第03話_俺がやった
痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
頭の中がその一語で埋めつくされて、ほかのことが何も考えられなかった。右脚が自分のものじゃないみたいだった。いや、自分のものだからこんなに痛いのだ。膝の下で、砕けた骨のかけらが、心臓が打つたびに肉をかき回している。
朔は石畳に爪を立てた。爪が割れた。それすら、ほとんど感じなかった。
「俺、が……」
喉の奥から、声を絞り出す。
「俺が、やったんだよ……!」
誰かに聞いてほしかった。
見ていなかったのか。俺が、あの子に触ったんだ。そうしたら、あの子の脚が治って、俺の脚がこうなった。わけがわからない。わからないけど、少なくとも、聖女様は馬車の上で手を振っていただけだろう。
すぐそばにいた、髭の濃い男が振り返った。
男は朔を見下ろして、満面の笑みを浮かべた。そして朔の肩を、ばん、と叩いた。
「ああ、そうだとも、兄ちゃん! 聖女様万歳だ!」
「……え」
「泣くほどありがたいよなあ! 俺も初めて見たよ、聖女様の御業を!」
「違う、俺が――」
「そうだ、聖女様だ!」
男は朔の言葉にかぶせるように叫んで、また馬車のほうへ向き直ってしまった。
朔はもう一度、口を開いた。
「俺が、やった。俺が、治した」
ゆっくり、はっきり、区切って言った。今度は、隣の老婆が涙ぐんだ目でこちらを見た。
「ええ、ええ。聖女様のおかげだねえ。ありがたいねえ」
背筋に、脚の痛みとは別の冷たいものが走った。
聞こえていないんじゃない。
聞こえている。聞こえた上で、別の言葉になっている。朔が「俺がやった」と言うと、相手の耳には「聖女様のおかげだ」と届いている。そうとしか思えなかった。
――なんだよ、それ。
朔は顔を上げた。人垣の隙間から、白い馬車が見えた。
聖女は、まだそこに立っていた。
群衆は彼女を見上げて叫び、祈り、泣いている。彼女は手を振るのをやめていた。代わりに、自分の両手をじっと見下ろしていた。
ひっくり返して、手のひらを見る。甲を見る。また手のひらを見る。
何も起きていない手を、確かめるみたいに。
それから、彼女はゆっくり顔を上げた。灰色がかった青い目が、群衆の上を滑っていく。何かを探すように。
その視線が、一瞬だけ、朔の上で止まった気がした。
気のせいかもしれない。次の瞬間には、警護の兵士の背中がその間を塞いでいた。
「おい、そこの」
兵士が、朔を見下ろしていた。鉄の胸当てに、麦の穂の紋章。
「酔っ払いか。聖女様の御前だぞ。道を空けろ」
「脚、が……折れて……」
「知るか。どけ」
脇腹を蹴られた。息が詰まる。腕をつかまれ、引きずられ、人垣の外へ放り出された。砕けた脚が石畳にぶつかって、朔は今度こそ声にならない悲鳴を上げた。
兵士は振り返りもしなかった。
馬車が、また動き出す。歓声が遠ざかっていく。
朔は這った。両腕だけで、建物と建物の隙間へ。人のいない、湿った路地の奥へ。誰かに見られたくなかった。誰かに見つかったところで、どうせ聖女様万歳と言われるだけだ。
壁にもたれて、ようやく息を吐いた。右脚を見る。見なければよかった。
落ちていた板切れを、脚に添えた。破いたシャツで縛った。縛るとき、自分でも信じられないような声が出た。
それから、少しだけ泣いた。
気づいたら、暗くなっていた。
気を失っていたらしい。路地の上に切り取られた空が、深い藍色に変わっている。痛みは、さっきよりほんの少しだけましになっていた。ましになったぶん、寒さと空腹が戻ってきた。
朔は壁に頭を預けて、空を見上げた。
星が出ていた。
路地の幅だけの、細長い夜空。でも、空気が澄んでいるのか、家の近所の空とは比べものにならないくらい、星が多い。
見覚えのある形が、そこにあった。
ひしゃくの形をした七つの星。北斗七星。その柄のカーブを、そのままのばしていく。オレンジ色の明るい星。うしかい座のアークトゥルス。さらにのばす。青白い星。
おとめ座の、スピカ。
春の大曲線。
透に教わったとおりの、線だった。
「……なんで」
朔は口を開けたまま、空を見つめた。
異世界のはずだ。白い街。読めない文字。聖女様。触っただけで傷が移る、わけのわからない体。全部、地球じゃありえない。
なのに、空だけが、地球と同じだった。
スピカのすぐ東に、月があった。半分より少し太った月。昨日の夜、朔が望遠鏡で見ていた月だ。
スピカから、ちょうど一晩ぶんだけ、東にずれていた。
朔は、震える息を吐いた。痛みのせいなのか、寒さのせいなのか、もう分からなかった。
「なんで、異世界の空が、地球と同じなんだよ……」
答える声は、どこにもなかった。




