。砂糖は貴重品であり、将校といえども贅沢は許されない。

苦味が喉を通ると同時に、胸の奥に沈んでいた何かがわずかにざわついた。理由はわからない。


カフェの奥から、ラジオがかすかに流れていた。トリポリ放送局のものだ。イタリア語のニュースの後、軽音楽が始まる。エルヴィンは聞き覚えのあるその曲に、思わず耳を澄ませた。


リリ・マルレーン。またしてもその曲だった。この放送局はいつもこの曲をかける。いや、聴取者たちがそれを求めているのだ。前線の兵士も、後方の看護婦も、野戦郵便で届く手紙の中で「あの歌をかけてほしい」と訴える。

昨夜、ガラス越しに見た“あの女の口元”が、ふいに脳裏に浮かんだ。

その記憶が、曲の旋律よりも強く胸を揺らした。


ムスタファがカウンターの向こうから顔を出した。


「いい歌ですね。私の客の半数は、この歌を聞くためにラジオをつけています」


「あんたもか」


「私はアラブの音楽の方が好きですよ。でも、この歌は特別です。戦争を忘れさせてくれる」


エルヴィンはカップを置き、通りを見つめた。砲撃で半壊した建物、埃をかぶった棕櫚の木、そして歩道で物乞いをするリビア人の老婆。戦争を忘れさせてくれるものなど、この街のどこにあるというのだろう。

――忘れたいと思っている自分がいることを、彼は認めたくなかった。


その時、カフェの入り口が開き、人影が差し込んだ。エルヴィンは反射的にそちらを向いた。栗色の髪を三つ編みにした若い女性。先ほど放送局で見た女性だった。ハンナ・ローゼンタール。


彼女は迷いなくカウンターに向かい、ムスタファとアラビア語で何かを交わした。流暢なそれに、エルヴィンは少し驚いた。ハイファ出身なら、アラビア語もヘブライ語も英語もドイツ語も話せるのだろう。

だが驚きよりも先に、胸の奥に“構える”ような感覚が走った。

理由はわからない。ただ、彼女の声が昨夜よりも近く聞こえた。


彼女がコーヒーを受け取り、席を探して店内を見回した。テラス席は満席ではないが、人影はまばらにあった。彼女の視線が、たまたまエルヴィンのいる隅の席に止まった。


一瞬、彼女の動きが止まった。制服の階級章を認めたのだろう。ユダヤ人がドイツ軍将校と同席することは、表面上は問題ないとはいえ、内心穏やかではないものがあるに違いない。

その“硬直”が、なぜかエルヴィンの胸に刺さった。

避けられる、と思った。

だが同時に、避けられたくないという衝動が湧いた。


エルヴィンは彼女に軽く手を挙げた。席にどうぞ、というしぐさだった。ためらいが彼女の顔を横切る。しかし結局、彼女は小さくうなずき、向かいの席に腰を下ろした。


「失礼します。ハンナ・ローゼンタールです」


「エルヴィン・ハルトマン。陸軍中尉」


自己紹介を交わした後、しばらく沈黙が流れた。カフェの店内では、ラジオが別の曲に変わっていた。ビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』。不思議なことに、この砂漠の街で雪を歌う音楽が流れている。

その不釣り合いな旋律が、二人の間に落ちた沈黙をさらに際立たせた。


「あなたが歌っているのを聞きました。昨夜のスタジオで」


エルヴィンが切り出した。ハンナは目を少し見開いた。


「ご存じだったのですか? 防音ガラス越しに音は聞こえないはずですが」


「口の動きでわかりました。リリ・マルレーンですね」


彼女の頬が、かすかに紅潮したような気がした。エルヴィンはそれを確かめようとはしなかった。彼はたばこを取り出し、今度は実際に火をつけた。紫煙がゆっくりと天井に向かって昇っていく。

煙の向こうで、彼女の表情が揺れて見えた。


「あの歌は、兵士たちに希望を与えているそうです。ベルリンでは、ゲッベルスが嫌っていると聞きますが」


「プロパガンダ省はあの歌を『退廃的』だと決めつけています。でも、前線の兵士たちはそんな評価を気にしませんよ」エルヴィンは煙を吐き出しながら言った。「兵士はただ、故郷を思い出させてくれるものを求めているだけです」


「あなたもですか、中尉」


「私も何だ」


「故郷を思い出させてくれるもの」


エルヴィンは答えずに、カップの中の冷めかけたコーヒーを見つめた。彼はあまり人に自分の内面を語らない。それがこの戦争を生き抜く術だった。しかし、この女は違った。彼女はその大きな瞳で、エルヴィンの沈黙を許容しながらも、逃がさなかった。

