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FILE 03『証明行為に対する自動補正』

 霧島遠子の名前を忘れないために、光彩はその日の夜、机に向かって何度も同じ文字を書いた。


 霧島遠子。


 使ったのは、学校でいつも使っているノートではなく、小学生のころに買ったまま引き出しの奥に眠っていたメモ帳だった。淡い花柄の表紙に、少しだけ黄ばんだ紙。何年も使っていなかったせいでページの端が乾いていて、めくるたびにかさりと小さな音がする。


 名前を書いた直後、文字は確かにそこにあった。


 光彩の字で、霧島遠子、とある。


 彼女はスマホのタイマーを起動し、机の上に置いた。十秒。二十秒。三十秒。鉛筆の線は、目を離さないでいるあいだにも少しずつ薄れていく。紙に染み込んだ黒鉛が、内側からほどけていくようだった。消しゴムで消したときのような汚れは残らない。誰かが上から塗りつぶすのでもない。ただ、そこに文字があったという事実だけが、紙面から静かに抜き取られていく。


 一分と経たないうちに、ページは白く戻った。


 光彩は、消えた文字の上を指でなぞった。筆圧の跡は残っている。目には見えないのに、触ればそこにある。名前は消えたが、名前を書こうとした行為までは、まだ完全に奪われていない。


 それが慰めになるのかどうか、光彩には分からなかった。


 彼女は続けて、ペンを替えた。シャーペン、ボールペン、油性ペン。黒、青、赤。紙の裏に染みるほど強く書いた文字でさえ、数分後には色を失った。油性ペンで書いたときだけ、わずかに輪郭が長く残ったが、それもやがて古い日焼けの跡みたいに薄まり、最後には読むことができなくなった。


 霧島遠子。


 声に出してみる。


 自分の声は部屋に残る。机の上のスタンドライト、畳んだ制服、壁に掛けた鞄、ベッドの上で丸まったブランケット。日常に属するものたちは何も答えない。答えないまま、光彩がその名前を口にしたことだけを聞いている。


 光彩はスマホの録音アプリを立ち上げた。


「霧島遠子」


 赤い録音マークが回っている。


「霧島遠子。二年三組。窓際の一番後ろの席。姿は見えないけれど、声が聞こえる。ノートに『私を見つけて』と書いた」


 言葉にしていくと、急に自分がひどくおかしなことをしているように思えた。夜の自室で、机に向かい、見えない少女について録音している。明日の朝になって聞き返したら、恥ずかしさで削除したくなるかもしれない。それでも、今は証拠が必要だった。


 保存ボタンを押し、すぐに再生する。


 数秒の無音が流れた。


 光彩はスマホを耳に近づけた。音量を上げる。再生バーだけが動いている。部屋の空気音も、椅子の軋みも、光彩自身の声も入っていない。録音に失敗したのかと思い、もう一度試した。


「あいうえお」


 再生すると、今度はちゃんと声が入っていた。


 あいうえお。


 何の変哲もない自分の声に、光彩はかえって寒気を覚えた。スマホが壊れているわけではない。アプリの不具合でもない。霧島遠子の名前と、それに関する説明だけが、音声として残らない。


 光彩はもう一度録音ボタンを押した。


「霧島遠子」


 再生。


 無音。


「昨日の放課後、誰もいない席からノートが落ちた」


 再生。


 無音。


「明日の小テスト、英語の範囲は教科書四十二ページから」


 再生。


 今度は、声が入っていた。


 光彩はスマホを机に置き、両手で顔を覆った。


 信じたくなかった。目の前で起きている現象を否定したいわけではない。むしろ逆だった。あまりにもはっきりと起きているせいで、逃げ場がなくなっていく。悪戯、勘違い、寝不足、怪談。そういう曖昧な箱に押し込んでしまえた方が、どれだけ楽だっただろう。


 机の上には、何も書かれていないメモ帳と、何も録れていない録音データが残っていた。


 そこに遠子はいない。


 いないのに、いなかったことにはできない。


 翌朝、光彩はいつもより早く学校へ着いた。


 校門をくぐる生徒はまだ少なく、昇降口の床には前日の湿気が薄く残っていた。靴箱の金属扉を開けると、上履きの白がぼんやりと見える。いつもと変わらない朝だった。廊下を歩く足音、教室の鍵を開ける先生の声、どこかで笑う一年生。こういうものの中に紛れてしまえば、昨日の出来事は少しだけ遠ざかる。


