FILE 01『余剰座席に関する観察記録』
透明人間(とうめいにんげん、Invisible Man)とはフィクションに登場する、肉体が透明で、姿を見ることができない人間のこと。一見似ている幽霊やゴーストとは多くの場合全く別の存在である。
――Wikipedia「透明人間」の項より引用。
誰もいないはずの席から、ノートが落ちた。
その音に気づいたとき、放課後の教室に残っていたのは水瀬光彩だけだった。
十月のはじめ。夏の名残はまだ窓際に薄く残っていたが、放課後の風にはもう秋の匂いが混じっていた。校庭の端では、文化祭の準備で使うらしい角材や段ボールが積まれ、帰り支度を終えた生徒たちの声が廊下の向こうへ流れていく。部活動へ急ぐ足音、階段を駆け下りる男子の笑い声、どこかの教室で椅子を引く音。そうしたものが少しずつ遠ざかっていくたびに、二年三組の教室は、昼間とは別の場所みたいに静かになっていった。
光彩は教卓の前で、学級日誌に今日の出来事を書いていた。
天気、晴れ。欠席者、一名。連絡事項、来週の小テスト範囲を確認すること。
それだけ書けば終わるはずなのに、担任の村井先生は「今日のクラスの様子」と一言、余計な欄を作っていた。
真面目に書きすぎると先生に気に入られようとしているみたいだし、雑に済ませると日直の相方に悪い。光彩はペン先を止めたまま、クラスの様子、という曖昧な言葉の前で少しだけ迷っていた。
教室は平和だった、と書くには、昼休みに男子が消しゴムを投げて女子に怒られていた。落ち着いていた、と書くには、五時間目の英語で三人も当てられて沈黙していた。特に問題ありません、と書けば無難だけれど、それはそれで少し投げやりに見える気がする。
光彩はペン先を浮かせたまま、教室を見回した。
後ろの棚には、誰かが置き忘れた色画用紙が少しだけはみ出している。昼休みに揉めていた男子たちは、帰り際にはもう笑い合っていた。英語で当てられて固まっていた女子は、授業が終わるとすぐ隣の子にノートを見せてもらい、先生に見つからないよう小さく舌を出していた。
そういう細かなことばかり、光彩はよく覚えている。
だからといって、それを日誌に書くわけにはいかない。誰かの失敗をわざわざ残す必要もないし、笑って済んだことを「問題」として差し出すのも違う気がした。迷った末に、光彩はいつものように角の立たない言葉を選んだ。
本日も大きな問題はありませんでした。
ペンを置いたところで、廊下側の扉から顔を出した女子がいた。
「光彩、まだいたの?」
同じクラスの相原未央だった。肩に通学鞄をかけ、片手には購買で買ったらしい紙パックのカフェオレを持っている。廊下の向こうから「未央、先行くよ」と声が飛ぶと、未央は「あとで追いつく」と振り返りもせずに返した。
そういう返事の仕方が、彼女にはよく似合っていた。
「日誌。もう終わったから帰るよ」
「そっか。今日、駅前寄るけど来る?」
誘い方は軽かった。本当に来てほしいというより、光彩がまだ教室にいたから声をかけた。それが分かるから、光彩も軽く断る。仲は悪くない、という言い方が一番しっくりくるくらいの関係だった。普通に話すし、頼まれればノートも見せる。けれど、放課後に駅前へ寄る約束を交わすほど近くはなかった。
「今日はいいかな。ちょっと家でやることあるし」
「了解。じゃあね」
「うん、また明日」
未央は手を振って、すぐに廊下の向こうへ行ってしまった。その背中を見送ってから、光彩は日誌を閉じ、教卓の中にしまった。
教室の時計は、四時二十七分を指している。
日直の仕事は終わった。帰ればいい。そう思って自分の席へ向かい、机の横に掛けていた鞄を取ろうとしたときだった。
こつん、と小さな音がした。
大きな音ではなかった。誰かが廊下で物を落とした音なら聞き逃していたかもしれないし、教室に何人も残っていたなら、椅子の脚が床を擦る音に紛れていただろう。そのときの教室には、光彩一人しかいなかった。だから余計に、その音だけが妙にはっきりと耳に残った。
光彩は振り返った。
窓際の一番後ろ。席替えのたびに誰の席にもならない机が一つ、そこに置かれていた。
二年三組の生徒数は、机の数より一つ少ない。年度初めに余った机を片づける場所がなく、なんとなく窓際の後ろに置かれたままになっているのだ。普段は誰かの荷物置きになったり、プリントを配るときの仮置き場になったりする。教室ではそれを、予備席と呼んでいた。
その予備席の横に、一冊のノートが落ちていた。
光彩はすぐには動かなかった。
誰かが置き忘れたのだろう、と最初は思った。けれど、さっきまでその席には何もなかった。日誌を書きながら教室全体を何度か見ていたし、未央が顔を出したときも、廊下側にいた彼女が窓際まで来ることはなかった。
窓は閉まっている。風で落ちた可能性もない。
