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FILE 02『名称消去処理の進行報告』

「私の声、聞こえるの?」


 誰もいない席から、女の子の声がした。


 水瀬光彩は、ノートを胸に抱えたまま動けなかった。逃げ出したいと思うより先に、声のした場所から目を離してはいけない気がした。窓際の一番後ろ。余った机と椅子が置かれているだけの、誰のものでもない席。放課後の光が斜めに差し込み、机の天板に薄い埃を浮かび上がらせている。そこに人の姿はない。影もない。けれど、椅子の背もたれのあたりだけ、空気がかすかに揺れているように見えた。


 光彩は、喉の奥に引っかかった息をゆっくり押し出した。


「……聞こえる」


 言ってから、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。恐怖が薄いのではなく、驚きが大きすぎて感情の置き場を失っていた。廊下にはまだ生徒の気配が残っていて、校庭からは運動部の掛け声も届いている。この学校のどこかでは、いつも通りの放課後が続いている。その中で自分だけが、誰もいない席に向かって返事をしていた。


 椅子が、わずかに軋んだ。


「本当に、聞こえてるの?」


「聞こえてる。……あなた、そこにいるの?」


 問いかけると、少し間が空いた。答えを探しているような沈黙だった。


「いる、と思う」


「思う?」


「自分では、ここにいるつもりなの。でも、誰にも見えない。声も届かない。文字を書いても、すぐ消える。だから、もう自分でも分からなくなるときがある」


 その声は、ひどく近くにあった。耳元ではない。教室の奥、予備席のあたりから確かに聞こえている。音の位置が分かるということが、かえって光彩を落ち着かなくさせた。見えないものは遠くにいてほしい。形のない声が、机一つぶんの距離に座っている。そう思うだけで、指先から体温が引いていく。


 光彩はノートを開いた。


 真ん中のページに残された「私を見つけて」という文字は、さっきよりも薄くなっている気がした。鉛筆で書かれた線が紙に沈み、黒鉛だけが少しずつ粉になってこぼれていく。目の錯覚だと思いたかったが、ページを傾けると、文字の縁が頼りなく崩れていた。


「これ、あなたが書いたの?」


「うん。何回も書いた」


「何回も?」


「誰かが拾ってくれるまで。拾っても、読まれる前に消えたり、読んでも忘れられたりした。机から落とすのも、すごく時間がかかったの。物を動かすの、前より難しくなってる」


 前より、という言葉が耳に残った。


 光彩は予備席を見つめた。机の上には何もない。椅子の座面にも、人間が作るような沈みはない。そこに誰かが座っていると信じるには、目に入る情報があまりにも足りなかった。それでも声は、光彩の問いに答えている。ためらい、息をのみ、言葉を選びながら、そこにいる。


「名前は?」


 光彩が聞くと、見えない少女は急に黙った。


 言ってはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。光彩は少しだけ後悔した。名前なんて、最初に聞くには当然のことだと思っていた。相手は普通の相手ではない。どうして見えないのか、なぜ黒板に文字を浮かべたのか、そもそも人なのか。分からないことばかりの中で、名前だけが簡単に差し出されるとは限らない。


 やがて、少女はかすれた声で言った。


霧島遠子(きりしまとおこ)


 きりしま、とおこ。


 光彩は心の中でその音を繰り返した。聞き覚えはない。けれど、知らない名前だと決めつけるには、どこか引っかかる響きがあった。学校の廊下で一度くらいすれ違っていてもおかしくない。プリントの端に名前だけ見たことがあるかもしれない。そんな曖昧な既視感が、すぐに形を失って消えていく。


「……霧島、遠子さん」


 口に出した瞬間、予備席の空気が震えた。


「もう一回、呼んで」


 光彩は、ノートを持つ手に力を込めた。


「霧島遠子さん」


 見えない少女が息をのむ音がした。泣いているのかと思ったが、すすり泣きは聞こえない。ただ、長いあいだ水の底に沈んでいた人が、ようやく水面に顔を出したような、そんな呼吸だった。


「ノートの表紙を、見て」


 言われるまま、光彩は抱えていたノートの表紙へ視線を落とした。


 拾ったとき、名前を書く欄は空白だった。誰のものか分からないから職員室に届けるしかないと、そう考えたことも覚えている。


 その空白に、いつの間にか文字があった。


 霧島遠子。


 細く、頼りない筆跡だった。「私を見つけて」と同じ字に見える。さっきまで確かに何も書かれていなかったはずの場所に、名前だけが置き去りにされたように浮かんでいた。


「……さっきまで、なかったのに」


 光彩は息を止めた。


 文字は、光彩が見ている前で薄くなり始めた。霧の字の細い線がほどけ、島の輪郭が紙の色へ沈み、遠のしんにょうがかすれていく。光彩は、消えていく名前を目で追った。読み逃せば、そのまま二度と拾えなくなる気がした。


