FILE 05『透明少女計画、実用化に向けた提言』
透明少女計画。
その六文字を見た瞬間、光彩は、言葉というものがこんなにも冷たく見えるのだと知った。
旧校舎の資料室は、夕方の気配をほとんど受けつけていなかった。窓ガラスは埃で曇り、外の光は細く濁って床に落ちている。古い紙と湿った木材の匂いが棚の隙間に溜まり、少し動くだけで、積み重なった段ボールの端から乾いた粉がこぼれた。
学校の中にいるはずなのに、ここだけが学校から切り離されている。
廊下の向こうでは、まだ部活動の声が聞こえていた。誰かが笑い、誰かが走り、いつもの放課後が終わらずに続いている。その明るさが遠いほど、光彩の手元にある黒いファイルは、現実の底から引き上げられたもののように見えた。
律は扉に鍵をかけた。
金属音が小さく響いたあと、二人はしばらく黙っていた。光彩のスマホには、未央から届いたメッセージが残っている。
『今日、光彩って学校来てた?』
既読はつけた。返事はしていない。
あの一文をどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。未央は朝、光彩と話した。写真も見せた。顔色が悪いと心配さえした。それなのに放課後には、光彩が学校にいたかどうかを確かめてきた。冗談なら、もっと軽い文面になる。打ち間違いなら、すぐに訂正が来る。画面は沈黙したままで、次の通知は届かなかった。
「開けるよ」
律の声で、光彩はファイルへ視線を戻した。
黒い表紙は、長いあいだ誰にも触れられていなかったようにざらついていた。白いラベルには、かすれた印字で「透明少女計画」とある。少女、という言葉だけが不釣り合いに柔らかく、そのせいで全体の不気味さが増していた。
律が表紙をめくる。
一枚目には、簡素な文字で計画概要と記されていた。
光彩は、息を詰めて読み始めた。
――本計画は、対象者の肉体的不可視化を目的とするものではない。
最初の一文から、光彩の予想は外された。
透明になる、という言葉から彼女が思い浮かべていたのは、姿が見えなくなることだった。光に透け、存在が消え、そこにいるのに目に映らない。資料に書かれていたのは、そうした怪談めいた現象よりも、ずっと性質の悪いものだった。
対象者を社会的記録から切除する。
第三者の記憶に残る対象者情報を段階的に補正する。
写真、映像、音声、筆記記録に生じる対象者の痕跡を自動的に欠落させる。
対象者本人の存在認識を不安定化させ、自己証明能力を喪失させる。
文章はどこまでも平坦だった。誰かの人生を扱っているとは思えない調子で、そこには削除、補正、欠落、処理という言葉が並んでいる。光彩は読み進めるほど、胸の奥が重くなっていくのを感じた。
遠子が言っていた。
透明になったんじゃない。世界から消されているの。
あの言葉は、比喩ではなかった。
「人間を、記録から消すってこと……?」
光彩がつぶやくと、律は頷いた。
「記録だけじゃない。記憶も、人間関係も、本人がそこにいたという前提も、全部」
「そんなこと、できるの」
「少なくとも、ここにはできたことになってる」
律は、ページの端を押さえながら言った。
光彩は次のページへ目を移した。
対象者選定基準。
社会秩序への適応が困難と判断された者、または公共および組織の安定を損なうおそれのある者。
学校法人、関連機関、出資団体に対し、不利益となる証言を行う可能性のある者。
家庭環境、交友関係、経済状況、精神状態その他の要因により、消失後の社会的欠落が小さいと判断される者。
読んでいるうちに、吐き気に似たものが喉元まで上がってきた。
そこには、人間が人間を見る目がなかった。対象者が何を考え、誰と過ごし、どんな場所に帰っていたのかは、最初から問題にされていない。残しておけば不都合か、消したあとにどれだけ騒がれるか、欠けた場所を周囲がどの程度で受け入れるか。資料の中で誰かの存在は、そうした都合だけで測られていた。
光彩は思わず、紙面から目をそらした。
机の上には黒いファイルがあり、隣には律が立っている。埃をかぶった棚も、閉じられた扉も、古い紙の匂いも、すべて現実のものだった。それなのに、そこに記された内容だけは、現実からひどく遠い場所にあるように思えた。遠いからこそ、余計に逃げられない。誰かがこれを考え、記録し、実行したという事実が、いま光彩の目の前に置かれている。