光彩は鞄から手を離し、ゆっくりと予備席へ近づいた。
ノートは、机の脚に寄りかかるようにして床に落ちていた。表紙は淡い水色で、角が少し潰れている。どこにでも売っていそうな大学ノートだった。名前を書く欄はあるのに、そこには何も書かれていない。
拾い上げた瞬間、指先に紙の冷たさが移った。
誰かの忘れ物なら、職員室に届ければいい。そう考えながらも、光彩は表紙から目を離せなかった。理由は分からない。ただ、そのノートが落ちていた場所にだけ、教室の静けさが集まっている気がした。
光彩は、予備席の机の中をのぞき込んだ。
空だった。
教科書も、プリントも、落書きされた消しゴムのかけらもない。誰も使っていない机らしく、そこには薄く埃が溜まっているだけだった。机の上にも何もない。椅子はきちんと収められていて、さっきまで誰かが座っていた気配など、あるはずがなかった。
それなのに、ノートは落ちた。
光彩は唇を引き結んだまま動けなかった。
胸の奥で、何かが小さく引っかかっている。音の正体が分からないからではない。ノートが落ちたことそのものより、さっきまで空っぽだったはずの場所を、自分が当然のように見過ごしていたことが妙に気になった。教室の隅に、最初からそこにあったものではなく、今この瞬間だけ紛れ込んだものが置かれている。そんな感覚が、ゆっくりと背中を冷やしていった。
光彩は人の変化に気づきやすい。
朝は機嫌が悪そうだった子が、昼休みには少しだけ明るくなっていたこと。いつもなら真っ先に冗談を言う男子が、今日は会話の輪から少し外れて窓の外を見ていたこと。未央がさっき、誘いを断られても特に残念そうではなかったこと。そういう小さな違和感は、気にしてなくても勝手に目に入る。
今、光彩の前にある違和感は、人の表情や声とは違っていた。
誰もいない席から、物が落ちた。
それだけのことが、説明できない。
光彩はノートを持ったまま、しばらく予備席の前に立っていた。廊下では、誰かが「鍵、閉めるぞ」と言っている。遠くで吹奏楽部の音出しが始まり、まだ揃わない金管楽器の音が、校舎の壁にぶつかって薄く響いた。
自分でも馬鹿みたいだと思いながら、光彩は小さく声を出した。
「……誰か、いる?」
返事などあるはずがない。
教室には誰もいない。そう思った瞬間、自分の声が妙に子どもっぽく聞こえて、光彩は少しだけ恥ずかしくなった。実際、幽霊なんて非科学的だと今でも思っている。誰もいない場所に向かって声をかけた事実は、冷静になればなるほど居心地が悪かった。
咳払いをひとつして、光彩はノートを開いた。
一ページ目は白紙だった。
二ページ目も、三ページ目も、何も書かれていない。新しいノートに見えるのに、表紙だけは少し古びている。持ち主の名前も、教科名も、落書きもない。光彩はページをめくる指を早めた。
そして、真ん中あたりで手が止まった。
そこだけ、文字があった。
鉛筆で書かれたような、細く、頼りない字だった。強く書いたところは紙に跡が残り、途中で震えたのか線が何度か乱れている。古い文字ではない。むしろ、たった今書かれたばかりのように見えた。
光彩は、そこに書かれていた一文を読んだ。
――私を見つけて。
背筋に、冷たいものが触れた。
教室の中で、時計の針だけが動いていた。秒針が一つ進むたびに、さっきまで当たり前だったはずの風景が、少しずつ知らないものへ変わっていく。黒板、机、椅子、掲示板、掃除用具入れ、窓際の予備席。毎日見ているものばかりなのに、その全部が急によそよそしく見えた。
光彩はページから目を離せなかった。
私を見つけて。
たった五文字と助詞一つの文が、冗談や悪戯にしては切実すぎた。誰かが光彩を驚かせるために仕込んだのだとしたら、もう少し分かりやすく笑える形にするはずだ。幽霊のふりをするなら赤いペンで書くかもしれないし、誰かの名前を入れるかもしれない。
この字には、そういう余裕がなかった。
光彩は喉の奥が乾くのを感じながら、もう一度、教室を見回した。机の列の間には誰もいない。カーテンの影にも、教卓の下にも、人が隠れられる隙間はない。
予備席だけが、そこにある。
光彩はノートを閉じようとして、できなかった。もし閉じてしまったら、この文字を見なかったことにして帰ることになる。職員室に届けるだけなら簡単だ。忘れ物です、と言えばいい。先生は中身を見て、名前がないならしばらく保管するだろう。明日になれば、光彩もこの出来事を冗談みたいに誰かに話せるかもしれない。
そのとき光彩はなぜか思った。
このノートは、誰かに届けられることを望んでいるのではない。
見つけてほしい、と言っている。
光彩は無意識に、ノートの空いた行に指を置いていた。紙の表面に、鉛筆の跡がわずかに凹んでいる。消えそうな文字なのに、触れると確かにそこにある。
「見つけてって……誰を?」
さっきよりも小さな声だった。
