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FILE 07『最終観測記録』

 文化祭当日の朝、校門の上には、色画用紙で作られた歓迎の文字が揺れていた。


 夜のうちに降った雨は上がっていた。雲の切れ間から差し込む光が、濡れたアスファルトに淡く反射している。正門の前では実行委員の生徒たちが来場者用の案内板を立て、受付の机にはパンフレットの束と、まだインクの匂いが残る校内地図が並べられていた。校舎の窓にはクラスごとの飾りが貼られ、廊下には模造紙のポスターが何枚も連なっている。


 学校全体が、誰かに見られるための場所になっていた。


 光彩は、その門をくぐる前に足を止めた。


 制服のポケットに入れたスマホが、朝から何度も震えている。未央からは、クラスの受付シフトを確認するメッセージが届いていた。ただ、その文面の中で、光彩の名前は一度も出てこなかった。


『今日、受付って何時からだっけ?』


『誰か知ってる?』


 クラスのグループに流れてきたメッセージを見て、光彩はしばらく指を止めていた。


 昨日までなら、そこには自然に名前が入っていたはずだった。光彩、今日の受付何時だっけ。光彩、先に教室行ってるね。そんなふうに何気なく呼ばれていた言葉が、会話の中から少しずつ抜け落ちている。誰かが意地悪をしているわけではない。むしろ、そのことに誰も気づいていないからこそ、胸の奥が静かに冷えていった。


 母も同じだった。


 玄関で光彩を見送るとき、母は少し困った顔をしていた。いってらっしゃい、と言い、傘はいらないと思うよ、とも言った。いつもなら何気なく添えられるはずの名前だけが、最後まで出てこなかった。


 光彩は校門の前で立ち止まり、ポケットの中の小さなメモを握った。


 水瀬光彩。


 朝起きてすぐ、自分で書いた名前だった。消えたら困ると思って油性ペンで何度もなぞったのに、家を出るころにはもう、文字の端が薄くなっていた。


 それでも、まだ読める。


 読めるなら、まだ大丈夫だと、光彩は自分に言い聞かせて校舎へ向かった。


 二年三組の教室は、文化祭の朝らしい浮き立った空気に包まれていた。黒板にはチョークでメニューが書かれ、机をつなげたカウンターの上には紙コップや焼き菓子が並んでいる。窓には星形に切った色紙が貼られ、入り口の横では未央たちがエプロンをつけて笑っていた。


「おはよう」


 光彩が声をかけると、未央は振り返った。


「おはよ。えっと……」


 その一瞬の間を、光彩は聞いてしまった。


 未央は、すぐに笑った。


「受付のシフト、最初の一時間だけお願いしていい? 人足りなくて」


「うん。大丈夫」


「助かる。あ、名札そこにあるから」


 机の上には、クラス全員分の名札が置かれていた。相原未央、村井先生。ほかの生徒たちの名前。けれど光彩の名札は、見つからなかった。


 昨日まではあったはずだ。文化祭の準備のとき、自分で名前を書いた。水瀬光彩。少し右上がりの字で、白いカードに書いた。未央が「光彩の字、読みやすくていいよね」と言ったことも覚えている。


 そのカードだけが、どこにもない。


「名札、足りないかも」


 光彩が言うと、未央は首を傾げた。


「そう? 人数分あると思うけど」


「私のが」


「え?」


 未央の目が、光彩の顔ではなく、肩のあたりで迷った。


 その視線だけで、光彩は続きを言えなくなった。未央は目の前にいる相手を見て、言葉も返している。それなのに、水瀬光彩という名前だけが、彼女の中でうまく結びついていない。名前を呼べないだけで、人の存在はこんなにも頼りなくなるのだと、光彩は初めて知った。


