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FILE 04『処理済み対象者一覧の断片』

 翌朝、光彩は鏡の前でしばらく動けなかった。


 洗面所の白い照明の下に映っているのは、いつもと同じ顔のはずだった。寝不足のせいで目の下に少し影があり、前髪の端が湿気で浮いている。制服のリボンは一度結び直した方がよさそうで、母に見つかれば「ちゃんとしなさい」と言われるだろう。歯ブラシのミントの匂いも、水道の音も、台所から聞こえる食器の触れ合う音も、朝の家そのものだった。


 それでも光彩は、鏡に映る自分の顔をすぐには信じられなかった。


 昨夜、未央から送られてきた写真を何度も見返した。光彩の顔だけが、薄く滲んでいた。撮影の失敗だと考えることはできる。実際、未央はそう思っていた。笑い混じりのメッセージで済ませられる程度の異変。けれど、光彩はもうそう受け取れない。霧島遠子の名前を書いた文字が消え、声を録ろうとした録音が無音になり、写真に残ったはずの空白まで消えたあとで、自分の顔だけがぼやけている写真を、ただの偶然として片づけることはできなかった。


 鏡の中の自分は、まだ消えていない。


 そう思った直後、その確認の仕方そのものがひどく頼りなく感じられて、光彩は水で顔を洗った。冷たい水が頬を打ち、まぶたの裏に昨日の教室が浮かんだ。誰もいない予備席。ノートに書かれた「私を見つけて」。見えない少女の声。世界から消されている、と言った遠子。


「光彩、朝ごはん冷めるよ」


 台所から母の声がした。


「今行く」


 返事はいつも通りに出た。


 食卓には、トーストと目玉焼き、昨夜の残りのスープが並んでいた。母は仕事用のブラウスに着替えながら、片手でスマホを確認している。父はすでに出勤していて、椅子の背にかけられた新聞だけが残っていた。


 光彩は椅子に座り、トーストを手に取った。


「今日、雨降るみたいだから傘持っていきなさい」


「うん」


「あと、昨日の夜、遅くまで起きてたでしょ。顔色あんまりよくないよ」


「小テストの範囲見直してただけ」


「無理しないでね」


 母の言葉は優しかった。優しいからこそ、光彩は何も言えなかった。もし自分が消えかけているのだとして、母はいつ気づくのだろう。昨日まで娘だった人間の好きな食べ物を忘れ、洗濯物の枚数が一枚減っても不思議に思わなくなり、家族写真の端にできた空白を、最初からそういう構図だったと受け入れるのだろうか。


 そんな想像をしてしまい、光彩はスープの匙を止めた。


「お母さん」


「なに?」


「私の好きな食べ物って、何だっけ」


 母はスマホから顔を上げ、不思議そうに笑った。


「何その質問。オムライスでしょ」


「……だよね」


「一昨日も作ったじゃない。寝ぼけてる?」


「ううん。ちょっと聞いただけ」


 光彩は小さく笑って、スープを口に運んだ。


 まだ大丈夫。


 母は覚えている。写真の中の顔はぼやけていたけれど、母の中にいる光彩は、まだ消えていない。そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。その安堵は長く続かなかった。大丈夫だと確認するたび、いつまで、という言葉が背後に立つ。


 学校へ着くと、二年三組の教室はもう半分ほど埋まっていた。


 未央が窓際の友人と話している。男子たちは黒板の前で小テストの範囲を言い合い、誰かが「もう無理」と机に突っ伏していた。光彩は自分の席へ向かう途中、どうしても予備席を見てしまった。


 霧島遠子の席だった場所。


 そこには、文化祭の装飾に使うらしい色画用紙の束が置かれていた。端には未使用のガムテープが転がり、係分担を書きかけたメモまで重ねられている。持ち主に悪気はない。誰も使っていない机を、少しのあいだ物置にしているだけなのだから、責める理由などない。