光彩自身、自分が返事を期待していたのかどうか分からなかった。口に出してしまったあとで、また馬鹿なことをしたと思った。教室の奥で、ロッカーの金具がわずかに鳴る。校庭から、運動部の掛け声が聞こえる。世界はいつも通りに続いている。
その中で、光彩の手元のノートだけが、違う場所につながっているようだった。
帰ろう。
今度こそ、光彩はそう決めた。
ノートは職員室に届ける。余計なことは考えない。誰かの悪戯かもしれないし、本当に困っている誰かのものなら、先生がどうにかしてくれる。光彩が一人で抱え込む理由はない。
彼女はノートを閉じ、鞄を取りに自分の席へ戻った。
その途中で、ふと足が止まった。
黒板の右端に、見覚えのない白い線があった。
授業中の板書を消し忘れたものではない。日直の仕事を終えたあと、光彩は黒板を全部きれいにした。チョークの粉が残らないよう、黒板消しを何度も動かしたはずだった。
その黒板に、文字が浮かんでいた。
最初は、掠れた線にしか見えなかった。光彩が目を凝らしているうちに、白い粉が集まるように少しずつ形を作っていく。見えない指が黒板をなぞっているみたいに、横線が伸び、縦線が落ち、かすかな丸みを帯びて、一文字ずつ現れた。
光彩は声を出せなかった。
黒板に書かれたのは、ノートと同じ言葉だった。
私を見つけて。
手の中のノートが、急に重くなった。
逃げなきゃ、と頭のどこかで思った。廊下に出て、先生を呼んで、誰かにこの教室を見てもらえばいい。そうすれば、自分が見ているものが現実なのか、そうでないのか分かる。
それでも、足は動かなかった。
黒板の文字の下に、もう一行が増えていく。
お願い。
その三文字を見た瞬間、光彩の中にあった恐怖とは別の感情が、かすかに形を持った。
見ないふりをしてはいけない。
そう思った理由は、光彩にも分からない。普段なら、誰かが困っていても、まず周囲を見てから動く。自分が出すぎていないか、相手は本当に助けを求めているのか、あとで面倒なことにならないか。そうやって一度立ち止まるのが、光彩という人間だった。
それなのに、黒板に浮かんだ「お願い」という文字だけは、光彩の胸の奥にまっすぐ届いた。
声に出せないまま飲み込んだ言葉が、どんな形で残るのかを、彼女はたぶん知っていた。誰かに気づいてほしいのに、自分から助けてとは言えない。その苦しさを、まったく知らないものとして通り過ぎることはできなかった。
光彩はノートを両手で持ち直し、予備席の方へ向き直った。
椅子には誰も座っていない。机の上にも何も置かれていない。けれど、そこだけが教室の中で妙に遠く、同時に近かった。
「……いるなら、返事して」
言葉のあとに、沈黙が落ちた。
実際には数秒だったのかもしれない。それなのに光彩には、もっと長く感じられた。時計の秒針が進む音さえ遠のき、廊下の声も、校庭から届く掛け声も、厚い壁の向こうへ押しやられたように薄れていく。
予備席の椅子が、ほんの少しだけ軋んだ。
光彩は息を止めた。
椅子には誰も座っていない。目に映るものは何もない。それなのに、確かに誰かがそこにいると分かった。視線でも、気配でも、音でもない。もっと頼りなく、名前をつけようとすると崩れてしまいそうな何かが、机と椅子のあいだに残っていた。
次の瞬間、教室の奥の空気がかすかに震えた。
「……聞こえるの?」
消え入りそうな女の子の声だった。
光彩はノートを抱えたまま、誰もいない席を見つめていた。声はもう一度、今にも泣き出しそうな響きで問いかけてくる。
「私の声、聞こえるの?」
答えようとしても、喉が強張ってうまく声にならなかった。手の中ではノートの角が指の腹に食い込み、黒板にはまだ「私を見つけて」の文字が残っている。窓際の予備席だけが、夕方の教室の中で妙に暗く見えた。
声の主は、それ以上何も言わなかった。
光彩は息を吸い直し、誰もいない席を見つめたまま、ようやく小さく頷いた。
FILE 01 余剰座席に関する観察記録
二年三組の窓際最後列に配置された未使用机について、対象者からの反応を確認した。
当該座席は、本来であれば教室内の備品整理時に撤去される予定であったが、記憶補正処理後も複数の生徒が「そこに机があること」自体には違和感を示さなかった。これは存在情報を除去された対象の周辺物のみが、社会的風景の一部として残留する可能性を示している。
ただし、水瀬光彩のみ、当該座席を視認した際に数秒間の注視を行った。
水瀬光彩は席の所有者を問う発言こそしなかったものの、視線の滞留、呼吸数の上昇、帰宅行動の遅延が確認されている。本人は自覚していないが、処理済み対象の痕跡に対して通常より高い感受性を示す。
同生徒が接触者となる可能性については、引き続き観察を要する。
なお、処理済み対象が筆記具を介して外部へ意思表示を試みる事例は、今回が初めてではない。