「いい。手書きで作る」


 光彩は予備のカードを一枚取り、油性ペンで名前を書いた。


 水瀬光彩。


 書いた直後は、はっきり残っていた。胸元に安全ピンで留める。けれど教室の窓に映った自分を見たとき、カードの文字はすでに少し滲んでいた。


 文化祭が始まった。


 廊下には来場者の声が満ちていく。紙皿を持った生徒、体育館のステージへ急ぐ実行委員、展示教室を探す保護者、写真を撮る卒業生。誰かが誰かを呼び、誰かが誰かを探し、校内放送が時間ごとにイベントを告げる。名前が飛び交う。クラス名が読み上げられる。パンフレットには、生徒たちが準備した企画が記録されている。


 この日ほど、人が「ここにいる」と示される日はない。


 その中で、霧島遠子の名前だけがどこにもなかった。


 光彩は受付の椅子に座り、来場者にパンフレットを渡しながら、何度も胸元の名札を確認した。水瀬光彩。まだ読める。少し薄いが、読める。そう確かめるたびに、息をする場所を一つだけ取り戻す気がした。


 午前十時を過ぎたころ、神谷律が教室の入り口に現れた。


 彼は制服のまま、文化祭用の飾りにもパンフレットにも目を向けず、まっすぐ光彩の方へ来た。左手はいつものように握られている。その手のひらには、今日も神谷澪の名前が書かれているはずだった。


「霧島先生が、放送室の鍵を盗んできた」


 律は低く言った。


 光彩は受付の席を立った。


「準備できた?」


「資料は、放送室に運んである。先生が、理事長室から持ち出した記録もある」


 光彩は頷いた。


 作戦と呼べるほど整ったものではなかった。霧島先生が旧校舎の資料から必要な部分を選び、律が校内放送の操作手順を調べ、光彩が遠子の声を聞く。できることは、それだけだった。


 成功する保証はない。遠子が戻るかどうかも、光彩が残れるかどうかも分からない。それでも、この日を逃せば次はない気がした。


 文化祭の空気の中で、光彩の存在は朝よりも薄くなっていた。未央は何度か光彩を見て、そのたびに話しかける直前で迷った。村井先生は受付表を確認しながら、光彩の名前が空欄になっていることに気づかない。母からは、まだ連絡がなかった。


 自分が誰かの中から抜け落ちていく音は、思っていたよりずっと静かだった。


「遠子は?」


 律が聞いた。


「教室にいると思う」


「呼べる?」


「分からない。でも、行く」


 二人は教室を出た。


 廊下の人混みを抜ける途中、光彩は何度もぶつかりそうになった。相手が避けない。悪意があるわけではない。ただ、光彩の姿を見落としている。肩が触れそうになっても、相手は少し驚くだけで、すぐに友人との会話へ戻っていく。


 世界から忘れられることは、叫び声を上げるほど劇的ではなかった。


 ただ、少しずつ道を譲られなくなる。

 少しずつ名前を呼ばれなくなる。

 少しずつ、人の視線が自分の上を通り過ぎていく。


 二年三組の教室の奥、窓際最後列。


 遠子の席だった場所は、文化祭の飾りつけの中でも、相変わらず予備席として扱われていた。荷物置きにされないよう、光彩が朝のうちに椅子を少し引いておいた。そこだけ、飾りの星も、色紙の鎖も、触れないように避けている。


 廊下からは、来場者の笑い声が流れ込んでくる。教室の前方では未央たちが忙しく注文を取っている。誰も、窓際の予備席を見ていない。光彩だけが、その席の前で呼吸を整えていた。


