FILE 06『水瀬光彩に関する秘匿記録』
再処理対象。
水瀬光彩。
資料に記されたその文字を、光彩はしばらく見つめていた。
名前というものは、本来なら自分に一番近い言葉のはずだった。何度も呼ばれ、書かれ、返事をして、少しずつ自分を形作っていく。けれど今、黒いファイルに綴じられた水瀬光彩という名前は、光彩の知らない場所で、光彩の知らない意味を与えられていた。住所、生年月日、所属学年、家族構成。間違いなく自分の情報なのに、どれも自分から切り離され、処理を待つ資料の一部になっている。
光彩は、ページの端を押さえる指に力を込めた。
遠子を見つけたから、巻き込まれたのではない。
ずっと前から、光彩の名前はここにあった。
「水瀬」
律の声が聞こえた。
その声でようやく、光彩は自分が息を止めていたことに気づいた。吸い込んだ空気は、古い紙の匂いがした。旧校舎の資料室には夕方の光がほとんど入らず、棚の影ばかりが床に重なっている。扉には内側から鍵がかけられているのに、閉じ込められているのは自分たちではなく、ここに残された名前の方だと思った。
「幼少期に、第一次実証実験の事故を目撃」
光彩は備考欄を読み上げた。
声に出すと、文字がますます現実になった。幼少期。事故。目撃。記憶封鎖。経過観察。そのどれにも覚えがない。自分の過去のことなのに、誰か別の少女の記録を読んでいるようだった。
「私、そんなこと知らない」
律は答えなかった。
答えられるはずもなかった。彼もまた、姉の記憶を毎日書き直している側の人間だ。失われたものの前では、知らない、という言葉がどれほど頼りないかを知っている。
光彩はページをもう一度見た。
記憶封鎖処理後、経過観察中。
その一文だけが、胸の奥に沈んでいく。
忘れたのではない。
忘れさせられた。
そう理解した瞬間、資料室の外で、床板がかすかに鳴った。
律がすぐに顔を上げた。光彩も反射的に息を潜める。旧校舎の廊下は、人の気配をよく響かせた。足音はゆっくりと近づいてくる。生徒の軽い足取りではなかった。廊下を知っている大人の歩き方。迷いながらも、行き先だけは決めているような音だった。
資料室の扉の前で、足音が止まった。
ノブが一度だけ回る。鍵が引っかかり、金属が短く鳴った。
光彩はファイルを閉じようとしたが、律がその手を止めた。彼は首を横に振る。隠しても、もう遅い。そんな目だった。
扉の向こうから、穏やかな声がした。
「水瀬さん。そこにいるのでしょう」
光彩の背中を、冷たいものが伝った。
その声を知っている。
保健室の白いカーテンの向こうで聞いたことがある。貧血で横になっていたとき、無理に話しかけず、窓の外の桜が見えるようにカーテンを少しだけ開けてくれた人。低く、落ち着いていて、具合の悪い生徒を安心させる声。
霧島先生だった。
律の表情が硬くなる。
「開けるな」
彼は声を殺して言った。
しかし、扉の向こうの霧島先生は、こちらの気配を聞き取っているようだった。
「神谷くんも一緒ね」
律は何も答えなかった。
光彩は黒いファイルと扉を交互に見た。逃げ道はない。窓は開けられそうにないし、資料室の奥には棚と段ボールしかない。仮に逃げられたとしても、何から逃げるのか分からなかった。霧島先生からか。資料からか。自分の名前がそこにある事実からか。
「そのファイルを読んだのね」
扉越しの声は、叱責ではなかった。諦めと悔いが、薄い布のようにかかっている。
「読んではいけないものだった」
律が低く返した。
「だったら、どうして旧校舎に残しておいたんですか」
少しの沈黙があった。
「消せなかったからよ」
霧島先生は言った。
「捨てれば、全部なかったことにされる。燃やせば、最初から存在しなかった紙になる。けれど残しておけば、いつか誰かが見つけてしまうかもしれない。私はずっと、そのどちらも選べなかった」
光彩は扉へ近づいた。