 その紙の束を見た瞬間、光彩の胸の奥はざらついた。


「おはよ、光彩」


 未央が振り返った。


「おはよう」


「昨日の写真、見た? ほんとごめんね、光彩だけブレてたやつ」


「うん。見た」


「撮り直せばよかったね。てか、あれ変だったよね。周りは普通なのに」


 光彩は未央の顔を見た。


 未央は覚えている。昨日の写真のことを。光彩の顔だけがぼやけていたことを。ほんの少しだけ、光彩の指先に力が戻った。


「未央、その写真まだ持ってる?」


「あるよ。消してないと思う」


「見せて」


「いいけど、そんなに気になる?」


 未央はスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。光彩は息を潜めて画面を覗き込んだ。昨日の昼休みに送られてきた写真。未央たちが笑っている教室。光彩が右端に立っているはずの構図。


 画面に映った写真は昨夜と違っていた。


 未央たちの顔は鮮明だった。教室も、黒板も、窓も、机の上の購買の袋も、そのまま写っている。右端には光彩の制服の肩らしきものが見えたが、顔のあたりだけが切り取られたように白く抜けていた。ぼやけているのではない。そこだけが、写真の中で空白になっている。


 未央は首を傾げた。


「あれ、こんなだったっけ」


「昨日は、まだ顔が少し見えてた」


「そうだっけ? ごめん、私、光彩の顔がブレてたことしか覚えてないや」


 未央は悪びれずに笑った。その笑い方がいつもと同じだったから、光彩は何も言えなかった。未央の記憶の中では、異変の濃度が薄まっている。写真の中の光彩がぼやけていたことは覚えているが、それがどんなふうにおかしかったのかは、もう曖昧になり始めている。


 黒板の前では、文化祭の係を誰が引き受けるかで男子たちが言い合っていた。装飾、買い出し、受付、当日シフト。並んだ文字の横に、誰かがふざけて描いた星の落書きが残っている。未央たちは模造紙の色をどうするかでまた話し始め、教室の空気は、九日後の行事へ向かって少しずつ浮き立っていた。


 その明るさの中で、光彩の顔だけが写真から白く抜けていくことを、誰も本気で怖がってはいなかった。


 光彩は自分のスマホを取り出し、昨夜送られてきた画像を開いた。


 同じだった。


 光彩の顔だけが、白く抜けている。


 昨夜はまだ、目元の位置も、口元の影も、かすかに残っていた。今は、顔の中心に置かれた白い穴のように見える。制服を着た誰かがそこに立っていることは分かるのに、その誰かが水瀬光彩だと示すものだけが剥がされていた。


「光彩?」


 未央が覗き込む。


「大丈夫? 顔色悪いよ」


「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


 そのとき、教室の後ろで紙の束が崩れる音がした。


 光彩は反射的に予備席を見た。机に置かれていた色画用紙の束が、床へ滑り落ちている。近くにいた生徒は誰も触れていない。気づいたとしても、置き方が悪かったのだと思うだろう。


 遠子の名前を声には出さなかった。出せなかった。教室には人が多すぎる。ここで名前を呼べば、遠子はまた誰かに忘れられるところを見せられるかもしれない。


 担任が来る前の教室は、まだ落ち着かないざわめきの中にあった。予備席の近くでは、床に落ちた色画用紙を数人の生徒が拾い集めていた。誰かが「置き方が悪かったんじゃない」と笑い、別の生徒が端をそろえて机の上へ戻していく。その机が、誰かの席だったかもしれないとは、誰も思っていない。小テストの範囲を確認する声、鞄から教科書を引き出す音、椅子を引く音が重なっている。