「遠子、聞こえる?」


 椅子が、かすかに鳴った。


「……光彩」


 声は、聞いた中で一番遠かった。


 光彩は胸の奥を掴まれたような気がした。遠子の声は細く、聞き逃せばそのまま消えてしまいそうだった。


「今日、やるよ」


「何を?」


「遠子の名前を、みんなに聞かせる」


 見えない少女が、息をのんだ。


「だめ。光彩が消えちゃう」


「もう消え始めてる」


「だから、やめて」


 光彩は、予備席に向かって首を横に振った。


「遠子を見つけたのは、私だよ。見つけたのに、何もしないまま終わるのは嫌なの」


「私は、戻りたいって言ったけど」


 遠子の声が震えた。


「光彩が消えるなら、戻りたくない」


 その言葉に、光彩はしばらく黙った。


 遠子は、光彩が思っていたよりずっと分かっていた。自分が戻ることが、光彩の消失につながるかもしれないことを。だから、どこかで言葉を選んでいたのだろう。助けてと言えない少女が、見つけて、とだけ書いた。その意味が、今になって胸に痛いほど届いた。


「私も、消えたくないよ」


 光彩は言った。


 声に出すと、怖さがようやく形になった。


「お母さんに忘れられるのも、未央に名前を呼ばれなくなるのも怖い。自分の部屋から自分のものがなくなるのも、写真から顔が消えるのも、全部怖い。遠子のためなら平気、なんて言えない」


 遠子は何も言わなかった。


「でも、遠子がここにいるって知ってるのに、知らないふりをして文化祭を終えるのは、もっと嫌だ」


 光彩は、胸元の名札に触れた。


 水瀬光彩。


 もう、半分ほど薄くなっている。


「私、たぶんずっと、誰かにちゃんと見つけてほしかったんだと思う。普通にして、空気を読んで、どこにも角が立たないようにして。そうしていれば、誰にも嫌われないから。でもそのかわり、本当の自分がどこにあるのか、たまに分からなくなってた」


 光彩は、遠子の席を見つめた。


「だから、遠子の『私を見つけて』が聞こえたのかもしれない」


 見えない席のあたりで、小さな泣き声がした。


「遠子。私が消えそうになったら、名前を呼んで」


「私の声、みんなには届かない」


「それでも、呼んで」


 遠子は黙っていた。


「……光彩」


「うん」


「絶対、見つける」


 その一言だけで、光彩は少しだけ笑えた。


 放送室は、三階の端にあった。


 普段は放送委員しか入らない部屋で、文化祭当日はステージ案内や迷子放送のために使われている。扉の前には「関係者以外立入禁止」の紙が貼られていた。霧島先生は、その前で待っていた。白衣ではなく、今日は目立たない紺色のカーディガンを羽織っている。それでも顔色の悪さは隠せていなかった。


「遠子は?」


 先生が聞く。


「来ています」


 光彩が答えると、霧島先生の目が揺れた。


 先生には、遠子の声は聞こえない。姿も見えない。それでも、光彩の隣に何かを感じ取るように、彼女はほんの少しだけ体を傾けた。


「遠子」


 霧島先生は静かに言った。


「お母さんは、ここにいる」


 返事は、先生には届かない。


 光彩には、遠子が小さく息を震わせる音が聞こえた。


 律が放送室の扉を開けた。


 室内には、古い機材と紙の匂いがこもっていた。ミキサー、マイク、校内放送用のスイッチ、文化祭の進行表。その横に、霧島先生が用意した資料が並んでいる。透明少女計画。処理済み対象者一覧。霧島遠子、完成処理第一成功例。神谷澪、初期実験対象。水瀬光彩、再処理対象。


 光彩は紙面に並んだ名前を見下ろし、喉の奥が乾いていくのを感じた。


「本当にやるのね」


 霧島先生が言った。


「やります」


「私が読むこともできる」


 光彩は、ゆっくり首を横に振った。


「遠子の声を聞けるのは、私だけです」


 霧島先生は目を伏せた。


 それは、誰よりも残酷な事実だった。母親でありながら、娘の声を世界へ届ける役にはなれない。遠子を見つけたのは光彩で、遠子の声を聞き取れるのも光彩だけだった。


 霧島先生は短く頷き、マイクの前を譲った。


 律が放送設備のスイッチを確認する。


「昼のステージ前だから、校内のスピーカーは全部生きてる。体育館にも流れる」


「止められるまでに、どれくらい話せる?」


「分からない。関係者が気づけば、すぐ来る」


「それでいい」


 光彩はマイクの前に立った。


 手は震えていた。これから自分の声が、全校生徒、教職員、保護者、来場者のいる校内へ流れる。信じてもらえるとは限らない。笑われるかもしれないし、途中で放送を切られるかもしれない。それでも、遠子の名前を一人でも多くの人に届かせるには、この場所から投げるしかなかった。