律が止めようとしたが、光彩は首を横に振った。扉越しに聞くだけでは、もう足りなかった。霧島先生が何を隠してきたのか、何を守ろうとしていたのか、その顔を見て確かめなければならないと思った。
味方なのか、敵なのかはまだ分からない。
それでも、あの人がこの計画を知っていることだけは確かだった。遠子のことも、光彩の過去も。誰よりも近い場所にいながら、ずっと口にしなかった何かを、霧島先生は抱えている。
鍵を外す音が、資料室に小さく響いた。
扉を開けると、廊下に霧島先生が立っていた。
白衣を着ていた。保健室で見るのと同じ白衣のはずなのに、旧校舎の薄暗い廊下では、ひどく古いものに見えた。先生はいつものように髪を低くまとめ、顔色は悪かった。光彩を見て、律を見て、それから机の上に広げられた黒いファイルへ視線を落とす。
その目が、わずかに揺れた。
「どこまで読んだの」
光彩は答えた。
「遠子のこと。神谷くんのお姉さんのこと。あと、私の名前があるところまで」
霧島先生は目を閉じた。
その仕草だけで、光彩は、先生が何も知らない人間ではないと分かった。驚きがない。否定もしない。水瀬光彩という名前が資料にあることを、最初から知っていた人の沈黙だった。
「先生は、何を知っているんですか」
光彩の声は震えなかった。
そのことに、自分でも少し驚いた。怖くないはずはない。資料室の薄闇も、黒いファイルに記された自分の名前も、扉の向こうでこちらを待っていた霧島先生の沈黙も、すべてが光彩の足元を不安定にしている。
それでも、声は震えなかった。
自分の過去も、名前も、知らない場所で管理されていた。忘れたわけではなく、忘れさせられていた。知らなかったのではなく、知らされないままここまで来た。その事実が、恐怖よりも先に胸の奥で熱を持っていた。
霧島先生は、廊下から資料室へ入った。
扉を閉める。鍵はかけなかった。
「何から話せばいいのか、ずっと考えていたの」
「ずっと?」
「あなたがこの学校に入学した日から」
光彩は息をのんだ。
霧島先生は、黒いファイルに触れた。指先が表紙のラベルをなぞる。透明少女計画。その文字に触れる先生の手は、少し震えていた。
「この計画は、最初から学校だけで始まったものではないわ。学校法人が持っている研究施設で、存在情報の切離しに関する実験が行われていた。記録、記憶、社会的な関係性。人間がこの世界にいると証明するものを、どこまで削れるか。そういう研究だった」
「先生は、そこにいたんですか」
律が聞いた。
霧島先生は逃げなかった。
「いたわ」
光彩は喉の奥が乾くのを感じた。
「研究員だったんですか」
「ええ」
短い肯定だった。言い訳も、説明も先に置かなかった。その潔さが、かえって重かった。
「私は、自分が何をしているのか分かっているつもりで、何も分かっていなかった。最初は、記憶障害の治療や、犯罪被害者の保護に使える技術だと聞かされていた。耐えがたい記憶から人を守る。社会から追われる人間を、一時的に隠す。そういう言葉を信じたかったのだと思う」
「信じたかった?」
律の声が硬くなる。
「じゃあ、本当は気づいていたんですね」
霧島先生は律を見た。
「途中からは」
律は唇を噛んだ。
「途中から気づいて、それでも神谷澪は消された」
「……そうね」
「姉を知っていたんですか」
霧島先生の顔に、痛みが走った。
「知っていたわ。神谷澪さんは、初期実験の対象だった。処理は不完全で、家族記憶に強い残留が出た。あなたが名前を書き続けていることも、記録に残っていた」
律の左手が握られる。
その手のひらには、今日も神谷澪の名前が書かれているはずだった。
「知っていて、何もしなかったんですか」
律の声は荒くなかった。荒くないからこそ、責める響きが深かった。
霧島先生は、しばらく黙っていた。
「何もしなかったとは言えない。でも、救えなかったことは同じよ」
律は視線を逸らした。