 光彩が自分の席へ視線を戻したとき、机の端に一枚の紙が置かれているのに気づいた。


 さっきまで、そこにはなかった。


 誰が置いたのか分からない。隣の席の生徒は小テストのプリントをめくっていて、前の席の女子は未央と話している。誰もこちらを見ていなかった。


 振り返ると、隣の列に神谷律(かみやりつ)が立っていた。こちらを見ていたのは、彼だけだった。無口で成績のいい男子、というのが光彩の知っている彼の印象だった。学年順位ではいつも上位。授業中に当てられれば簡潔に答え、休み時間は本を読んでいるか、イヤホンをして窓の外を見ている。クラスの誰かと揉めることもないが、親しい誰かがいるようにも見えない。


 神谷律は、光彩を見ていた。


 紙には、細い字で一行だけ書かれていた。


 ――霧島遠子を探しているなら、もうやめた方がいい。


 光彩は息を止めた。


 紙の文字は、消えなかった。


 光彩は顔を上げた。律は何も言わず、自分の席へ戻っていく。担任の村井先生が教室へ入ってきて、朝の会が始まった。出席を取る声が教室を流れていく。相原、井口、上野、江藤。いつもの順番。いつもの返事。


 霧島遠子の名前は、今日も呼ばれなかった。


 光彩は机の下で、律の紙を折りたたんだ。


 その一文は、消えない。霧島遠子の名前が、紙の上に残っている。昨夜、何度書いても消えた名前が、律の字では残っている。なぜ。どうして。聞きたいことが一気に増えたのに、授業中の教室では何もできなかった。


 光彩は一時間目からずっと、律の背中を見ていた。


 彼はいつも通りだった。教科書を開き、板書を写し、先生に当てられると正しい答えを口にする。光彩だけが、自分の机の中に畳んだ紙を何度も指で確かめていた。紙は消えない。文字も消えない。霧島遠子という名前が、光彩以外の誰かの手によって、確かに残されている。


 昼休みになると、律は席を立った。


 光彩は未央に「図書室に行く」とだけ告げて、彼のあとを追った。律は急ぐでもなく、振り返るでもなく、廊下を進んでいく。三階の渡り廊下を抜け、人気の少ない西階段へ向かう。そこは旧校舎へつながる通路に近く、昼休みでも生徒はあまり来ない。窓の外では、昨夜の雨を含んだ雲が低く垂れていた。


 踊り場で、律はようやく立ち止まった。


「来ると思った」


 光彩は数段下に立ったまま、彼を見上げた。


「神谷くん、遠子を知ってるの?」


「名前を出すな。ここでも、誰が聞いてるか分からない」


「誰って」


「僕ら以外の全員。先生も、生徒も含めて」


 律の声は低かった。脅かそうとしているのではない。むしろ、彼はその言葉に慣れすぎているように見えた。光彩は、畳んだ紙を取り出した。


「この文字、消えてない」


「僕の字は、しばらく残る」


「どうして?」


「毎日書いてるから」


 答えになっていない。光彩はそう思ったが、律の手を見て言葉を失った。


 左手の手のひらに、文字が書かれていた。黒い油性ペンで、何度もなぞった跡がある。汗で滲み、皮膚の皺に沿って歪み、それでもそこには確かに名前らしきものがあった。


 神谷澪(かみやみお)


 読み取れたのは、それだけだった。


「それ、誰?」


 光彩が聞くと、律は手を閉じた。


「姉」


「お姉さん?」


「この学校にいた。三年前まで」


 光彩は息をのんだ。


 遠子以外にもいる。


 その可能性は、昨日から頭のどこかにあった。けれど、実際に目の前の人間から告げられると、胸の奥が重く沈んだ。遠子は一人だけの例外ではない。誰かが何度も、同じことをしている。


「神谷くんのお姉さんも、消されたの?」


 律はすぐには答えなかった。


 階段の上から、どこかのクラスの笑い声が聞こえてくる。昼休みの学校は明るい。明るい声が響くほど、この踊り場だけが薄暗く取り残されているように感じられた。


「消された、という言葉が正しいのかは分からない。最初は、転校したことになっていた。次に、親戚の家へ行ったことになった。そのうち、母が姉の部屋を物置にし始めた。父は子どもは僕一人だと言った。家族写真から姉の顔が白くなって、最後には写真そのものがなくなった」


