第02話_聖女様の奇跡
音が、戻ってきた。
最初は耳鳴りかと思った。それが鐘の音で、何百人もの歓声で、蹄が石を打つ音だと分かるまで、少しかかった。
まぶしい。
朔は石畳に手をついて、体を起こした。白い。どこまでも白い石が、まっすぐに敷きつめられている。昼だった。真上から容赦なく日が照りつけて、さっきまでの春の夜の冷たさが、嘘みたいに消えていた。
「……は?」
声が出た。出たけれど、それきり続かなかった。
道の両側に、人がびっしり並んでいる。生成りの麻の服。腰に巻いた色とりどりの帯。頭に麦の穂を挿した女の人。肩車された子ども。誰もが道の向こうを見て、手を振り、花びらを投げている。建物は白い石と黒っぽい木でできていて、窓という窓から布が垂れていた。布には、麦の穂を抱えた女性の姿が刺繍されている。
――落ち着け。落ち着け、俺。
朔は自分の頬を両手で叩いた。痛い。夢じゃない。たぶん。
ポケットを探る。スマホがあった。画面をつける。圏外。電池六十四パーセント。時刻表示は二十一時四十八分。昼の光の中で、その数字だけが夜だった。
望遠鏡はない。ひよりも、いない。
「ひより」
呼んでも、返事はない。歓声にかき消されただけかもしれない。
朔は立ち上がって、人垣の隙間から周りを見回した。見知らぬ顔。見知らぬ服。見知らぬ街。耳に入ってくる言葉は、なぜか全部わかる。わかるのに、建物にかかった看板の文字は、一文字も読めなかった。
異世界、という言葉が頭に浮かんで、朔は乾いた笑いを漏らした。
異世界召喚。異世界転移。そういう小説なら、何十冊も読んだ。暗い部室で、来ない部員を待ちながら。主人公はたいてい、目を覚ますと女神様に会って、とんでもない力をもらって――。
「女神、いねえし」
誰も説明してくれない。白い光の中で、ただ歓声だけがうるさい。
「聖女様だ!」
「聖女様がいらしたぞ!」
人垣がどっと揺れた。朔は押されてよろけ、道のすぐ脇に押し出された。
白い馬車が来る。
二頭の白い馬に引かれた、屋根のない馬車だった。銀の飾りが日を弾いて、目を開けていられないほど光っている。その上に、少女が一人、立っていた。
白い衣。麦の穂を編んだ冠。冠の下の髪は、刈り入れ前の麦畑みたいな、やわらかい金色だった。年は朔と同じくらいに見える。少女は群衆に向かって、ゆっくりと手を振っていた。
笑っている。完璧に笑っている。作り物みたいに、完璧に。
――あれが、聖女様。
朔がその顔をぼんやり眺めていたときだった。
群衆の足もとを、小さな影がすり抜けた。
男の子だ。五つか六つくらい。誰かが投げた花冠が道に落ちて、それを拾おうと、一直線に飛び出していった。
「あっ――」
誰かの声。御者が手綱を引く。馬がいななく。でも、遅い。
鉄を巻いた車輪が、男の子の右脚の上を通った。
音がした。
枯れ枝を束ねて踏み折ったような、湿った、嫌な音だった。
一拍おいて、悲鳴が上がった。男の子の悲鳴ではない。男の子は声も出せずに口を開けたまま、石畳に倒れていた。右脚が、膝の下から、ありえない方向に曲がっている。白い石に、赤いものが広がっていく。
母親らしい女の人が、人垣を割って飛び出してきた。警護の兵士が駆け寄る。馬車が止まる。群衆がざわめく。
朔は、気づいたら走っていた。
なぜかは分からない。考える前に、体が動いていた。兵士の腕の下をくぐって、男の子のそばに膝をつく。どうする。止血。脚を動かすな。救急車。そんなものはない。
とにかく、と朔は男の子の右脚に手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が白く焼けた。
「――――ッ!」
熱い。
違う。痛い。違う。そんな言葉じゃ足りない。
右脚の中で、何かが砕けた。骨が、内側から、ばきばきと音を立てて折れていく。膝の下の肉が石臼で挽かれるみたいに潰れて、その潰れた感触が、頭のてっぺんまで一気に駆け上がってくる。
息ができない。目の前が真っ白になる。自分の喉から、獣みたいな声が漏れているのが遠くに聞こえた。
朔は石畳に倒れた。
右脚を見る。ズボンの膝から下が、ぐにゃりと、ありえない方向に曲がっている。生地の内側から、じわじわと赤が染み出してくる。
――なんで。轢かれたのは、俺じゃないだろ。
視界の端で、男の子が目をぱちぱちさせていた。
ゆっくりと起き上がる。自分の右脚を見る。曲がっていない。血も、止まっている。ズボンは破れているのに、その下の肌には傷ひとつない。
男の子は、きょとんとした顔のまま、立ち上がった。
母親が、男の子を抱きしめて泣き崩れた。
一瞬、広場から音が消えた。
次の瞬間、それを上回る歓声が爆発した。
「奇跡だ!」
「聖女様の奇跡だ!」
「聖女様が、子どもを癒やされた!」
何百という目が、馬車の上の少女に向けられる。誰かがひざまずき、誰かが祈り、誰かが泣きながら麦の穂を掲げた。歓声が波のように広がって、街全体が揺れているようだった。
その足もとで、朔は石畳に頬をつけたまま、砕けた右脚を抱えていた。
誰も、こっちを見ていなかった。
「……は?」
かすれた声は、歓声のどこにも届かなかった。