「私の名前、消えてなかった?」


「消えかけてる。でも、読めた」


「そっか」


 その短い返事に、あまりにも多くのものが入っていた。喜んだのか、安心したのか、それともまた消えていくことを確かめてしまったのか、光彩には分からなかった。ただ、予備席のあたりに張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


 光彩は、表紙に残った名前の跡へ視線を落とした。


 さっきまで確かにあった四文字は、もうほとんど読めなくなっていた。それでも、そこに何かが書かれていたことだけは分かる。紙の白さに沈みきれなかった筆圧が、かすかな凹みとなって指先に残っていた。


 名前を聞けば、相手は少しだけ現実に近づく。少なくとも光彩はそう思った。見えない声にも名前がある。名前があるなら、探すことができる。先生に聞けばいい。名簿を見ればいい。学年が違っても、在籍していた生徒なら記録は残っている。放課後の教室で起きたことを全部説明する必要はない。忘れ物の持ち主を探している、と言えば済む。


「霧島さんは、この学校の生徒?」


「生徒だった」


「だった?」


「一年前まで、ここにいた。二年三組。窓際の一番後ろが、私の席だった」


 光彩は、無意識に予備席を見た。


 余った机。誰のものでもない席。年度初めからずっとそこに置かれていた、何となく片づけられなかった机。


 私の席だった、と遠子は言った。


「でも、この席は……」


 言いかけて、光彩は言葉を飲み込んだ。予備席だよ、と続けるのは簡単だった。けれど、その一言を口にした瞬間、遠子が何かを失ってしまう気がした。


 遠子の声は静かだった。


「みんな、そう言うの。誰も使っていない席だって。最初から余っていた机だって。先生も、クラスの子も、掃除当番の子も、同じ顔でそう言う。私が座っていたことなんて、最初からなかったみたいに」


「転校した、とかじゃなくて?」


「転校したことになってるなら、まだよかった」


 遠子は少しだけ笑った。笑ったように聞こえた、という方が近いかもしれない。声の端に、乾いたものが触れていた。


「転校生として覚えられているなら、私はどこか別の場所に行った子になれる。でも、そうじゃない。私の名前は、どこの名簿にも残ってない。先生に聞いても、生徒に聞いても、みんな思い出せない。私のことを忘れてるんじゃないの。忘れたことにも気づいてない」


 光彩は返事を探した。


 それはどんな感覚なのだろう、と考えてしまった。クラスで名前を呼ばれない日が続く。自分の机が予備席と呼ばれる。笑い合った相手が、こちらを見ても目を止めない。過去に自分がいた場所から、自分だけが丁寧に切り抜かれていく。その喪失を想像した瞬間、光彩は喉元を指で押さえたくなった。


「確認してみる」


「やめて」


 遠子の声が、初めて強くなった。


 光彩は動きを止めた。


「先生に聞くの?」


「うん。名前だけなら、職員室で聞けると思う」


「やめて。お願いだから」


「どうして?」


「忘れられるところを、また見ることになるから」


 その言い方に、光彩は目を伏せた。


 見えない相手を相手にしているのに、目を合わせられないと感じたのは妙だった。遠子の声は震えている。さっき黒板に浮かんだ「お願い」という二文字と同じ震え方だった。


「でも、確認しないと分からない」


「分からないままでいてくれた方がいい」


「それだと、霧島さんのことを助けられない」


 言葉にしてから、光彩は自分で少し驚いた。


 助ける。そんな大きなことを言うつもりはなかった。ノートを拾っただけで、声が聞こえただけで、何ができるのかも分からない。それでも、見つけてと書かれたノートを抱えている以上、聞こえなかったことにはできなかった。


 遠子は黙ってしまった。


 光彩は鞄を取り、自分の机に置いていたペンケースを掴んだ。職員室へ行く前に、一つだけ試したいことがあった。日誌に使っていたシャーペンを取り出し、さっき消えていった四文字を思い出しながら、ノートの空いたページに名前を書く。


 霧島遠子。


 書き終えた瞬間は、普通の文字だった。紙の上に黒い線が残っている。光彩の字は癖が少ない。細くて、少しだけ右上がり。小テストの答案でも、先生に読みやすい字だと言われたことがある。