 胸元の名札を見る。


 水瀬光彩の文字は、もうほとんど読めなかった。


 律がスイッチに手を置いた。


「いい?」


 光彩は深く息を吸った。


 すぐ隣で、遠子の声がした。


「光彩」


「うん」


「ここにいるよ」


 光彩は目を閉じ、その声を確かめてから頷いた。


 チャイムが鳴った。


 文化祭のざわめきの上に、校内放送の開始音が重なる。廊下の声が少しずつ静まっていく気配が、放送室の壁越しに伝わってきた。


 光彩はマイクに向かって口を開いた。


「二年三組、水瀬光彩です」


 最初の一文で、喉が詰まりそうになった。


 自分の名前を、全校へ向けて言う。消えかけている名前を、できるだけはっきりと発音する。水瀬光彩。私はまだ、ここにいる。ここに存在している。


「この放送を聞いている人に、知ってほしいことがあります」


 放送室の外で、誰かが廊下を走る音がした。


 律が扉の前へ移動する。


「この学校には、霧島遠子という生徒がいました」


 マイクに向かってその名前を言った瞬間、空気が歪んだ気がした。


 放送室の蛍光灯が一度だけ瞬き、スピーカーから小さなノイズが走る。光彩は構わず続けた。


「霧島遠子。二年三組。窓際の一番後ろの席に座っていた女子生徒です。成績がよくて、友達が多くて、去年の文化祭ではこのクラスの喫茶店の準備にも参加していました。でも今、出席簿にも、学校新聞にも、写真にも、彼女の名前は残っていません」


 声が震えた。


 光彩は資料を一枚手に取った。


「彼女は転校したのではありません。亡くなったのでもありません。霧島遠子は、この学校で行われていた透明少女計画によって、記録から、記憶から、人間関係から消されました」


 放送室の扉が叩かれた。


「開けなさい!」


 村井先生の声がした。別の大人たちの足音も近づいてくる。


 律が扉を押さえる。


 霧島先生が机の上の資料を光彩の前へ並べた。


「この研究、透明少女計画は、人の姿を見えなくする実験ではありません。人間がこの世界にいた証拠を、一つずつ奪う実験です。名前を書いても消えます。声を録音しても無音になります。写真は白くなります。覚えていた人は、忘れたことにも気づかないまま忘れていきます」


 廊下の向こうが騒がしくなった。誰かがこちらへ向かってくる足音が混じる。


 光彩はもう止まれなかった。


「神谷澪さんという生徒も、消されました。名前の読めないほかの生徒たちもいます。これは怪談ではありません。噂でもありません。ここに資料があります。処理済み対象者一覧。対象者管理記録。霧島遠子、完全版適用対象、処理結果、完成処理第一成功例」