 律は、感情を抑えた声で続けた。


「でも僕は、姉がいたことだけは忘れなかった。顔はもうほとんど思い出せない。声も、たまに分からなくなる。だから名前を書く。朝起きたら、まず手に書く。昼までには薄くなるから、もう一度書く。夜、寝る前にも書く」


「それで、消えないの?」


「消える。けど、消える前に書き直す」


 光彩は、律の閉じた左手を見た。


 毎日、消えていく名前を書き直す。忘れないために。忘れたことにも気づかない人たちの中で、一人だけ抵抗するために。光彩は、彼の無口さの理由を初めて知った気がした。彼は人と距離を置いていたのではない。誰にも分かってもらえない記憶を抱えたまま、教室の中で普通の顔をしていただけだった。


「どうして私が遠子を探してるって分かったの」


「昨日の朝、あの席に向かって話しかけてただろ」


 光彩は言葉を失った。


 昨日の朝、教室にはまだほとんど人がいなかった。予備席の前に立ち、そこにいるの、と小さく声をかけたことを思い出す。誰にも聞かれていないと思っていた。聞かれていたとしても、独り言だと思われる程度だと勝手に決めていた。


「……見てたの?」


「教室に入ろうとして、やめた。それに、あの席は、ただの余った机にしか見えない。邪魔なら荷物を置くし、掃除のときは少し動かす。それだけだ。立ち止まって、席に向かって会話するような人間はいない」


 光彩は、昨日の予備席を思い出した。


 誰もいない椅子。落ちたノート。黒板に浮かんだ文字。見えない少女の声。


 律は、光彩の顔を見た。


「それに、今日の写真」


 光彩は体が強張るのを感じた。


「見たの?」


「未央が騒いでた。君の顔だけ変に抜けてるって。君はもう巻き込まれてる」


「遠子を見つけたから?」


「たぶん」


「たぶんって」


「確かなことなんて、ほとんどない。僕が知っているのは、名前を書けば消えること、写真は白くなること、周りの人間は忘れること、そして深く関わった人間ほど向こう側へ引かれること。それだけだ」


 光彩は、階段の手すりを握った。


 向こう側。


 律が何気なく使ったその言葉が、妙に重く聞こえた。こちら側と向こう側。その境目がどこにあるのか分からないまま、光彩はすでに片足を踏み入れているのかもしれない。


「神谷くんは、どうしてやめろって言ったの」


「君が消えるから」


 あまりにまっすぐ言われて、光彩は何も返せなかった。


 律は表情を変えなかった。冷たいのではない。冷たく見えるほど、その可能性を何度も考えてきた顔だった。


「姉のとき、僕も調べようとした。最初はクラスの友達に聞いた。次に先生に聞いた。昔の写真を探して、卒業アルバムを調べて、家の物置をひっくり返した。調べれば調べるほど、姉の痕跡は消えた。僕自身の記憶も削れていった。最後に残ったのは、手に書いた名前だけだった」


「でも、神谷くんはまだ覚えてる」


「覚えてるというより、忘れない作業を続けてるだけだ」


 その言葉が、光彩の胸に残った。


 忘れないことは、自然にできることではない。毎日、書いて、見て、呼んで、失われるより早く確かめる。律にとって記憶は、守らなければすぐに奪われるものだった。


「遠子も、同じなのかな」


「君が聞いた名前は、霧島遠子で合ってる?」


「うん」


「やっぱり、霧島遠子か」


 律の眉がわずかに動いた。


「何か知ってるの?」


「その名前は、引っかかってた。保健室の先生も霧島だから」


「霧島先生が関係してるってこと?」


「偶然かもしれない。けど、この学校で起きていることに関して、偶然って言葉を信じるのは危ない」


 光彩は、霧島先生の顔を思い浮かべた。


 保健室の女性教師。穏やかで、少し低い声で話す人だった。具合の悪い生徒に無理をさせず、それでいて必要以上に踏み込んでもこない。光彩も一年のとき、貧血で保健室へ行ったことがある。そのとき霧島先生は、カーテンを少しだけ開けて、窓の外の桜が見えるようにしてくれた。