光彩は、二人の間にあるものの重さを感じた。律にとって霧島先生は、ただ事情を知っている大人ではない。姉を消した計画の内側にいた人間だ。どれほど後悔していても、その事実は消えない。
「遠子は」
光彩は、ようやくその名前を口にした。
「霧島遠子は、先生にとって何なんですか」
その瞬間、霧島先生の表情が変わった。
それまで保っていた教師の顔が、音もなく崩れたように見えた。眉がわずかに下がり、唇が震え、目の奥に長いあいだ押し込められていたものが浮かぶ。光彩は、その表情だけで答えを知った気がした。
だけど、先生は自分の口で言った。
「霧島遠子は、私の娘よ」
資料室の空気が、静かに沈んだ。
遠子の母親。
研究資料にあった「母親に該当する関係者」という一文が、突然、生身の人間の顔を持った。保健室で生徒に薬を渡し、熱を測り、カーテンを開けてくれた先生。その人が、遠子を産み、育て、そして失った母親だった。
霧島先生は、白衣のポケットから小さなメモ帳を取り出した。
表紙は擦り切れ、角は柔らかく丸くなっている。何度も開かれた紙の束だった。先生はそれを開き、机の上に置いた。
光彩は、息を止めた。
そこには、同じ名前がびっしりと書かれていた。
霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子。
ページの端まで、何十回も、何百回も。鉛筆、ボールペン、赤いペン、青いペン。消えかけた文字の上から何度もなぞった跡がある。紙はところどころ薄く破れ、筆圧だけが溝のように残っていた。
「私も、何度も忘れかけた」
霧島先生の声は、低く掠れていた。
「朝起きたとき、娘の顔が思い出せない日があった。机の上に置いていた写真が白くなって、母子手帳が白紙になって、家の中から子どものものが一つずつ消えた。遠子の部屋だった場所を見ても、なぜ空き部屋があるのか分からなくなりそうになった」
先生は、メモ帳に触れた。
「だから書いたの。霧島遠子。私の娘。忘れてはいけない。忘れたくない。忘れてしまった日も、次の日にまた思い出せるように」
光彩は、言葉を失っていた。
遠子は教室で、一人きりで誰かを待っていた。けれど本当は、誰からも忘れられていたわけではない。母親は忘れまいとして、消えかける名前を何度も書き直していた。
それでも、遠子は戻らなかった。
忘れなかった人がいた。忘れまいとした人がいた。
それでも救えなかったという事実が、光彩にはあまりにも残酷だった。
「どうして」
律が言った。
「自分の娘なら、どうして止められなかったんですか」
霧島先生は目を伏せた。
「遠子は、本来なら選ばれるはずのない子だった」
「でも選ばれた」
「理事長が、完成版の実証にふさわしい対象を求めていた。誰からも覚えられている子を消せるなら、技術は完成したと証明できる。遠子は、学校の中で目立つ子だった。成績も良くて、友達も多くて、先生たちからも信頼されていた」
光彩は、個別記録の文章を思い出した。
社会的視認性の高い対象。
その冷たい表現の裏に、笑う遠子の姿がある。
「私が研究から離れようとしたときには、もう遅かった。遠子の選定は決まっていた。止めようとした。でも、止められなかった。私は研究者としての権限を奪われ、母親としての記録も削られた。遠子を娘だと証明するものが、ひとつずつ消えていった」
「それで学校に残ったんですか」
光彩が聞くと、霧島先生は頷いた。
「遠子の痕跡が、この学校に残っていると信じたかった。保健室なら、計画の監視にも近づける。消された生徒たちの体調不良や、記憶の揺らぎを記録できる。そう思って残った。でも結局、私は遠子を見つけられなかった」
先生の視線が、光彩へ向けられた。
「あなたが、見つけるまでは」
光彩は胸の奥が強く鳴るのを感じた。
遠子が自分に声を届けた理由。自分だけが見えない少女を認識できた理由。それは偶然ではなかった。