「遠子は、どうして」
その問いは、途中で途切れた。
そこに理由が書かれていることが怖かった。理由などなかったと知ることも、同じくらい怖かった。
光彩は、遠子のことをまだほとんど知らない。一年前までこの学校にいて、窓際の一番後ろに座っていて、柔らかな声で話し、自分の名前を呼ばれただけで泣きそうになる少女。その程度しか知らないはずなのに、資料の中で彼女が選ばれた理由を無機質な一文として突きつけられることを想像すると、胸の内側が静かに削られていった。
律は別の紙を取り出した。
「処理済み対象者一覧。さっき見たものより、こっちの方が詳しい」
光彩は紙を受け取った。
そこには、いくつもの名前が並んでいた。すでに判読できなくなっているものもある。文字の一部が白く抜け、紙そのものに溶けかけている。消された人間の記録は、記録として残されていても、なお消え続けているのかもしれない。
神谷澪。
律の姉の名前は、中央あたりにあった。
初期実験対象、処理段階、第三相。家族記憶、一部残留。音声残留、微弱。夢内発話、確認あり。
光彩はそこから目を離せなかった。
「夢内発話って」
「たぶん、夢の中で声が聞こえるってことだと思う」
「神谷くん、聞いたことあるの?」
律は、わずかに間を置いた。
「ある。けど、起きるとほとんど覚えてない。名前だけ残る日もあれば、泣いていた気がする日もある。夢の中で姉が何を言ったのか、ちゃんと覚えていられたことはない」
「それでも、澪さんは」
「完全には消えてない」
律はそう言ったが、その声には希望よりも疲労が滲んでいた。完全には消えていない。戻ってきたわけでもない。名前を手に書き続け、夢の断片に縋り、消えかけた文字を毎日なぞることで、かろうじて失わずにいるだけだった。
光彩はさらに下を読んだ。
霧島遠子。
名前の横に、完成処理第一成功例、とある。
そのニ文字は、ほかのどの記述よりも濃く、鮮明に残っていた。
成功。
何度読んでも慣れることのない言葉だった。遠子は教室の隅で、名前を呼ばれただけで泣きそうな声を出した。誰かに見つけてほしくて、消えていく文字を何度も書いた。その少女を、ここでは成功例と呼んでいる。声も、席も、記憶も、誰かと過ごした時間も、すべて剥がしたあとに残ったものを、成功と記している。それを成功と呼ぶ人間がいる。その事実が、あまりにも耐えがたかった。
「完成処理第一成功例って、どういう意味」
光彩の声は震えていた。
律はファイルをめくり、数枚先で手を止めた。
「ここに、遠子の個別記録がある」
見たくない、と一瞬思った。
それでも、見なければならなかった。見つけて、と遠子は書いた。あの声が届いた自分が、遠子のことを知ろうとしないまま助けられるはずがない。光彩は両手を机の縁に置き、紙面へ目を落とした。
個別観察記録。
対象者名、霧島遠子。
年齢、十六歳。
所属、二年三組。
性格傾向、協調性高。成績優秀。教師および生徒からの評価は良好。交友関係は広く、学校生活における視認性が高い。
光彩は、思わず予備席に座る遠子を想像した。
たくさんの友人に囲まれていたのだろうか。休み時間に誰かと笑い、先生に信頼され、行事では中心に近い場所にいたのかもしれない。今の遠子の声からは、その姿をうまく結びつけられない。それでも、記録の中の遠子は確かに存在感のある生徒だった。
だからこそ、選ばれた。
次の行を読んで、光彩はそのことに気づいた。
社会的視認性の高い対象において、透明化処理の有効性を検証するため、完成処理第一成功例候補として選定。
「人気があったから……?」
光彩の声が、資料室の埃の中に落ちた。
「遠子は、みんなに覚えられていたから選ばれたの?」
律は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
光彩は紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。ここに書かれている文字が消えたら困る。怒りに任せて破れば、その瞬間、遠子の痕跡を一つ失うことになる。そう思うと、怒ることさえ自由にはできなかった。