 第一成功例。


 その言葉を読むとき、光彩の声に怒りが滲んだ。


「人を消して、成功と呼んだ人たちがいます」


 マイクの向こうで、世界が静まり返っているように感じた。


 本当に静まったのか、光彩の耳がおかしくなっているのかは分からない。遠子の声だけが、すぐそばに聞こえた。


「光彩」


「遠子」


 思わず、マイクの前でその名前を呼んだ。


 放送室にいた霧島先生が息をのみ、律も振り返った。光彩には、遠子が隣にいるのが分かった。姿は見えない。それでも、そこにいる。


「遠子、声を出して」


「でも」


「私が聞く。私が届ける」


 遠子の息が震えた。


 次の瞬間、マイクがかすかに鳴った。


 それは、まだ音になりきらない声だった。風のようにも、ノイズのようにも聞こえる。泣き声の欠片に似たその震えを、光彩だけは遠子の声として受け取った。


「……私を」


 遠子が言った。


 光彩は、同じ言葉をマイクへ乗せた。


「私を」


「見つけて」


「見つけて」


 スピーカーが大きく軋んだ。


 遠子の声そのものは、おそらく誰にも届いていない。それでも、光彩の声に重なるように放送室の空気が震えた。マイクのランプが明滅し、机の上の資料に記された文字がかすかに浮き上がる。


 光彩は、資料に書かれた名前を読み上げ始めた。


「神谷澪」


 律が、扉の前で肩を震わせた。


「霧島遠子」


 霧島先生が両手で口元を押さえる。


「名前が欠けている生徒たちもいます。読めない名前もあります。でも、その子たちは、名前がなかったんじゃありません。名前を奪われたんです」


 扉の外で、鍵が壊されるような音がした。


 もう時間はなかった。


「お願いです」


 光彩はマイクへ身を乗り出した。


「覚えてください。霧島遠子という生徒がいたことを。神谷澪という生徒がいたことを。誰かが使っていた席を、最初から空席だったことにしないでください。写真の中の空白を、ただの撮影ミスにしないでください。名前がないことを、存在しなかった理由にしないでください」


 胸元の名札が、ぽろりと落ちた。


 床に落ちたカードには、もう何も書かれていなかった。


 光彩は、自分の手が透けているのを見た。


 指先の向こうに、マイクが透けて見える。心臓が大きく跳ねた。怖い。そう思った。死ぬのとは違う。けれど、誰にも泣いてもらえない場所へ落ちていくような怖さだった。


 遠子の声がした。


「光彩!」


 その声だけが、はっきりと聞こえた。


 光彩は震える息を整え、かすかに笑った。


「私は、水瀬光彩です」


 言葉が途中でほどけてしまわないように、一音ずつ確かめながら発音する。


「霧島遠子を見つけました」


 そのとき、放送室の扉が開いた。


 大人たちがなだれ込んでくる。先頭にいたのは理事長だった。式典で見る穏やかな顔は消え、血の気の引いた表情で光彩を見ている。その後ろには教師たちが続き、村井先生が何かを叫んでいた。未央も廊下の向こうから顔を覗かせている。誰かが放送を止めようと機材へ手を伸ばしたが、その気配はもう光彩の耳の遠くで揺れているだけだった。


 光彩は、マイクを離さなかった。


「そして今度は、誰かに、私を見つけてほしい」


 その瞬間、放送室の窓ガラスが白く曇った。


 机の上に置かれていた資料が舞い上がり、スピーカーから無数のざわめきが返ってくる。体育館、廊下、教室、校庭。学校中に散らばっていた声が、ひとつの場所へ引き寄せられるように揺れた。一斉に何かを思い出そうとしているようだった。


 最初に誰がその名前を口にしたのか、光彩には分からない。


「霧島……遠子?」


 放送室の外で、戸惑うような声が上がった。すぐに別の声が重なり、廊下の向こうから、体育館のざわめきから、教室に残っていた生徒たちの声から、少しずつ同じ欠落へ手を伸ばす気配が広がっていく。


「……いたよね? 窓際の席」


「文化祭、二年三組の喫茶店で」


「去年、写真の右端に」


「なんで、忘れてたんだ?」


 世界が、遠子のいなかった場所に気づき始めていた。


 霧島先生がその場に崩れ落ちる。律は何も言わず、自分の手のひらを見つめていた。そこに書かれた神谷澪の名前は、さっきよりも濃く残っているように見えた。まだ、消えないと言い切れるほど確かなものではない。それでも、失われかけていたものが、誰かの記憶の底からもう一度押し上げられている。