「私は、どうして遠子の声が聞こえたんですか」
霧島先生は、黒いファイルの「再処理対象」と記されたページを開いた。
「あなたは幼いころ、第一次実証実験の事故を見た」
「覚えていません」
「覚えていないようにしたの。私が」
光彩は、動けなかった。
「事故って、何があったんですか」
「まだ技術が不安定だったころ、処理中の対象者が施設内で暴走した。暴走、という言い方は好きではないけれど、記録にはそう残っている。存在情報が周囲へ漏れ出し、その場にいた人間の記憶や認識が一時的に混線した。あなたは、たまたまその施設の近くにいた」
「どうして、私がそんな場所に」
「お父さんの仕事の関係で、施設見学に来ていたの。一般向けには、教育支援研究施設という名目だった。あなたはまだ小さくて、迷子になって、入ってはいけない区画に入り込んだ」
霧島先生の言葉を聞いた瞬間、光彩の頭の奥で、何かがかすかに揺れた。
白い廊下と、消毒液の匂い。どこか遠くで聞こえる、泣いている誰かの声。現実味のない断片ばかりが、暗い水の底から浮かび上がるように胸の内側へ触れてくる。
それが本当に記憶なのか、今聞かされた話から作られた想像なのか、光彩には判断できなかった。ただ、知らないはずの景色に、体の方が先に反応していた。
「私はそこで、あなたを見つけた」
霧島先生は言った。
「本来なら、あなたはその場で処分される予定だった。事故を目撃した外部の子ども。計画の存在を漏らす危険がある。理事長は、あなたの存在情報ごと切除する判断を下した」
「じゃあ、私は」
「一度、消されかけた」
光彩は、自分の手を見た。
ちゃんとある。指も、爪も、制服の袖も。けれど、その当たり前が急に遠くなった。今ここにいる自分は、誰かが止めなければ存在しなかったのかもしれない。
「先生が、止めたんですか」
「完全には止められなかった。できたのは、あなたの事故記憶だけを封じて、存在情報の切除を途中で止めることだけ。だからあなたは普通に生活できた。でも、処理の跡は残った」
「処理の跡……」
「あなたは、こちら側と向こう側の境界にいる。だから遠子の声が聞こえた。だから遠子を認識できた。そして、だから今、再処理対象として検出されている」
資料室の中に、重い沈黙が落ちた。
光彩は、自分の過去がまるごと別の色に塗り替えられていくのを感じた。普通の子として過ごしてきた。目立たず、波風を立てず、誰かの輪に入って、誰かの言葉に合わせて笑ってきた。その普通さの下に、ずっと処理の跡が残っていた。
自分は、誰かに見つけてほしかった少女だったのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
「遠子を戻す方法は、あるんですか」
光彩は聞いた。
霧島先生の顔に、深い迷いが浮かんだ。
「あるわ」
その答えに、律が顔を上げる。
「本当に?」
「完全ではない。でも、理論上は可能」
「どうやって」
「遠子から切り離された存在情報を、世界に再接続する。記録、記憶、声、名前、関係性。それらを一斉に呼び戻す必要がある。少人数では無理よ。できるだけ多くの人間に、同時に遠子を認識させなければならない」
光彩は、廊下で見た掲示板を思い出した。
文化祭まで、あと十日。
体育館ステージの使用時間、展示教室の割り振り、放送部への原稿提出期限。いつもなら素通りしていた文字が、今になって一つの線につながっていく。
「文化祭なら」
光彩は言った。
「全校生徒も、先生たちも、保護者も学校に来る」
霧島先生は、すぐには否定しなかった。
「ええ。条件は揃うかもしれない」
「なら、それをやれば」
「代償がある」
その一言で、光彩は言葉を止めた。
霧島先生は、光彩を見た。教師としてではなく、研究者としてでもなく、何かを失った人間としての目だった。