資料はさらに続いていた。
対象者は処理開始直後、強い抵抗反応を示した。複数名の生徒が対象者名を一時的に想起し、教室内における空席への違和感を訴えたため、第三段階補正を前倒しで実施。以降、対象者の名称、顔貌、声紋に関する外部記録はほぼ消失。
家族記憶においては補正遅延を確認。
母親に該当する関係者が、処理後も対象者名を反復記述する行動を継続。該当者の処理については、研究班内で意見が分かれたため保留。
光彩は、そこで動きを止めた。
母親。
霧島遠子の母親。
律が言っていた。保健室の先生も同じ名字だ、と。この学校で起きていることに、偶然という言葉を信じるのは危ない、と。
光彩の中で、霧島先生の姿がゆっくり浮かんだ。
白衣を着て、保健室の窓際に立つ女性。穏やかで、少し低い声。貧血で横になっていた光彩に、無理に話しかけず、カーテンを少しだけ開けて桜を見せてくれた人。
あの先生が、遠子の母親なのか。
口にしようとして、光彩は声を飲み込んだ。
まだ断定はできない。霧島先生が遠子の母親だと決まったわけではないし、資料に書かれた「母親に該当する関係者」という表現も、ひどく曖昧だった。誰かの母親であることさえ、ここでは名前ではなく関係性の項目として処理されている。
それでも、光彩はもうその可能性から目をそらせなかった。
母親に該当する関係者。処理後も対象者名を反復記述。保留。
保留、という言葉が、妙に冷たく残った。忘れようとしなかった人間さえ、資料の中では処理するかどうかを判断される側に置かれている。
「これ、霧島先生のこと?」
律は少しだけ目を伏せた。
「可能性は高い」
「先生は、遠子のことを覚えてるの?」
「分からない。もし覚えているなら、どうして今まで何もしなかったのかという話になる」
「何もできなかったのかもしれない」
光彩は、思わずそう言っていた。
律は光彩を見た。
「かばうの?」
「分からない。でも、遠子の名前を書き続けていたなら、忘れたくなかったんだと思う」
「忘れたくなかっただけで許されることじゃない」
律の声には、硬い痛みがあった。
光彩は、すぐに言い返せなかった。律の姉は消された。家族は忘れ、写真は白くなり、律だけが手のひらに名前を書き続けている。誰かを許すかどうかを、光彩が簡単に決めていいはずがない。
けれど、資料の中の「母親に該当する関係者」という一文が、胸の奥に残った。
遠子には母親がいた。
その母親は、少なくとも名前を書き続けようとした。
それでも遠子は、教室の予備席で一人、誰かに見つけてと書き続けていた。
何があったのか、知らなければならない。
光彩は次のページをめくった。
そこには、別の見出しがあった。
接触者に関する影響報告。
光彩は嫌な予感を覚えた。
記載内容は、霧島遠子に接触した人間へ起こる変化についてまとめたものだった。対象者を認識した第三者は、初期段階において記録媒体の異常、写真上の顔貌不明瞭化、周囲からの認知遅延を示す。進行すると、出席記録、家族記憶、本人所持品、居住痕跡に欠落が生じる。さらに接触を継続した場合、対象者の欠落を補填する形で、接触者自身の存在情報が不安定化する可能性がある。
光彩は、未央から届いたメッセージを思い出した。
『今日、光彩って学校来てた?』
あれは、ただの始まりだったのかもしれない。
資料の下部には、手書きの赤い文字があった。印刷された文章とは違う、急いで書き加えたような筆跡だった。
接触者を出してはいけない。
見つけようとする者が、次の対象になる。
光彩は、その文字を指先でなぞった。
赤いインクは薄くなっているが、まだ消えていなかった。誰かが、資料の余白に警告を残した。計画の内側にいた誰かが、後からこれを書いたのだろうか。あるいは、消される前の誰かが。
「これ、誰の字?」
律は首を横に振った。
「姉の字じゃない。たぶん、研究側の人間だと思う」
「研究側……」
「この計画に関わっていた人間が、途中で止めようとしたのかもしれない」
「霧島先生?」
「可能性はある」
光彩は、赤い文字の残るページから目を離せなかった。
接触者を出してはいけない。
見つけようとする者が、次の対象になる。