その視線が、彼の心の奥に触れようとしているように感じられた。



4


「故郷はベルリンですか」


ハンナが静かに尋ねた。

その問いは穏やかだったが、エルヴィンには胸の奥を不意に突かれたように感じられた。

戦地で“故郷”を問われることは、心の奥の柔らかい部分に触れられるのと同じだった。


「そうです。妻と娘がいます」


言葉にした瞬間、胸の奥に固く沈んでいたものが、わずかに軋んだ。

戦場では、家族の存在は弱点になり得る。

だからこそ、普段は口にしない。


「それをここで話しても大丈夫なのですか? 戦地では家族の話はあまり好ましくないと聞きますが」


「あなたはストレートな質問をしますね」


エルヴィンは微かに笑った。

その笑みは、長い間使っていなかった筋肉を動かすようなぎこちなさがあった。

だが同時に、心の緊張がほんの少しだけ緩むのを感じた。


「すみません。放送局の仕事で、質問を決して曖昧にしない訓練を受けているものですから」


「なるほど」


彼はたばこを灰皿に押し付け、新しい一本を取り出したが、結局火をつけずに手の中で弄んだ。

火をつけないのは、彼の心がまだ“構えている”証だった。


「話しても構いません。検閲を受けるわけでもなし。ただ、誰も聞きたがらないだけです。兵士は皆、自分のことで精一杯でね」


「では、私は聞きたいと思います」


その言葉は軽やかだったが、軽さの奥に、彼女の誠実さがあった。

その誠実さが、エルヴィンの胸の緊張をさらにほぐした。


エルヴィンは何の衒いもなく、グレーテとエーリカのことを話した。

娘が学校で習った詩を暗唱する様子。

妻が日曜日に焼くザワークラーフェンの匂い。

菩提樹の木陰での家族写真。


語るほどに、声が柔らかくなっていく。

自分でも驚くほどだった。

戦場では固く閉ざしていたはずの心の扉が、少しずつ開いていくのを感じた。


ハンナは黙って聞いていた。

探るでもなく、哀れむでもなく、ただ受け止めるように。

その静かな態度が、エルヴィンの緊張をさらに溶かしていった。


「あなたは、どうしてここで働いているのですか」


話し終えた後、エルヴィンが尋ねた。

今度は彼が彼女の内側に触れたいと思った。

それは単なる興味ではなく、彼女の“影”の正体を知りたいという衝動だった。


ハンナは少し間を置いた。


「家族はハイファにいます。父はかつてドイツで医学を学びました。だから私たちはドイツ語が話せる。戦争が始まったとき、多くのユダヤ人がパレスチナから逃げましたが、私たちは残った。ここに仕事があったからです」


淡々とした語り口の奥に、彼女が抱えてきた重さが滲んでいた。


「ドイツ軍の放送局で働くことに抵抗は?」


「ありません。と言ったら嘘になります。でも、戦争は私たちが選んだものではありません。それでも生きていかなければならない。私はただ、与えられた仕事をするだけです」


その誠実さは、エルヴィンの胸に静かに染み込んだ。

彼女は、何かを隠していないように見えた。

――いや、隠していないように“見せている”のかもしれない。

そんな思いが一瞬よぎったが、すぐに消えた。


「その歌、リリ・マルレーンは、あなたにとって何ですか」


エルヴィンが尋ねると、ハンナはしばらく考え込んだ。

両手でコーヒーカップを包み込み、その表面に映る自分の姿を見つめる。

その沈黙は、彼女が心の奥に触れられた場所を確かめているようだった。


「父がよく歌っていました。私が小さい頃に。父にとってあの歌は、失われた青春の象徴なのだと思います。第一次大戦後、ワイマールで過ごした日々。ユダヤ人でありながら、自由に芸術を享受できた時代。今となっては遠い昔の話です」


彼女は顔を上げ、エルヴィンをまっすぐに見た。

その視線は、彼の胸の奥にある“痛点”を正確に探り当てるようだった。


「中尉、この戦争は終わります。あなたも、私も、それを知っています。終わった後、私たちは何を歌うのでしょう?」


その問いは、未来の話をしているようでいて、

実は“あなたは何を望んでいるのか”と問うているように感じられた。


「さあ、わかりません。でも―」


エルヴィンはそこで言葉を切った。

胸の奥に、言葉にできない何かが引っかかった。


その瞬間、カフェの入口に軍用バイクが停まる音がした。

伝令兵が駆け寄ってくる。


「ハルトマン中尉! 緊急です。ロンメル元帥から直接の指令が」


エルヴィンは立ち上がり、制服のジャケットの裾を整えた。

ハンナに向き直り、軽く会釈する。


「また、この店でお会いしましょう。よろしければ、あの歌の本当の意味について、もう少し教えてください」


「それでは、兵士さんの希望のために」


ハンナがそう言うと、口元がほんの少し上がった。

その微笑みは、緊張を溶かすような温度を帯びていた。

エルヴィンはその表情を記憶に刻みながら、バイクへと歩いていった。


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