 優しい先生だと思っていた。


 けれど今、その優しさの意味が少しだけ変わって見えた。生徒に寄り添うための静けさなのか、それとも何かを隠し続けてきた人間の沈黙なのか、光彩にはもう区別がつかなかった。


「神谷くん、何か資料とか持ってる?」


「全部は持ってない。けど、姉が消える前に残したものがある」


「見せて」


「見せたら、君は戻れなくなるかもしれない」


「もう戻れてないよ」


 光彩の声は、自分で思ったより静かだった。


 律は少しだけ目を細めた。光彩を試しているのか、迷っているのか、読み取れない表情だった。


「今日の放課後、旧校舎の資料室に来て」


「旧校舎?」


「今はほとんど使われていない。鍵は僕が持ってる」


「どうして鍵を?」


「姉が残した」


 律はそれ以上説明しなかった。


 予鈴が鳴った。昼休みの終わりを知らせる音が、校舎全体に広がっていく。踊り場にいた二人のあいだにも、いつもの学校の時間が戻ってきた。次の授業に遅れれば、誰かに理由を聞かれる。光彩は階段を上がりかけて、ふと立ち止まった。


「神谷くん」


「何」


「お姉さんの名前、もう一回聞いてもいい?」


 律は少しだけ迷い、左手を開いた。


「神谷澪」


「神谷澪さん」


 光彩が口にすると、律の表情がわずかに揺れた。


「……呼べるんだな」


「今は、まだ」


「なら、忘れないで」


 その言い方が、頼みというより祈りに近かったので、光彩は簡単に頷けなかった。忘れないと約束しても、忘れさせられるかもしれない。消えないと言っても、文字は消える。記憶さえ削られる。それでも、何も言わないまま教室へ戻ることはできなかった。


「書くよ。消える前に、何度でも」


 律は、ほんの少しだけ視線を伏せた。


 放課後までの時間は、長かった。


 授業の内容はほとんど頭に入らなかった。英語の小テストも、解答欄を埋めながら、光彩は霧島遠子と神谷澪の名前を頭の中で繰り返していた。遠子。澪。遠子。澪。遠子。澪。二つの名前が消えないよう、胸の内側に爪を立てるようにして覚え続ける。


 放課後、未央に声をかけられる前に、光彩は教室を出た。


 旧校舎へ向かう廊下は、普段ほとんど通らない。新校舎とつながる渡り廊下の先にあり、今は美術準備室や古い教材倉庫が入っているだけだと聞いていた。窓枠は古く、壁の色も少し黄ばんでいる。新校舎の明るさに慣れた目には、そこだけ時間が止まっているように見えた。


 律は、資料室の前に立っていた。


「来たね」


「うん」


「入る前に、一つだけ言っておく」


 律は鍵を差し込む前に、光彩を見た。


「中にあるものを見たら、君は霧島遠子をただの見えない少女だとは思えなくなる。それでも見る?」


「見る」


 光彩は迷わなかった。


 怖くないわけではない。自分の顔が写真から抜け落ちていくことを思い出すだけで、足元が頼りなくなる。それでも、遠子の声を聞いてしまった。神谷澪の名前を呼んでしまった。見なかったことにして帰るには、もう知りすぎている。