印刷された報告文の隙間に書き込まれたその一文だけが、ほかの資料とは違う温度を持っていた。計画を進めるための注意書きというより、計画の内側から誰かが投げた警告に見える。筆跡には乱れがあり、インクもところどころ掠れている。 急いで書いたのか、迷いながら書いたのかまでは分からない。それでも、その文字を残した人間がこの計画を完全には信じきれていなかったことだけは、光彩にも分かった。
律が、隣で息を詰めた。
「水瀬」
その声に、光彩は顔を上げる。
律は、ファイルの一番奥に挟まれていた一枚を見ていた。
ほかの資料とは、紙の白さが違っていた。端は黄ばんでおらず、綴じ穴の位置もわずかにずれている。長いあいだこのファイルと一緒に眠っていた紙ではない。誰かがあとから差し込んだものだと、見ただけで分かった。
「これ、最近の紙だ」
律が低く言った。
「最近?」
「黒いファイル自体、姉が残したものじゃない。その上、この紙はもっと新しい。誰かが一度だけじゃなく、何度もここへ手を入れてる」
その言葉で、資料室の空気がまた一段冷えた気がした。
ここは忘れられた場所ではなかった。埃をかぶった棚も、古い段ボールも、長く放置された資料も、過去の残骸のような顔をしていただけで、誰かは今もこの計画を見ている。少なくとも、最近まで見ていた。
光彩は、閉じられた扉へ目を向けた。
外から物音はしない。廊下を歩く足音も、生徒の声も届かない。一度そう思ってしまうと、扉の向こうに、こちらの息遣いまで聞き取ろうとしている誰かがいるような気がした。
促されるまま、光彩は紙面を覗き込んだ。
上部には、再処理対象者管理記録、と印字されていた。
再処理対象。
水瀬光彩。
最初は、読み違えたのだと思った。
そう思いたかった。
紙面の文字は消えない。水瀬光彩。住所、生年月日、所属学年、家族構成。学校に提出した書類の中にしかないはずの情報まで、淡々と記載されている。
光彩は、自分の指先が冷えていくのを感じた。
「なんで……」
ようやく出た声は、自分のものではないようにかすれていた。
律は答えなかった。答えを持っていないのだろう。彼の手元で、ファイルのページだけがわずかに震えている。光彩は、何かの間違いを探すように備考欄へ視線を走らせた。
対象は幼少期に第一次実証実験の事故を目撃。
記憶封鎖処理後、経過観察中。
接触反応あり。
再処理の必要性を検討。
文字が、ひとつずつ目の奥へ沈んでいく。
遠子を見つけたから、巻き込まれたのではない。
光彩は、最初からこの計画の中にいた。
その事実に気づいた途端、資料室の閉ざされた空気が重さを増した。埃をかぶった棚も、鍵のかかった扉も、外の光を拒む窓も、ずっと前から光彩を待っていたもののように見える。ここへ来たのは自分の意思だったはずなのに、たどり着く場所だけは最初から決められていたような感覚が、喉の奥を塞いだ。
ファイルの中には、自分の名前が残っている。
再処理対象。
水瀬光彩。
この数日、何度も書いては消えた遠子の名前とは違い、水瀬光彩という文字は、冷たい書式の中で少しも揺らがなかった。
光彩はその名前を見つめたまま、しばらく息をすることも忘れていた。
FILE 05 透明少女計画、実用化に向けた提言
本計画の目的は、対象者の肉体的殺害ではない。
社会における位置を失わせ、記録から切除し、関係者の記憶から対象者に関する線を抜き取ることで、対象者を「存在していても存在していない者」として処理する。肉体を損なわず、事件性を残さず、対象者本人にすら自己証明の手段を与えない点において、従来の隔離措置よりもはるかに低負荷である。
社会秩序への適応が困難と判断された者、反社会的傾向を有すると分類された者、公共または組織の安定を損なう恐れのある者への適用が想定される。
ただし、完全な透明化には対象者の社会的接続を段階的に剥離する必要があり、急激な処理は周囲に欠落感を発生させる。対象者が誰かに強く記憶されている場合、補正に遅延が生じるため、事前に人間関係の希薄化を図ることが望ましい。
霧島遠子は成功例である。
しかし、水瀬光彩の反応を見る限り、成功例という呼称は再検討されるべきかもしれない。
消された者が、消されていない者へ手を伸ばす経路が、まだ閉じられていない。