 そのとき、光彩は遠子の気配が変わるのを感じた。


 予備席ではない。放送室のすぐ隣、光彩の横に、薄い輪郭が浮かび上がっていた。最初は光の滲みにしか見えなかったものが、少しずつ人の形を取り戻していく。制服の袖、細い指、肩まで伸びた髪、泣き腫らした目。曖昧だった線が震えながら結び直され、そこに一人の少女が立っていた。


 霧島遠子だった。


 完全に戻ったわけではない。輪郭はまだ薄く、目を離せばまた空気に溶けてしまいそうだった。それでも、彼女は確かにそこにいた。霧島先生が顔を上げる。見えているのか、まだ気配だけを追っているのか、光彩には分からない。ただ、先生は迷わず娘の方へ手を伸ばした。


「遠子!」


 今度は、遠子の声が返った。


「お母さん!」


 その声が霧島先生に届いたのかどうか、光彩には分からなかった。けれど先生は、娘の名前を呼びながら泣いていた。何も聞こえず、何も見えなかったとしても、そこにいると信じるには十分だったのだと思う。


 光彩は、その光景を見ていた。


 よかった、と心のどこかで思った瞬間、膝から力が抜けた。


 倒れる、と思ったのに、床の感触は来なかった。自分の体が急に軽くなりすぎて、落ちることさえできない。放送室のざわめきが遠ざかり、人々の声が水の向こうで揺れているように聞こえる。霧島先生の泣き声も、律が何かを叫ぶ声も、遠子が自分の名前を呼ぶ声も、白く滲む光の中へ少しずつほどけていった。


「光彩!」


 遠子が叫んだ。


 光彩は答えようとしたが、自分の声が本当に出たのかどうか分からなかった。


 私は水瀬光彩。


 心の中で自分の名前を呼ぶ。


 私は水瀬光彩。  


 もう一度、同じ言葉をなぞった。けれど、繰り返すたびに感覚は薄れていき、自分のものだったはずの名前の響きが、少しずつ遠い場所へ離れていく。


 誰かが光彩を呼んでいた。


 遠子、律、霧島先生、未央。いくつもの声が重なり、放送室の中へ押し寄せてくる。それでもまだ足りなかった。声は確かに届いているのに、光彩をこの世界へ引き戻すには、どれもわずかに遠い。


 そのとき、床に落ちたスマホが震えた。


 画面が光る。


 母からの着信だった。


 表示名は、まだ残っている。


 お母さん。


 霧島先生がスマホを拾い上げ、震える手で通話を押した。スピーカーに切り替えられた音声から、母の声が流れた。


『……光彩?』


 その一言で、白く遠ざかっていた世界が、わずかに戻った。


『ごめんね。この間、変なこと聞いた。あなたの好きなもの、オムライスに決まってるのに。文化祭、終わったら迎えに行くから。光彩、聞こえてる?』


 母が、名前を呼んでいる。


 水瀬光彩。


 光彩。


 その声に重なるように、遠子が泣きながら叫んだ。


「光彩、そこにいるんでしょう!」


 律が続いた。


「水瀬光彩!」


 未央の声も聞こえた。


「光彩! ねえ、光彩だよね!」


 名前が、少しずつ増えていく。


 ひとつでは足りない輪郭を、いくつもの声が支えていく。呼ばれるたび、光彩の手に重さが戻る。足が床を思い出す。胸の奥で遠ざかっていた鼓動が、もう一度自分のものとして響き始める。


