はじめに 〜 第一章 砂漠のラジオ
リリ・マルレーン
はじめに
この物語は、第二次世界大戦下の北アフリカ、トリポリの町で、兵士たちに愛されたあの歌をめぐる、あるドイツ人将校とユダヤ人女性の邂逅を描くものである。実在の人物や出来事とは無関係の、ひとつの想像の産物であることをお断りしておく。
戦争は多くのものを奪う。しかし同時に、忘れえぬ瞬間をもたらすこともある。
灯りの消えた街角で、リリ・マルレーンが静かに歌われたあの夜のように――。
その“忘れえぬ瞬間”は、いつも唐突に訪れる。
そして訪れた瞬間、人は自分の心がどこへ向かうのかを、もう選べなくなる。
---
第一章 砂漠のラジオ
1
エルヴィン・ハルトマン陸軍中尉は、砂埃で曇った窓の外をぼんやりと見つめていた。
ぼんやりと――しかし、その視線の奥には、言葉にできない疲労と緊張が沈殿していた。
トリポリの旧市街に面したこの二階の部屋は、かつてイタリアの植民地官庁として使われていたらしい。天井の高い部屋の壁には、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、その下の石積みが露わになっている。窓枠は複雑なアラベスク文様の彫刻が施された木製で、しかしその細工の繊細さも、三年続く戦争の荒廃の前では無残に傷んでいた。
その傷みは、まるで自分自身の内側を映しているようだった。
戦争は、人の心の細工も容赦なく削っていく。
「ハルトマン中尉、ベルリンから暗号が入りました」
ドアのところで、若い伝令兵が直立している。十九歳そこそこに見えるその青年の声には、いつも緊張の糸が張りつめていた。
その張りつめた声が、部屋の空気をさらに硬くした。
エルヴィンはゆっくりと振り返り、書類の山の上に置かれた無線機の方へ歩いていった。
「読め」
手渡された暗号解読文には、簡潔な命令が記されていた。
『トリポリ放送局の機能停止準備を開始せよ。撤退は二週間以内。現地の協力者リストは持ち出し禁止、現地処分のこと』
エルヴィンは紙片を机の上に置き、ペンケースから一本の鉛筆を取り出した。細く削られたその先端で、無造作に受信日時を書き加える。手は少しも震えていなかった。
震えないのは、慣れているからだ。
戦争は、驚きや恐れを奪い、ただ“処理すべき事実”だけを残す。
トリポリはもう長く持たない。連合軍は西から押し寄せ、ロンメルの戦線は日に日に後退している。満足に食料も補給されない兵士たちは、もはや飢えた狼のようにやつれ果てていた。しかし、それでも彼らは戦い続ける。戦う以外に生きる術を知らないからだ。
エルヴィンは机の引き出しを開け、中から一枚のレコードを取り出した。傷だらけの紙のジャケットには、かすれた活字でこう書かれている。
『リリ・マルレーン』 歌:ラーレ・アンデルセン
このレコードは、彼が一年前にベルリンからこの地に赴任する際、妻のグレーテがそっと荷物の中に忍ばせてくれたものだった。軍の将校が個人で音楽を聴くことは条例で禁じられていないが、好ましい行為とはされていなかった。それでも彼は、誰もいない深夜に時々このレコードを聴いた。
音楽が終わるたびに、針の擦れるノイズだけが残る。その瞬間、エルヴィンはいつもベルリンの自宅を思い出した。グレーテがピアノを弾き、六歳になる娘のエーリカがそれに合わせてくるくる回って踊る。リビングの窓からは、菩提樹の若葉が風に揺れているのが見えた。
あの光景が永遠に続くと思っていた。しかし、人間の永遠はあまりにも短い。
その短さを、戦争は容赦なく突きつけてくる。
2
その夜、エルヴィンはいつものように無線室を巡回した後、放送局の技術室へ向かった。トリポリ放送局は、イタリア時代に建てられたモダニズム様式の建物で、正面にはデクマヌス通りに面した白い柱廊があった。しかし現在では、その白さは砂塵と煤煙でくすみ、局舎の周囲には対空砲陣地が構築されていた。
技術室は地下にあった。鉄筋コンクリートで固められたその空間は、外部の爆撃音をある程度遮蔽していたが、完全に消し去ることはできなかった。
そのわずかな振動が、常に“終わりの気配”を告げていた。
エルヴィンが重い鉄扉を開けると、中から食欲を削ぐような熱気と油の匂いが立ち込めてきた。
「ハルトマン中尉」
技術主任のベッカー軍曹が振り返った。痩せぎすで眼鏡をかけたその男は、常に二つの無線機を同時に操作できるという特異な才能の持ち主だった。
「最終調整ですか」
「いや、少し早いが引き継ぎの準備だ。ベルリンからの命令でな」
エルヴィンは簡潔に状況を説明した。ベッカーは眉をひそめたが、驚いた様子はなかった。この戦局でいつ撤退命令が出てもおかしくないことは、誰もが理解していたからだ。
「機材の処分方法は?」
「可能なものは破壊、持ち出せるものはトラックに積め。時間はあまりない」
ベッカーはうなずき、手元の古びた蓄音機を示した。
「これはどうします? 毎晩かけてる例の曲のレコードです」
エルヴィンは一瞬ためらった。
「……持ち出しだ。軍需物資ではない」
「了解しました」
その時だった。天井からかすかに音楽が聞こえてきた。上の階、放送スタジオからのものだ。時刻はすでに午後十時を回っている。本来であれば、この時間に放送はないはずだった。
「何だ?」
「試験放送です。週二回のアラビア語放送の準備でして」
エルヴィンは無言で階段を上がり始めた。
胸の奥に、説明のつかないざわつきが生まれていた。
音楽のせいなのか、命令のせいなのか、自分でもわからなかった。
スタジオは一階の奥にあった。防音ガラス越しに見える中で、一人の女性がマイクの前に座っている。黒いヘッドフォンを着けたその女性は、若かった。二十歳前後だろうか。深い栗色の髪は三つ編みにして背中に垂らし、簡素なワンピースを着ていた。
「彼女は?」
「ハンナ・ローゼンタールです。通訳兼アナウンサーですよ。たしかハイファ出身のユダヤ人だったはずです」
ベッカーの言葉に、エルヴィンの眉がわずかに動いた。
ユダヤ人――その言葉は、戦争の闇を象徴する重さを持っていた。
しかし、ガラス越しの彼女は、その重さとは無縁のように見えた。
エルヴィンは防音ガラスに手を当て、じっと女性を見つめた。
彼女は唇を微かに動かしている。何かをつぶやいているのだ。声は聞こえない。しかし、その口の動きだけで、彼女が何の歌を歌っているのかがわかった。
軽いマズルカのリズム。抑制されながらも確かなメランコリー。
リリ・マルレーン。
エルヴィンの胸の奥で、何かが静かに震えた。
それは、戦場で長く忘れていた“人間の感覚”のようだった。
彼はポケットからたばこを取り出し、一本くわえた。火をつけようとして、しかしスタジオの中では禁煙であることを思い出し、そのままくわえ続けた。
彼女は気づいていない。防音ガラス越しに自分が密かに見つめられていることなど、微塵も感じていないようだった。ただ、目を閉じ、自らの内側から湧き出る旋律に身を委ねている。その横顔は、ルネサンスの絵画に描かれる聖母のように、どこか現実離れして美しかった。
エルヴィンはたばこを口から離し、そっと胸の内ポケットにしまった。
胸の奥に、説明のつかない熱が残った。