 二年三組の扉を開けると、教室にはまだ誰もいなかった。


 窓際の一番後ろにある予備席は、昨日と同じようにそこにあった。机の上には何も置かれていない。椅子もきちんと収まっている。それなのに光彩は、そこをただの空席として見ることができなくなっていた。


「霧島さん」


 小さく呼ぶ。


 返事はなかった。


 光彩は少し迷い、もう一度呼んだ。


「遠子」


 椅子が、ほんのかすかに鳴った。


「……おはよう」


 朝の教室で聞く遠子の声は、昨日よりも頼りなく感じられた。夜のあいだにさらに薄くなったのか、光彩が昨日よりも遠子の弱さを聞き取れるようになったのか、その違いは分からない。


「おはよう」


「……来てくれたんだ」


「約束したから」


 遠子は少し黙った。


「怖くなかった?」


「怖かったよ」


 光彩は鞄を自分の机に置いた。嘘をつく気にはなれなかった。怖くなかったと言えば、遠子は安心するかもしれない。けれど、その安心は長く続かない気がした。遠子が抱えているものの前で、簡単な励ましは薄すぎる。


「録音した。遠子の名前とか、昨日のこととか。でも、再生したら何も入ってなかった。普通の言葉は録れたのに、遠子のことだけ消えてた」


 予備席のあたりで、遠子が小さく息を吸った。


「やっぱり」


「前にもあった?」


「何度も。録音も、写真も、メモも、全部だめだった。誰かに信じてもらえたと思っても、次の日には忘れられた。忘れた人は、忘れたことにも気づかない」


「遠子の写真は?」


 光彩が聞くと、遠子はしばらく黙った。


「撮ってみる?」


「嫌ならやめる」


「嫌じゃない。でも、写らないと思う」


 光彩はスマホを取り出した。カメラを起動し、予備席に向ける。画面の中には、机と椅子が映っている。窓から入る朝の光が、天板の埃を白く照らしていた。そこに少女の姿はない。制服の影も、髪の輪郭も、光の歪みもない。


「撮るよ」


「うん」


 シャッター音が教室に響いた。


 光彩は撮った写真を確認した。予想通り、そこに人の姿はなかった。ただ、机の上に積もった埃の一部だけが、楕円形に途切れている。誰かが肘か手のひらを置いていたみたいに。


「机の埃が消えてる」


「え?」


「手を置いてる?」


「……置いてる」


 光彩は画面を拡大した。


 埃の途切れた部分は、確かに人の手の形に見えた。五本の指が見えるわけではない。それでも、物を置いた跡とは違っていた。そこにあるはずの手を、埃だけが避けている。光彩は心臓が一つ強く打つのを感じた。


「もう一枚撮る」


 今度は角度を変えて撮った。写真にはやはり誰も写らない。椅子の座面だけが、ほんの少し沈んでいた。何も座っていないはずの場所に、誰かの重みだけが残っている。


 証拠になる。


 そう思った瞬間、画面が白く滲んだ。


 光彩は息を止めた。


 写真の中で、埃の跡がゆっくりとぼやけていく。椅子の座面にあったわずかな沈みも、数秒前から何も変わっていなかったかのように平らになっていった。写真そのものが書き換えられている。目の前で、証拠が証拠でなくなっていく。


「消えた」


 光彩がつぶやくと、遠子は小さく息をのんだ。


「ごめん。私のせいで」


「違う」


 光彩はすぐに言い切った。自分でも驚くくらい、強い声だった。


「遠子が消してるわけじゃないでしょう」


 遠子は何も答えなかった。


 廊下から、生徒たちの声が近づいてくる。朝の教室が始まろうとしていた。光彩はスマホをしまい、自分の席に戻った。すぐに相原未央が入ってきて、「おはよう」と言う。光彩も同じ調子で返した。未央は机に鞄を置きながら、昨日駅前の店で買った新作のドリンクが甘すぎたという話を始めた。


 光彩は相槌を打ちながら、窓際の予備席を見ていた。


 遠子の声はもう聞こえない。生徒が増えるほど、彼女は教室のざわめきに沈んでいくようだった。誰かが予備席に体操着袋を置く。別の男子が、そこにプリントの束を放り投げる。誰も、その席に誰かがいるかもしれないとは思っていない。


「ねえ、未央」


「ん?」


「去年、二年生の先輩で、霧島遠子って名前、聞いたことある?」


 未央は紙パックのストローを差しながら、少し首を傾げた。


「霧島遠子……? 聞いたことないかも。転校した人?」


 光彩は、未央の顔を見た。


 本当に知らない顔だった。悪意も戸惑いもない。ただ、聞いたことのない名前を聞いただけの顔。村井先生のときと同じだ。霧島遠子という名前は、誰かの記憶の表面に引っかかることさえ許されていない。