 律は鍵を回した。


 資料室の扉が、重い音を立てて開いた。


 中は薄暗く、古い紙の匂いがした。棚には卒業文集、学校新聞、廃棄予定の教材、段ボール箱が詰め込まれている。窓には埃が積もり、外の光はほとんど届かない。律は迷わず奥の棚へ進み、下段の段ボールを引き出した。


 箱の底に、茶色い封筒があった。


 封筒の表には、手書きでこう書かれていた。


 律へ。


 律はそれを開き、中から数枚の紙を取り出した。古いコピー用紙だった。端は折れ、ところどころ文字も薄くなっている。長いあいだ誰かの手を逃れて残ってきた紙だと、触れなくても分かった。


 見出しだけは、はっきりと読めた。


 処理済み対象者一覧。


 光彩の呼吸が止まった。


 一覧には、いくつもの名前が並んでいた。読めるものもあれば、紙の白さに沈みかけているものもある。神谷澪の名前は、中央あたりにあった。隣には、初期実験対象、第三相処理、家族記憶残留、という文字が続いている。


 そして、一番下の欄に、光彩は見覚えのある名前を見つけた。


 霧島遠子。


 その横に、小さくこう記されていた。


 完成処理第一成功例。


 光彩は紙を持つ手に力を込めた。


 遠子は、ただ見えなくなった少女ではなかった。誰かが彼女を消し、その結果を成功と呼んでいる。教室の隅で、名前を呼ばれるだけで息を震わせていた少女のことを、たった四文字で片づけている。


 律が、封筒の中へもう一度視線を落とした。


 その指が止まる。


「……こんなもの、入ってたか」


 低くこぼれた声に、光彩は顔を上げた。


 封筒の奥に、黒いファイルが挟まっていた。コピー用紙の束に隠れていたせいで、最初は気づかなかったのだろう。古びた茶封筒には、不釣り合いな厚みがある。律はしばらくそれを見つめてから、慎重に引き抜いた。


「神谷くん、知らなかったの?」


「知らない」


 律の声から、いつもの冷静さが少しだけ抜けていた。


「少なくとも、前に見たときはなかった」


 黒い表紙には、白いラベルが貼られている。長い年月で黄ばんだラベルに、無機質な文字が印字されていた。


 透明少女計画。


 光彩は、その文字から目を離せなかった。


 遠子の名前よりも、神谷澪の名前よりも、その六文字は冷たかった。少女、という柔らかな語が含まれているのに、そこには人の体温が一つも残っていない。


 律はファイルを持つ手に力を込めた。


「姉が残したものじゃない」


「じゃあ、誰が……」


 律は答えなかった。


 答えられないのだと思った。


 そのとき、光彩のスマホが震えた。


 画面には、未央からのメッセージが表示されていた。


『ごめん、今さらなんだけどさ』


『今日、光彩って学校来てた?』


 光彩は画面を見つめたまま、息をすることを忘れた。


 資料室の薄闇の中で、スマホの白い光だけが、彼女の指先を照らしていた。

FILE 04 処理済み対象者一覧の断片


 処理済み対象者一覧より、第三相処理に移行した対象を以下に記録する。


 全記録の閲覧権限は理事長室に集約。旧校舎資料室に残置された紙媒体は、複製資料または廃棄漏れと見られる。記載対象はいずれも女子生徒であり、名称、声紋、筆跡、影像、夢内発話記録のいずれかに断片的残留を確認。完全処理に至った対象については、社会的復帰の見込みをきわめて低いものとする。


 神谷家に関する記録には、近親者間記憶の残留例が記載されている。


 該当男子生徒は、姉の氏名を毎朝手のひらに記述する習慣を持つ。文字は昼前後に薄れ、夕刻には判読不能となるが、本人は翌朝ふたたび同一の行為を繰り返している。通常であれば記憶補正により行動そのものが消失するはずだが、現在も習慣のみが残存している。


 感情に結びついた反復行動は、名称消去よりも強く残る場合がある。


 この事例を理事長は有用と見なし、次段階実験への転用を指示した。

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