 その文字が、数秒後、ふっと薄くなった。


 消しゴムをかけたわけではない。紙を擦ったわけでもない。黒鉛が内側から乾いていくように、線の濃さだけが失われていく。光彩は息を止めて見つめた。霧、島、遠、子。漢字の細い線から順に、紙の色へ沈んでいく。


 やがて、そこには何も残らなかった。


 光彩はページに指を這わせた。筆圧の跡だけが、かすかに指先へ触れる。目には見えないのに、紙の表面にはまだ確かに名前の形があった。光彩はもう一度、今度は強く書いた。芯が折れそうになるほど力を込めた。


 霧島遠子。


 文字はまた消えた。


 今度は最初より早かった。まるで、同じ名前を許さない何かが、こちらの動きを覚えたみたいだった。


「ね」


 遠子の声が、ひどく小さく聞こえた。


「言ったでしょう」


 光彩は何も言えなかった。


 手の中のシャーペンが、急に頼りないものに見えた。文字にすれば残る。写真を撮れば残る。録音すれば残る。いつも当たり前に信じていたものが、いま目の前で役に立たなくなっている。人が存在した証拠を、紙も、文字も、光彩の手も守れない。


 それでも、彼女はノートを閉じなかった。


「職員室に行く」


「水瀬さん」


「名前が消えるのは見た。でも、先生に聞けば何か分かるかもしれない。去年の二年三組なら、担任だった先生とか、記録とか、絶対に残ってるはずだから」


 自分に言い聞かせるための言葉だった。


 遠子は少しのあいだ黙っていたが、やがて諦めたように言った。


「……私、ついていけないかもしれない」


「教室から出られないの?」


「出られる日と、出られない日がある。今日は、たぶん無理。ノートを落として、文字を書いて、声を届けたから。これ以上動くと、私がどこにいるのか、自分でも分からなくなりそう」


 何をどれだけすると、何ができなくなるのか。遠子自身にも分かっていないようだった。光彩は扉の方を見た。廊下の空気はもう夕方の色になっている。早くしないと、先生たちも会議に入るかもしれない。


「すぐ戻る」


「戻ってきてくれるの?」


 遠子の声に、光彩は振り返った。


 見えない少女が、本当にそこにいるのなら、いまどんな顔をしているのだろう。疑っているのか、縋っているのか、もう期待することに疲れているのか。光彩には分からない。分からないから、軽い約束にはしたくなかった。


「ノート、持っていく。だから戻るよ」


 そう言うと、予備席のあたりから小さな息が聞こえた。


「うん」


 光彩は教室を出た。


 廊下には、さっきまでの放課後の気配が薄く残っていた。窓の外では陸上部がグラウンドを走り、下駄箱の方からは帰宅する生徒たちの笑い声がする。光彩はノートを抱えたまま、職員室へ向かった。歩いているあいだ、何度もページを開きたい衝動に駆られた。そこに残っていたはずの「私を見つけて」という文字まで消えていたらどうしよう、と思った。


 職員室の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。


 変に思われない聞き方を考えた。放課後の教室で見えない女の子の声を聞きました、とは言えない。そんなことを口にした瞬間、先生は心配そうな顔をするだろう。保健室へ連れて行かれるかもしれない。家に連絡されるかもしれない。


 光彩は扉をノックし、失礼します、と声をかけた。


 職員室の中は、紙とコーヒーと冷房の匂いが混ざっていた。先生たちはそれぞれの机に向かい、採点をしたり、パソコンに向かったりしている。奥では誰かが電話で保護者と話していた。いつもの職員室だった。その日常の中に入った瞬間、さっきまでの出来事が急に夢のように遠のきかけた。


「水瀬、どうした?」


 担任の村井先生が、机から顔を上げた。三十代半ばの、いつも少し眠そうな目をした国語教師だ。怒るときも声を荒げず、褒めるときも大げさにしない。光彩はその距離感が苦手ではなかった。


「すみません。ちょっと聞きたいことがあって」


「日誌なら、あとで見るけど」


「日誌じゃなくて、生徒のことで」


 村井先生はペンを置いた。


「誰かトラブルか?」


「そういうのじゃないです。去年、この学校にいた人を探していて」


「名前は?」


 光彩はノートを抱える腕に力を込めた。


「霧島遠子さん、です」


 村井先生の表情が、そこで止まった。


 ほんの一瞬だった。驚いたというより、聞こえた音を頭の中でうまく処理できなかったような顔だった。先生の視線が光彩から少し外れ、机の上の書類へ落ちる。ペン立て、出席簿、湯飲み、赤ペン。目の前にあるものを順番に確認しているように見えた。