「遠子を戻すには、足りない存在情報をどこかから補わなければならない。完全に消されたものは、そのままでは戻らない。世界にもう一度遠子の存在を作るには、誰かが持っている存在する情報を、遠子へ渡す必要がある」
光彩は、ゆっくりと意味を理解した。
「それが、私?」
「あなたはすでに遠子と接触している。境界に近い存在で、遠子を認識できる。再接続の媒介になれるのは、おそらくあなたしかいない」
律が机を叩いた。
「ふざけるな」
古い資料室に、乾いた音が響いた。
「それを救う方法みたいに言うな。結局、別の誰かを差し出せと言ってるだけだ。そんなもの、救いじゃない」
霧島先生は反論しなかった。
「その通りよ」
「だったら言うな」
「言わなければ、水瀬さんは何も知らないまま遠子に近づき続ける。すでに消え始めているのに」
律は歯を食いしばった。
光彩は、二人の声を遠くに聞いていた。
遠子を戻せば、自分が消える。その可能性は、どこかで予感していたのかもしれない。写真の中で顔が白く抜け、未央が学校に来ていたかどうかを尋ねてきたときから、光彩は薄々気づいていた。遠子の方へ手を伸ばすたび、自分の立っている場所が少しずつ頼りなくなっていく。
明確な言葉にされた途端、体の奥から静かに冷えていった。
「私が消えたら」
光彩は聞いた。
「遠子は戻るんですか」
霧島先生は、すぐには答えなかった。
「理論上は戻る可能性がある、というだけよ。保証はできない」
「じゃあ、私は消えて、遠子も戻らないかもしれない」
「そう」
「最悪ですね」
「ええ」
霧島先生は、目を逸らさなかった。
「最悪よ。だから私は、あなたにやれとは言えない」
光彩は、黒いファイルを見た。
神谷澪。霧島遠子。名前の読めなくなった少女たち。そして、水瀬光彩。資料の中では、それらが同じ紙束に綴じられている。本当は一人ずつ違う声があり、違う顔があり、違う部屋があり、誰かと過ごした時間があったはずだった。
消されるというのは、死ぬこととは違う。
死んだ人は悲しまれる。墓があり、写真があり、誰かが泣く。けれど消された人間には、その悲しみさえ与えられない。最初からいなかったことにされ、誰かが泣く理由すら、世界から取り上げられる。
遠子は、その中でまだ声を残している。
見つけて、と書いた。
光彩に届いた。
「決めるのは、遠子の声を聞いてからにします」
光彩は言った。
霧島先生が目を見開く。
「……あの子は、きっと止めるわ」
それは、母親の声だった。
研究者としての冷静さも、保健室の先生としての落ち着きも、そこにはほとんど残っていなかった。娘がどんな答えを選ぶかを知っていて、その答えを聞くことを恐れている人の声だった。
光彩は、黒いファイルのそばに置かれたメモ帳を見た。
何度も書かれた霧島遠子の名前。消えかけた文字の上から、また別の線でなぞった跡。紙の端は擦り切れ、同じ名前だけがページの奥まで重なっている。忘れたくないと願いながら、それでも届かなかった時間が、そこに残っていた。
「止められても、聞きたいです。遠子のいないところで、遠子を救うかどうか決めたくありません」
光彩は、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
消えるのが怖くないわけではない。忘れられるのが平気なわけでもない。未央に忘れられ、母に忘れられ、自分の部屋から自分のものが消えていくところを想像すれば、足元から崩れそうになる。それでも、遠子の声を聞かないまま、遠子のためという言葉で何かを選ぶことだけはしたくなかった。
「遠子は、どうしたいんですか」
霧島先生は、しばらく光彩を見ていた。
やがて唇を引き結び、ゆっくりと頷いた。
「放課後の二年三組へ行きましょう」
律が光彩を見た。
「本気で行くのか」
「うん」
「聞いたら、引き返せなくなるかもしれない」
「聞かないままの方が、引き返せない気がする」
