第04話_星名のない男
目が覚めると、脚が痛くなかった。
朔はしばらく、それが何を意味するのか分からなかった。路地の石畳に、朝の光が細長く落ちている。体中が冷えて固まっていて、首を回すとばきばきと鳴った。腹が減っていた。死ぬほど減っていた。
でも、右脚が、痛くない。
おそるおそる、板切れを縛ったシャツの結び目をほどいた。
ズボンは膝の下から破れて、乾いた血で茶色くごわごわになっている。その下の脚は――まっすぐだった。腫れてもいない。曲がってもいない。触っても、押しても、何ともない。
「……夢?」
夢なら、このズボンの血は何だ。
朔は壁に手をついて立ち上がった。右脚に体重をかける。普通に立てた。二歩、三歩と歩く。普通に歩けた。昨日、自分の喉から出たあの獣みたいな声だけが、耳の奥にこびりついていた。
路地の入り口から差しこむ朝日が、朔の足もとに影を落としていた。
やけに黒い影だな、と思った。でも、それ以上は考えなかった。それどころじゃなかったからだ。
腹が、鳴った。
表通りに出ると、昨日の白い大通りから一本外れた市場だった。焼いたパンの匂い。香草と肉の脂の匂い。果物の山。朔の胃袋が、匂いだけで泣きそうになる。
ポケットを探る。財布が入っていた。千円札が一枚と、小銭が少し。
パン屋の屋台で、丸いパンを指さした。
「これ、ひとつ」
店主の女は、朔が差し出した五円玉と十円玉を、指先でつまみ上げた。光にかざして、眉をひそめる。
「なんだい、これ。穴の空いた銅貨なんて見たことないよ。どこの国のさ」
「……日本」
「知らないね。悪いけど、うちは星貨しか受けないよ」
千円札を出したら、紙切れを見る目で見られた。
まあ、そうだよな、と朔は思った。漫画やアニメなら、ここで親切な誰かが現れて、パンをおごってくれる。でも、誰も現れなかった。
昼まで歩き回って、いくつか分かったことがある。
この街の人間は、みんな左手の甲に、小さな光の印を持っている。星の形をした、うっすら青白い痣のようなものだ。店で品物を受け取るとき、人々はその手の甲を、店先の小さな水晶の板にかざす。水晶がぽうっと光る。それで支払いや身元の確認が済むらしかった。
その印のことを、人々は「星痕」と呼んでいた。
「ほら、手を出して。あなたの星はね、ここなの」
路地の陰で、母親が小さな娘に話しているのが聞こえた。
「星名はね、生まれたときに司祭様からいただいた、あなただけのお星様の名前。どんなに遠くへ行っても、お星様があなたを見ていてくれるからね」
朔は自分の左手の甲を見た。
何もなかった。ただの、日焼けしていない手の甲だった。
夕方、朔は宿屋の扉を叩いた。
金はない。でも、皿洗いでも薪割りでもいいから、何かやらせてもらえれば、と思った。
出てきたのは、腹の突き出た赤ら顔の親父だった。朔の血まみれのズボンを上から下まで眺めて、顎をしゃくる。
「手の甲を見せな」
朔は、何もない左手を差し出した。
親父の顔色が変わった。
「……星なしか」
「星なし?」
「とぼけるな。逃げた奴隷か、星を剥がされた罪人か。どっちにしろ、うちに置けるわけがねえだろうが」
「違う、俺は――」
朔は息を吸った。ちゃんと名乗れば、まともな人間だと分かってもらえるかもしれない。
「宮瀬朔です。遠くから来て、帰り方が分からなくて」
親父は眉をひそめた。耳に手を当てて、顔を近づける。
「あ? 今、なんつった」
「宮瀬、朔です」
「……風の音しか聞こえねえぞ。ふざけてんのか」
「だから、宮瀬朔! みやせ、さく!」
朔は叫んだ。叫んだのに、親父はますます顔をしかめただけだった。
まるで、朔の名前の部分だけ、空気が抜けてしまったみたいに。
「気味の悪い野郎だ。二度と来るな」
突き飛ばされた。朔は宿の前の水たまりに尻もちをついた。扉が閉まる。かんぬきの落ちる音。
通りがかった人たちが、ちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。
日が暮れた。
朔は市場の外れの、涸れた噴水の縁に座っていた。看板は読めない。金は使えない。星痕がないから、水晶の板は朔の手に何の反応もしない。試しに街角の灯り――星灯というらしい――に手をかざしてみたけれど、灯りは知らん顔で光り続けていた。
この街のすべてが、朔を「ないもの」として扱っていた。
朔は、小さな声で言ってみた。
「宮瀬、朔」
自分の耳には、ちゃんと聞こえた。いつもの、自分の名前だった。
「……聞こえるじゃねえかよ」
膝を抱えた。腹が鳴った。噴水の底の乾いた石に、星灯の光が朔の影を黒々と落としていた。