「昨日、落とし物のノートを拾って。名前がそれかもしれないと思って」


「ふうん。職員室に届ければ?」


「そうだね」


 会話はそこで終わるはずだった。


 けれど未央は、ふと窓際の予備席を見た。


「あれ、そういえばさ」


 光彩の指が止まった。


「なに?」


「なんであの机、ずっと置いてあるんだろうね。邪魔じゃない?」


「……予備席だからじゃない?」


「予備席って言われるとそうなんだけどさ。なんか、前からあそこに誰かいたような気もするんだよね」


 光彩は息をのんだ。


 未央は自分で言った言葉に首を傾げ、すぐに笑った。


「いや、ないか。人数合わないもんね」


「未央。今の、もう一回言って」


「ん? 何を?」


「あそこに誰かいたような気がするって」


 未央は不思議そうに瞬きをした。


「私、そんなこと言った?」


 光彩は、声を失った。


 未央は本気で覚えていなかった。ほんの数秒前、自分の口から出た言葉が、もう彼女の中に残っていない。光彩は何か言おうとしたが、教室の前方で担任が入ってきて、朝の騒がしさが一段落した。


 ホームルームが始まる。


 村井先生は、昨日職員室で光彩と話したことなど何もなかったように出席を取り始めた。名前が呼ばれ、生徒たちが返事をしていく。相原、井口、上野、江藤。声が順番に教室を渡る。


 霧島遠子の名前は、やはり呼ばれなかった。


 光彩は膝の上で手を握った。


 自分が叫べば、どうなるだろうと思った。先生、霧島さんが呼ばれていません。そう言ったら、教室はどう反応するのだろう。笑うのか。ざわつくのか。誰かが、一瞬だけ何かを思い出すのか。


 しかし、光彩は声を上げなかった。


 遠子がここにいるかもしれない。彼女は、また忘れられるところを見たくないと言った。その言葉が、光彩の喉元に手を置いていた。


 授業中も、光彩は何度か予備席を見た。


 遠子の声はしない。そこに誰かがいる気配だけが、朝よりも弱く残っている。教科書をめくる音、先生の声、チョークの走る音。日常の音が重なるほど、遠子は少しずつ奥へ押し込まれていく。光彩はノートの端に、何気ないふりをして「き」とだけ書いた。


 霧島遠子、と全部書くと消える。


 それなら一文字ならどうかと思った。


 き。


 数分後、その文字はただの書き損じの線みたいに崩れていた。


 昼休み、光彩は一人で図書室へ向かった。


 未央たちには、次の小テストの範囲を確認したいと言った。嘘ではない。図書室には去年の学校新聞が綴じられていて、文化祭や球技大会の記事に生徒の名前が載っている。霧島遠子が人気のある優等生だったのなら、どこかに名前が残っているかもしれない。


 廊下の掲示板には、今年の文化祭までの日数が大きく貼り出されていた。


 あと十日。


 色画用紙を切り貼りした大きな文字は少し斜めになっていて、その下には実行委員からのお知らせが何枚も並んでいる。体育館ステージの使用時間、展示教室の割り振り、備品貸出の締切、放送部への原稿提出期限。どの紙にも、担当者の名前やクラス名が当たり前のように書かれていた。


 文化祭が近づくほど、学校には記録が増えていく。


 パンフレットに企画名が載り、集合写真が撮られ、ステージの進行表に名前が並ぶ。教室の展示も、当日の呼び込みも、あとになれば学校新聞の記事になる。誰がそこにいたのかを残すものが、あちこちで準備されている。


 それなのに、霧島遠子の名前はどこにも残らない。


 光彩は掲示板の前を離れ、図書室へ向かった。


 図書室は静かだった。


 カウンターの奥で司書の先生が作業をしている。窓際の席では、一年生らしい女子がイヤホンを片方だけ外して参考書を広げていた。光彩は奥の棚から学校新聞のファイルを取り出し、去年の分をめくった。


 四月、入学式。五月、体育祭。七月、校内弁論大会。九月、文化祭準備。十月、文化祭。十一月、読書週間。


 紙面をめくっても、霧島遠子という文字は見つからなかった。


 文化祭の記事まで戻ったところで、光彩の指が止まった。


 去年の二年三組は、教室を使った喫茶店を出していたらしい。黒板の前で笑う生徒たちは、紙のエプロンをつけたり、手書きのメニュー表を持ったりしている。光彩の知らない顔ばかりだった。今は三年生になっているはずの先輩たちが、写真の中で明るく肩を寄せ合っている。端の方には、職員室で村井先生が言っていた田坂先生らしき男性教師も写っていた。