「きりしま……?」


「霧島遠子さんです。一年前まで、二年三組にいたって」


「二年三組?」


 先生は椅子に座り直し、パソコンの画面へ向かった。キーボードを何度か叩く。光彩はその指先を見ていた。名前を検索している。そう思うだけで、胸の奥が強く鳴った。これで何か出てくれば、少なくとも遠子の言葉は現実につながる。


 画面を見つめていた村井先生の眉が、わずかに寄った。


「霧島、霧島……いや、該当なしだな」


「去年の名簿にもないですか?」


「ちょっと待てよ」


 先生は棚から古いファイルを取り出した。背表紙に去年の学年名が書かれている。光彩は思わず一歩近づいた。先生がページをめくる音が、妙に大きく聞こえた。


「去年の二年三組は……担任が田坂先生か。名簿はこれだな」


 先生は、去年の二年三組の名簿を開いた。指が紙の上を滑っていく。


 久我、倉持、黒崎、小坂。名前が五十音順に並んでいる。光彩は先生の肩越しに、紙面を追った。霧島。き、の段。そこにあるはずの名前。


 なかった。


 霧島遠子という文字は、どこにも見つからなかった。


「水瀬、どこでその名前を聞いた?」


「あ……えっと、落とし物のノートに」


「ノート?」


「名前は書いてなかったんですけど、その、持ち主かもしれないと思って」


 嘘ではなかった。本当のことを話しているわけでもなかった。光彩は、自分の声が少しだけ不自然になっているのを感じた。村井先生はファイルを閉じ、首を傾げる。


「霧島遠子、か。聞いたことがあるような……いや、ないな。うちの学校じゃないんじゃないか?」


「でも、二年三組にいたって」


「誰が?」


 その問いに、光彩は口を開きかけた。


 霧島遠子、と答えればいい。


 その瞬間、職員室の空気が一枚薄くなるような感覚があった。先生の目から、さっきまでの疑問がゆっくり抜けていく。光彩の話を聞いていたはずの顔が、普段の職員室に戻っていく。


 村井先生は、手元のプリントを見た。


「あれ。水瀬、何の用だったっけ」


 光彩は、背中に汗が滲むのを感じた。


「今、霧島遠子さんのことを」


「霧島?」


 村井先生は本当に初めて聞いたような顔をした。


「生徒か?」


「今、先生が名簿を見てくれて」


「そうだったか?」


 先生は困ったように笑い、閉じたばかりのファイルに視線を落とした。その表情には、取り繕っている様子がなかった。からかっているのでも、隠しているのでもない。今この瞬間、村井先生の中から、霧島遠子についての会話そのものが抜き取られていた。


 光彩は、ノートを抱きしめた。


「すみません。たぶん、私の勘違いでした」


「そうか? 具合悪いなら保健室行けよ。顔色、少し悪いぞ」


「大丈夫です。失礼しました」


 職員室を出るとき、光彩は振り返らなかった。


 廊下に出た途端、足の力が抜けそうになった。壁に手をつき、呼吸を整える。外から聞こえていた部活動の声が、今はひどく遠い。校舎の廊下は夕方の色に沈み、窓ガラスには光彩の姿が薄く映っている。制服を着た女子高生が一人、ノートを抱えて立っている。


 ちゃんと映っている。


 それを確認してしまった自分に、光彩はぞっとした。


 教室へ戻るまでの道のりは、いつもより長く感じた。二年三組の前に着くと、扉は開けたままになっていた。中に入る前から、窓際の予備席が見える。そこにはやはり誰もいない。


 光彩が教室に入ると、遠子の声がすぐにした。


「おかえり」


 その一言に、光彩は胸を衝かれた。たった十分ほど離れていただけなのに、遠子にとっては違ったのかもしれない。戻ってくると言われて、本当に戻ってきた人間がどれくらいいたのか。そんなことを考えてしまう。


「先生、忘れてた」


 光彩は予備席の前で立ち止まった。


「名前を聞いて、名簿を見て、該当なしって言って、そのあと、何の話をしていたか忘れてた。私が目の前にいたのに、本当に分からない顔をしてた」


「……そう」


「去年の名簿にも、霧島さんの名前はなかった。ノートに書いた名前も消えた」


 遠子の返事は静かだった。悲しむ余力も尽きているような静けさだった。


 光彩はノートを開いた。さっき自分が書いたページには、やはり何も残っていない。霧島遠子という名前の跡だけが、斜めから光を当てるとかすかに浮かぶ。見える、というより、紙の凹みを目が拾っているだけだった。


「これ、どうして起きるの」


「分からない」


「誰かに何かされたの?」


 遠子は、すぐには答えなかった。


 教室の時計が四時五十八分を指している。放課後のざわめきは、もうだいぶ遠くなっていた。吹奏楽部の音は合奏に変わり、廊下を通る生徒の数も減っている。二年三組の教室だけが、学校の時間から少し取り残されているようだった。