律は何か言いかけて、やめた。
三人は資料室を出た。
旧校舎の廊下は、さっきより暗くなっていた。窓の外では夕方が深まり、グラウンドの声も少なくなっている。新校舎へ向かう渡り廊下を歩きながら、光彩は自分の足音を聞いていた。一歩ごとに、自分がまだここにいることを確かめるように。
二年三組の教室には、もう誰も残っていなかった。
机と椅子が整列し、黒板には明日の連絡事項が残っている。窓際の一番後ろ、遠子の席だった場所には、今は何も置かれていなかった。光彩はその席の前に立つ。
霧島先生は、教室の入り口で足を止めた。
顔色が悪い。白衣のポケットの中で、メモ帳を握っているのが分かった。
「遠子」
光彩は、静かに呼んだ。
すぐには返事がなかった。窓際の予備席だけが、夕方の教室の中でかすかに沈んで見える。やがて椅子が小さく軋み、空気がほんの少し揺れた。
「……光彩?」
昨日よりも遠い声だった。途切れそうな細さに、光彩は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「うん。来たよ」
「今日は、遅かったね」
「ごめん」
「来てくれたから、いい」
霧島先生は、教室の入り口で足を止めた。
光彩は先生の方を見た。霧島先生は泣いていなかった。ただ、泣くことを自分に許していない顔をしていた。娘がそこにいると信じたいのに、自分の耳には何も届かない。その事実を認めてしまえば、見つけられなかった時間の重さまで、いっせいに押し寄せてくるのだろう。
光彩は、窓際の予備席へ向き直った。
「遠子。今日は、会わせたい人がいる」
椅子のあたりで、空気がわずかに張りつめた。
「誰?」
遠子の声は、光彩にだけ聞こえた。
光彩は霧島先生を見た。
先生は一歩、教室へ入った。その足取りは、普段の保健室で見るものとはまるで違っていた。具合の悪い生徒を迎える先生ではなく、長いあいだ帰れなかった場所へようやく戻ってきた人の歩き方だった。
「遠子」
霧島先生が呼んだ。
声は震えていた。
窓際の一番後ろ。遠子の席だった場所には、誰も座っていない。机と椅子は夕方の光を受けて、ただ静かにそこにある。何も知らない人間が見れば、使われていない古い席にしか見えないだろう。
それでも光彩には、遠子がそこにいると分かった。
椅子のそばの空気が、ほんのわずかに揺れている。声になる前の気配が、教室の隅でかすかに震えていた。
「……光彩」
遠子の声がした。
霧島先生は反応しない。律も教室の後ろで息を詰めたまま立っている。二人には届いていない。遠子の声は確かにここにあるのに、世界はそれを受け取ろうとしなかった。
光彩は、霧島先生に向かって小さく頷いた。
「います」
それだけを伝えた。
霧島先生の顔が、ゆっくりと歪んだ。
彼女は予備席へ近づこうとして、途中で足を止めた。そこに娘がいると信じたいのに、触れようとした瞬間に何も掴めないことを、もう何度も思い知らされてきた人の動きだった。
「遠子……」
もう一度、霧島先生が呼んだ。
遠子が息をのむ音が、光彩には聞こえた。
「……お母さん?」
光彩は、その言葉を口にしなかった。
伝えなくても、霧島先生には分かっている気がした。声は届いていない。それでも彼女は、何もない席を見つめながら、すでに母親の顔をしていた。
「ごめんね」
霧島先生は、見えない娘に向かって言った。
「お母さん、あなたを見つけられなかった」
遠子の泣き声が、教室の隅でかすかに震えた。
霧島先生には聞こえていないはずなのに、彼女は口元を押さえた。光彩が何も伝えなくても、そこに娘がいることだけは疑っていないようだった。
霧島先生は、白衣のポケットからメモ帳を取り出した。
何度も開かれ、何度も握られた紙の束だった。擦り切れた表紙を開くと、そこには資料室で見たのと同じ名前が、ページを埋めるように書き込まれていた。鉛筆の線が消えかけた上から、ボールペンでなぞった跡がある。さらにその上に、別のインクが重ねられている。紙はところどころ薄く毛羽立ち、筆圧だけが溝のように残っていた。