 その右端に、妙な隙間があった。


 誰も立っていないのに、周りの生徒たちはそこを避けるように肩の位置をずらしている。背景の黒板は見えている。貼り出されたメニュー表も、チョークで描かれた飾り文字も途切れていない。ただ、人が一人立てるだけの空白だけが、集合写真の中に不自然に残されていた。


 光彩はスマホでその写真を撮った。


 シャッター音を消せない機種だったので、静かな図書室に軽い音が響き、司書の先生が一瞬だけ顔を上げた。光彩はすみません、と小さく頭を下げ、画面を確認する。


 写っていた。


 右端の空白が、確かに写っている。


 今度こそ残るかもしれない。遠子本人ではない。遠子がいたはずの場所だ。存在そのものを写すのではなく、欠けた部分を写すのなら、消されずに済むかもしれない。


 光彩は画面を見つめ続けた。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


 写真に変化はなかった。右端の空白はそのまま残っている。光彩は胸の奥で息をついた。初めて、何かを掴んだ気がした。


 そのとき、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。


 光彩はスマホをポケットにしまい、ファイルを棚へ戻した。教室へ向かう廊下で、未央たちと合流する。未央は購買のパンが売り切れていたと文句を言い、隣の女子がそれに笑う。光彩も少し笑った。


 普通に笑えたことが、かえって後ろめたかった。


 教室に戻ると、予備席の上に置かれていた体操着袋が床に落ちていた。持ち主の男子が「あれ、落ちてる」と言って拾う。誰も気にしていない。光彩だけが、その席に目を向けた。


 遠子。


 心の中で呼んだ。


 返事はなかった。


 放課後になるまで、光彩は待つしかなかった。


 六時間目が終わり、清掃が終わり、生徒たちが部活や帰宅で教室を出ていく。昨日と同じように教室が静かになるころ、光彩は予備席の前に立った。


「遠子」


 今度は、しばらく返事がなかった。


 窓の外では雲が厚くなり、夕方の光が鈍くなっている。天気予報では夜から雨だと言っていた。校庭には湿った風が入り込み、野球部の声もいつもより早く切り上げる気配を帯びている。


「遠子」


「……いるよ」


 声は昨日より遠かった。


「大丈夫?」


「分からない。今日は、少し疲れた」


「何かあった?」


「朝、名前を呼んでくれたでしょう」


「うん」


「あれ、嬉しかった。でも、教室に人が増えると、だんだん声が出なくなった。みんなの中にいるのに、誰の中にも私はいないから。そういう場所に長くいると、自分がどこにあるのか分からなくなる」


 光彩は、何も言えずに立っていた。


 みんなの中にいるのに、誰の中にもいない。遠子の言葉は、教室の机や椅子に染み込んでいるようだった。誰かが使ったチョークの粉、消し残された板書、床に落ちた髪の毛。日常の細かな跡はこんなにも残るのに、遠子の存在だけは残らない。


「図書室で、去年の学校新聞を見た」


 光彩はスマホを取り出した。


「文化祭の記事に、変な空白があった。たぶん、遠子がいた場所だと思う。写真、撮ってきた」


「見せて」


 画面を開き、写真フォルダを表示する。


 光彩は指を止めた。


 昼休みに撮ったはずの写真が、見つからなかった。


 最新の写真は、昨日の夕飯に母が作ったオムライスだった。その前は、友達と撮った駅前の自撮り。図書室で撮った学校新聞の写真がない。削除した覚えはない。間違えて別のフォルダに入ったのかと思い、アルバムを探す。最近削除した項目にもない。


「消えた?」


 遠子の声がした。


 光彩は答えられなかった。


 スマホの中に、写真はなかった。確かに撮った。司書の先生が音に反応した。画面で空白を確認した。予鈴が鳴るまで見つめていた。その記憶は残っているのに、証拠だけがきれいに消えている。


