第三話 「帰り道」
放課後になると、教室の空気は少しだけ柔らかくなる。
部活へ向かう声。
机を引く音。
笑い声。
その中で、黒崎かなでの周囲には、今日も自然と人が集まっていた。
葵も、いつものように少し離れた席で話を聞いている。
「だから、“考えないで選んで”って言われると、人は逆に考えちゃうの」
「えー?」
「“白い動物を思い浮かべないで”って言われたら?」
「シロクマ」
「でしょ」
クラスメイト達が笑う。
かなでは、その反応を予想していたみたいに小さく笑った。
「人って、“禁止”されると逆に意識しちゃうから」
「じゃあ“緊張しないで”って言われると緊張するのも?」
「そう。意識を向けた時点で、頭の中にその状態が浮かぶの」
へえ、と周囲が感心した声を漏らす。
葵も頷いた。
話の半分くらいは、やっぱり難しい。
心理学だとか、
暗示だとか、
認知だとか。
聞き慣れない言葉ばかりだ。
それでも、葵は毎回最後まで聞いていた。
途中で分からなくなる。
それでも聞いていたいと思う。
かなでの話は、不思議と耳に心地よかった。
少しだけ頭が良くなった気がするし、
何より、安心する。
かなでの声を聞いていると、
教室のざわざわが遠くなる気がした。
「山本さん」
不意に名前を呼ばれ、葵は顔を上げた。
かなでがこちらを見ている。
「今、“分かった気がする”って思ったでしょ」
「えっ」
まただ。
どうしてこの人は、
こうも簡単に人の考えていることを当てるんだろう。
「顔に出てた」
かなでは静かに言う。
周囲から笑い声が漏れた。
葵は少しだけ頬を膨らませる。
「黒崎さんって、人の顔見すぎじゃない?」
「見てるよ」
あっさり肯定された。
「人って、言葉より先に表情が動くこと多いから」
「そんな分かるものなの?」
「慣れると分かる」
その言い方は、
まるで“今日は晴れるよ”くらい自然だった。
結局その日も、
チャイムが鳴るまでかなでの話を聞いていた。
周囲の生徒達は、
途中で「難しいー」と笑いながら帰っていく。
最後には、
教室に葵とかなでだけが残っていた。
窓の外は夕焼け色だった。
かなでは机の上の本を閉じる。
そして珍しく、
自分から葵の席へ歩いてきた。
葵は少し驚く。
かなでは普段、
誰かに囲まれる側だ。
自分から近付いてくることは少ない。
「山本さん」
静かな声。
「今日、一緒に帰らない?」
葵は目を瞬かせた。
「……え?」
思わず変な声が出る。
かなでは相変わらず落ち着いた顔をしていた。
まるで、
特別なことを言っている自覚がないみたいに。
「山本さん、いつも最後まで話聞いてくれるから」
「いや、でも……なんで私?」
かなでは少しだけ考えるように目を伏せる。
それから、小さく笑った。
「なんとなく」
その言い方が妙に自然で、
葵はそれ以上聞き返せなくなってしまう。
気付けば、
「……うん」
と頷いていた。
かなでは満足そうに微笑む。
「やっぱり」
「え?」
「山本さん、断るの苦手そうだなって思ってた」
「なっ――」
葵が言い返す前に、
かなでは鞄を持って歩き出してしまう。
夕焼けに照らされた黒髪が、
さらりと揺れた。
葵は慌てて立ち上がる。
その背中を追いかけながら、
ふと思った。
――もしかして今のも、誘導されたんだろうか。