「忘れそうになるたびに書いたの」
霧島先生は、予備席に向かって話し続けた。
「顔が思い出せない日もあった。声が分からなくなる日もあった。あなたの部屋を見ても、どうして空き部屋があるのか分からなくなりそうになった。それでも、名前だけは書いた。遠子。私の娘。忘れてはいけない。忘れたくない。何度消えても、次の日にまた拾えるように」
遠子は泣いていた。
小さく途切れるその声は、光彩にだけ聞こえていた。霧島先生の言葉は、たしかに遠子へ届いている。届いているからこそ、遠子は泣いているのだと分かった。母親が名前を忘れまいとしていたことも、消えかける記憶の中で何度も自分を拾い直そうとしていたことも、今の遠子には届いている。
それなのに、遠子の声だけが霧島先生へ返っていかなかった。
「お母さん」
遠子が呼んだ。
霧島先生には聞こえない。
それでも彼女は、まるで呼ばれたことを感じ取ったように、予備席の前に膝をついた。伸ばした手は、椅子の少し手前で止まる。触れられないことを知っていて、それでもそこにいるはずの娘の目線に合わせるように、静かに顔を上げた。
「ここにいるよ、遠子」
霧島先生は言った。
「聞こえなくても、見えなくても、ここにいる。あなたを忘れたくなくて、ずっとここにいた」
誰にも見えない少女と、その声を聞くことのできない母親。
二人は同じ教室にいて、同じ空気の中で泣いていた。霧島先生の言葉は遠子に届いているのに、遠子の声は母親へ返っていかない。手を握ることも、抱きしめることもできない。その距離だけが、光彩にははっきり見えていた。
これが、透明少女計画の成功なのだとしたら。
そんな成功は、あってはいけない。
そのとき、光彩のスマホが震えた。
母からのメッセージだった。
『今日の夕飯、光彩の好きな食べ物何だっけ?』
光彩は、しばらく画面を見つめていた。
朝、母は覚えていた。オムライスでしょ、と笑っていた。一昨日も作ったじゃない、と呆れたように言っていた。その記憶が、もう母の中で薄れ始めている。写真から顔が抜け落ちるよりも、名簿の文字が揺らぐよりも、その一文は静かに深いところへ届いた。
光彩はスマホを握りしめた。
教室の窓には、夕方の薄闇が映っている。そこに立つ自分の輪郭はまだ残っていた。制服も、髪も、スマホを握る手も、確かに映っている。顔だけが、前より少し曖昧に見えた。暗さのせいだと思うことは、もうできなかった。
遠子の泣き声が、かすかに聞こえる。
その声は霧島先生には届かない。それでも先生は、何もない席へ向かって、娘の名前を呼び続けていた。聞こえない声を待ちながら、見えない娘を見つめながら、何度も、何度も。
光彩は、心の中で自分の名前を呼んだ。
私は水瀬光彩。
まだ、ここにいる。
FILE 06 水瀬光彩に関する秘匿記録
水瀬光彩は、かつて透明少女計画の未完了処理対象であった。
幼少期、研究施設内で発生した事故を目撃したことにより、計画の存在を外部へ漏洩する危険が生じた。当時の判断では、完全処理を実行し、事故そのものと同時に同児童の存在情報を社会から切除する予定であった。
処理は途中で停止している。
停止操作を行ったのは、当時研究員であった霧島由佳里と推定される。彼女は水瀬光彩の事故記憶のみを封じ、周辺記録の補正を最小限に留めることで、対象を日常生活へ復帰させた。これにより水瀬光彩は通常生徒として現在まで生活しているが、存在情報の一部に未処理領域が残存している。
霧島遠子を認識できた理由は、この未処理領域によるものと考えられる。
水瀬光彩は完全にこちら側の人間ではない。
かといって、向こう側へ落ちきったわけでもない。
境界上に残された少女が、処理済み対象を呼び戻す鍵となる可能性がある。