「でも、見た。私は見たよ。右端に一人分の空白があった。周りの人が、そこだけ避けて立ってた」


 光彩は早口になっていた。遠子へ伝えるためというより、自分の記憶を逃がさないためだった。


「そこに遠子がいたんだと思う。写真には写ってなかったけど、いなかったことにもなってなかった。場所だけは残ってた」


 予備席のあたりで、遠子が何か言おうとした。


 そのとき、光彩のスマホが震えた。


 未央からのメッセージだった。


『今日の写真送るねー』


 続けて、画像が一枚送られてくる。


 光彩は何気なく開いた。


 昼休みの教室で撮った写真だった。未央と、女子数人と、光彩。たぶん未央が誰かに撮ってもらったのだろう。光彩は自分が写真を撮られたことを覚えていなかった。購買のパンが売り切れた話で笑っていたときかもしれない。


 未央たちは、ちゃんと写っていた。


 机、黒板、窓、廊下側の掲示物。何もおかしくない。いつもの二年三組の教室。


 その中で、光彩の顔だけが、ほんの少しぼやけていた。


 最初はピントが合っていないだけだと思った。隣にいる女子の顔ははっきりしている。後ろの黒板の文字も読める。光彩の制服の襟や髪の輪郭は写っているのに、顔の中心だけが水で濡らしたように滲んでいた。目元も、口元も、表情も、そこだけが曖昧になっている。


 光彩は画面を拡大した。


 自分の顔が、分からない。


 胸の奥が静かに冷えていった。遠子の証拠を探していたはずだった。遠子がいた場所を、遠子の声を、遠子の名前を残そうとしていた。消えていくのは遠子で、自分はそれを見つける側にいるのだと思っていた。


 なのに、写真の中でぼやけているのは光彩だった。


「光彩?」


 遠子が呼んだ。


 光彩は返事ができなかった。スマホの画面に映る自分の顔から目を離せない。そこにいるのに、誰なのか分からなくなっていく。ほんの少しの滲みが、これから起こることの予告に見えた。


 未央から、さらにメッセージが届く。


『ごめん、光彩の顔だけブレてた笑』


 未央から届いた文面は、いつもの調子だった。


 写真を撮り損ねたことを軽く謝っているだけで、そこに恐怖も疑問もない。光彩も普段なら、ひどいなあ、と返して終わらせていたと思う。


 光彩はその一文から目を離せなかった。


 光彩の顔だけ。


 未央は、何気なくそう書いたのだろう。実際、写真の中で滲んでいるのは光彩の顔だけだった。隣に写る未央の笑顔も、背後の黒板も、机の上に置かれた紙パックのカフェオレも、何もおかしくない。光彩の顔だけが、そこにあるはずの表情を失っていた。


 予備席の椅子が、静かに軋んだ。


「光彩、どうしたの」


 見えない少女の声が、不安そうに揺れていた。


 光彩はようやく顔を上げ、窓に映った自分の姿を見た。制服も、髪も、鞄を握る手も、そこには映っている。顔も消えてはいない。ただ、夕方の暗さを含んだガラスの中で、目元だけが少し沈んで見えた。


 写真の写りが悪かっただけだと思いたかった。


 未央が送ってきた画像の中で、自分の顔だけが滲んでいる。撮影の失敗だと言えば、それで済む程度のものだったのかもしれない。遠子の名前は紙から消え、声は録音に残らず、写真に写った空白さえ消えていった。そのあとで目にした自分の顔のぼやけ方を、偶然という言葉だけで片づけることはできなかった。


 光彩はスマホを握りしめた。


「光彩?」


 遠子の声が、不安そうに揺れた。


 光彩は答えられなかった。


 遠子のことを探していたはずなのに。


 画面の中で曖昧になった自分の顔から、どうしても目を離せなかった。


 放課後の教室に、雨の匂いが近づいていた。


FILE 03 証明行為に対する自動補正


 接触者が処理済み対象の存在を証明しようとした際、現実側に生じる補正反応について整理する。


 音声記録は無音化する。写真、動画、監視カメラ映像においては、対象者の輪郭のみが白濁、または背景情報に置換される。第三者へ口頭で説明した場合、聞き手は短時間のうちに会話内容を失念し、必要に応じて別の話題へ認識を移す。


 この処理は、対象者本人だけでなく、対象者を強く認識した接触者にも影響を及ぼす。


 水瀬光彩の個人端末内に保存されている写真データの一部に、顔部分の解像低下が確認された。異常は軽微であり、本人が見間違いとして処理できる範囲に留まっているが、過去の症例と照合した結果、初期段階の存在不安定化と判断される。


 接触者が対象者を見つけようとするほど、接触者自身の存在情報も不安定化する。


 この性質を欠陥と見るか、応用可能な反応と見るかについては、引き続き検討を要する。

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