第01話_スピカ食
いきててえらい。一か月毎日がんばります。
月が、星を食べる夜だった。
「――あと四分」
接眼レンズから目を離さずに言うと、隣で妹が大げさにため息をついた。
「それ、さっきも聞いた」
「さっきは六分って言った。二分進んだんだよ。時間は前にしか進まない。素晴らしいことだろ」
「お兄ちゃんのそういうとこ、友達いないの分かる」
「いるわ。天文部に二人いる」
「その二人、一回も部室で見たことないって言ってたじゃん」
言ってない。言ったかもしれない。
宮瀬朔は反論をあきらめて、望遠鏡の微動ハンドルを指先でほんの少しだけ回した。
四月の河川敷は、思っていたより寒い。堤防の向こうの国道から、トラックの音がときどき流れてくる。草の匂いと、川の匂い。足もとには、お年玉三年分をつぎ込んだ口径八センチの屈折望遠鏡と、ひっくり返したコンビニのビニール袋。
視野の真ん中には、半分より少し太った月がいる。
その暗いほうの縁のすぐそばに、青白い点がひとつ。
「ねえ、それで、スピカ食ってなに。もう一回説明して」
「三回目だぞ」
「二回とも聞いてなかったから、一回目みたいなもん」
ひよりは十二歳で、この春中学に上がったばかりだ。母に「夜に一人で河原なんか行かせられない」と言われて、ほとんど見張りのようについてきた。ダウンのポケットに手を突っ込んで、スマホの明かりで顔だけ白く浮かんでいる。
「月が、星の前を横切るんだよ。で、星が月の裏に隠れる。それがスピカ食」
「日食の星バージョン?」
「まあ、そう。月には空気がないから、星はじわっと消えたりしない。瞬きもしないで、ぱちんって消える。一瞬だ。見逃したら終わり」
「ふうん。スピカってどれ」
「月の左下の、青っぽいやつ」
ひよりは顔を上げて、目を細めた。
「あ、あれか。……普通の星じゃん」
「普通の星じゃない。おとめ座で一番明るい星だ。それに」
言いかけて、朔は少しだけ迷った。
ひよりが興味を持つとは思えない。でも、言わずにいられなかった。
「あれ、一つに見えるだろ」
「一つじゃん」
「二つなんだよ」
「は?」
「二つの星が、ほとんどくっつくぐらいの距離で回ってる。四日で一周。近すぎて、お互いの重力で引っぱり合って、形が卵みたいに歪んでるらしい」
「へえ。じゃあ望遠鏡なら二つ見えるの?」
「見えない。どんな望遠鏡でも無理。明るいほうの光が強すぎて、暗いほうはその光に隠れてる。光の揺れ方を調べて、二つあるって分かっただけなんだ」
ひよりは少し黙ってから、ぽつりと言った。
「なにそれ。暗いほう、かわいそう」
「かわいそうじゃねえよ。暗いほうがいるから、明るいほうはああいう形で光れるんだ」
言ってから、朔は口をつぐんだ。
それが自分の言葉じゃないことに、気づいたからだ。
五年前。同じ河原で、同じことを言った人がいた。
真柴透。三軒隣の家の、五つ上の兄ちゃん。黒縁の眼鏡をかけていて、高校の天文部の部長で、星の話になると止まらなかった。小学生だった朔を自転車の荷台に乗せて、何度もこの河原に連れてきてくれた。北斗七星の柄をのばして、うしかい座のアークトゥルス、そこからおとめ座のスピカ。春の大曲線、という言葉も透に教わった。
――暗いほうがいるから、明るいほうはああいう形で光れるんだよ、朔。
あのときの透は、なぜか少し照れくさそうに笑っていた。
五年前の四月、スピカ食の夜。
透は一人でこの河原に来て、そのまま帰らなかった。
堤防の下に、自転車と三脚だけが残っていた。警察が川をさらって、ダイバーが潜って、ビラが電柱に貼られて、やがて剥がされた。
その夜、朔は熱を出して寝ていた。一緒に行く約束をしていたのに。
「……透くんのこと、まだ待ってるの」
ひよりが、珍しく小さな声で言った。
「待ってねえよ」
朔は接眼レンズに目を戻した。
「スピカ食は見逃せないだけだ」
月の暗い縁が、青白い点にじりじりと近づいていく。
あと二分。あと一分。
息を止める。指先が冷たい。心臓の音がうるさい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「静かに」
「ねえってば。わたしにも見せてよ。一瞬なんでしょ」
「今は無理。あとで」
「あとでじゃ終わっちゃうじゃん。ねえ」
袖を引っぱられる。朔は振り払うように肩を揺らした。
視野が少しぶれる。慌ててハンドルに触れる。月の縁。青い点。あと十秒。
「――朔!」
名前を呼ばれた。
ひよりが朔を名前で呼ぶのは、本気で怒ったときだけだ。それは分かっていた。
分かっていて、顔を上げなかった。
「あとで」
ぱちん、と。
スピカが消えた。
――消えた、と思った次の瞬間、視野のすべてが消えた。
月も、空も、レンズの縁のかすかな反射も。真っ黒だった。目を開けているのか閉じているのかも分からない、底のない黒。
朔は反射的に顔を上げた。
河原がなかった。
草の匂いも、川の音も、国道のトラックも、ひよりのスマホの光も。何もなかった。足の裏から地面の感触が抜け落ちて、体が、ふわりと浮いた。
落ちている。
そう理解したときには、もう声も出なかった。
遠くで、誰かが呼んでいた。
「さ――」
最後に聞こえたのは、自分の名前の、最初の一音だけだった。