「ねえ、水瀬さん」


「光彩でいいよ」


 口にしてから、光彩は少し恥ずかしくなった。けれど、遠子に苗字で呼ばれ続けるのは急によそよそしく感じたのだ。名前を呼ばれることに、いまは意味がある気がした。


 遠子は戸惑ったように沈黙し、それから丁寧に呼んだ。


「光彩」


「うん」


「私のこと、見えてる?」


 光彩は予備席を見た。


 椅子の上には何もない。夕方の光が床に伸び、机の脚が細い影を作っている。人の輪郭も、制服の色も、髪の揺れもない。そこにいると分かっても、目は何も捉えられなかった。


「見えない」


「そっか」


「でも、声は聞こえる。ノートも読めた。そこにいるのも、たぶん分かる」


「それだけで十分だよ」


 十分、という言葉の軽さが、かえって痛かった。


 光彩はノートの消えたページを見つめた。遠子の名前は、もうどこにも書かれていない。出席簿にも、名簿にも、先生の記憶にも、クラスの席にも。けれど光彩の頭の中には残っている。霧島遠子。何度も繰り返す。消えないように、まだ誰かの名前でいられるように。


 遠子が、ゆっくりと言った。


「私、透明になったんじゃないと思う」


 光彩は顔を上げた。


「みんな、見えないなら透明なんだって言うかもしれない。でも透明なら、そこにいることくらいは分かるでしょう。光に透けても、触ればいる。ガラスだって、窓だって、そこにあることは誰かが知ってる」


 遠子の声は、途中で少しだけ震えた。


「私は、そういうのとは違う。姿が見えないだけじゃない。名前も、席も、写真も、誰かと話した時間も、少しずつなくなっていく。私を覚えていた人たちが、私を忘れるんじゃなくて、私がいた場所ごと、最初から空白だったことにされていく」


 光彩は声を出せなかった。


 言葉を足せば、遠子の声を邪魔してしまう気がした。


「私、透明になったんじゃない」


 予備席の椅子が、小さく鳴った。


「世界から、消されてるの」


 そのとき、光彩の手元で、ノートのページがひとりでに震えた。


 風は吹いていない。窓は閉まっている。けれど紙は、見えない指に撫でられたようにめくれ、最初に「私を見つけて」と書かれていたページで止まった。


 光彩は息をのんだ。


 あの文字が、消えかけていた。


 私を見つけて。


 その一文が、端から白く欠けていく。紙に吸い込まれるように、助詞が消え、線が途切れ、最後に「私」という文字だけが残った。光彩は思わずページを押さえた。消えないで、と声に出しそうになった。


 しかし、文字は光彩の指の下で薄れていった。


 最後に残った「私」も、ゆっくりと紙の白さに沈んだ。


 ノートには、何も書かれていなかった。


 光彩は真っ白なページを見つめたまま、遠子の名前を心の中で何度も呼んだ。


 霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子、霧島遠子。


 忘れないためではなく、消えていくものに追いつくために。


 放課後の教室で、見えない少女の声が小さく言った。


「光彩」


「……なに」


「私の名前、まだ覚えてる?」


 光彩は、消えたページから目を離さずに答えた。


「覚えてる」


 その言葉を口にした瞬間、教室の黒板に、白い線が一本だけ浮かんだ。


 それは文字になる前に崩れ、チョークの粉のように床へ落ちた。


 遠子は何も言わなかった。


 光彩は、ノートを閉じることができなかった。

FILE 02 名称消去処理の進行報告


 霧島遠子に関する名称情報の除去は、おおむね安定している。


 出席簿、成績管理表、保健室利用記録、図書貸出履歴、校内写真データからの削除は完了。催事記録および学級新聞に残存していた顔部分の白化処理も自動補正により終了した。これにより、学校内における霧島遠子の在籍証明は、現在確認できる限り消滅している。


 一方、名称のみを紙面上に再記録した場合、筆跡の濃度に関係なく数分以内に欠落する現象が継続している。これは補正処理による後追い修正が機能しているためと考えられるが、手書き文字に残る筆圧痕までは完全に消去できていない。


 存在を消すことと、存在していた跡を消すことは同義ではない。


 上記の差異について、理事長は「実用上の問題なし」と判断したが、研究班内では複数名が懸念を示している。


 人間は記録だけで構成されるものではない。記録から消えても、誰かが名前を呼ぼうとした瞬間、欠落そのものが対象の存在情報となって浮上する場合がある。

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