 光彩は、ゆっくり息を吸った。


 空気が冷たかった。


 放送室の床に膝をついていた。指先はまだ少し透けている。けれど、そこにある。自分の体が、自分の重さを取り戻している。


 遠子が、光彩の手を握った。


 今度は、触れた。


 薄く、頼りない手だった。それでも、確かに温度があった。


「見つけた」


 遠子は泣きながら言った。


「光彩、見つけた」


 光彩は、その手を握り返した。


 文化祭は、その日、途中で中止になった。


 霧島遠子の姿は、まだ完全に戻ったわけではない。見る者によって輪郭は揺れ、声も、はっきり届く人と、かすかな気配としてしか受け取れない人がいた。それでも出席簿には、消えていたはずの空欄が戻り始めている。去年の学校新聞の写真には、右端に立つ少女の姿がうっすらと浮かび上がり、神谷澪の記録にも、白く抜けていた欄へ細い線が戻っていた。


 すべてが元通りになったわけではなかった。消された時間は簡単には埋まらない。忘れた人たちが、すぐにすべてを思い出すわけでもない。それでも、もう誰も、彼女たちがいなかったことにはできなかった。


 夕方、文化祭の飾りがまだ残る二年三組の教室で、光彩は遠子と並んで座っていた。


 窓際の一番後ろ。誰の席にもならなかった予備席。


 そこに、遠子が座っている。制服の袖も、髪の影も、机の上に置かれた細い指も見える。霧島先生は少し離れた場所に立ち、まばたきさえ惜しむように娘を見つめていた。近づきたいのに、触れた瞬間にまた壊れてしまうのではないかと恐れているような距離だった。


 律は黒板の前に立ち、手のひらに書いた名前を見ている。


「澪さんのことも、少しずつ戻るといいね」


 光彩が言うと、律は手のひらを見下ろした。何度も書き直してきた姉の名前は、まだ完全に戻ったわけではない。それでも、さっきまでより少しだけ線が濃く見えた。


「戻す」


 律は短く言った。


「姉だけじゃない。ほかの名前も、全部」


 光彩は頷いた。


「まだ、怖い?」


 遠子が、光彩の手をそっと握った。


「怖いよ」


 光彩は正直に答えた。


「また消えたらどうしようって思ってる」


「そのときはまた名前を呼ぶ」


「遠子が?」


「うん。何度でも呼ぶ。光彩が私を見つけてくれたから、今度は私が見つける」


 光彩は、遠子の手を見た。


 触れている。


 それだけのことが、信じられないくらい大きな奇跡のように思えた。


「遠子」


「なに?」


「おかえり」


 遠子は泣きそうに笑った。


「ただいま」


 校舎の外では、文化祭の片づけが途切れ途切れに続いていた。


 予定通りの片づけではなかった。体育館の前には教師と保護者が集まり、校門の近くには警察車両が停まっている。理事長は先に事情を聞かれるため、数人の教師に付き添われて校舎を出ていった。放送室に残された黒いファイルや資料は、保護者代表と警察官、数人の教師の立ち会いのもとで保全され、霧島先生も、律も、光彩も、あとで順番に話を聞かれることになっていた。


 それでも、廊下には剥がしかけの色紙が残り、黒板には消されかけたメニューの文字が白く滲んでいた。途中で止まった文化祭の跡だけが、学校のあちこちに取り残されている。


 光彩は胸元の名札を見た。


 白紙だったカードに、薄く文字が戻っている。


 まだ頼りない。少し目を離せば、また滲んでしまいそうだった。それでも、そこには確かに自分の名前があった。


 遠子が、その文字を指でなぞる。


「水瀬光彩」


 名前を呼ばれるたび、胸の奥に小さな光がともる。


 人は、記録だけで生きているわけではない。それでも、記録が不要になるわけではない。名前を呼ぶ声、写真に残る姿、誰かが書き留めた文字、その人を忘れまいとする痛み。その一つ一つが、今ここにいる自分を彩っている。


 私たちは今日も、互いの名前を呼び合って、生きている。

FILE 07 最終観測記録


 文化祭当日、放送設備を介した大規模認識干渉が発生した。


 水瀬光彩は、旧校舎資料室および理事長室より持ち出された記録の一部を、全校生徒、教職員、来校者へ向けて公開した。同時に、霧島遠子、神谷澪、および処理済み対象者の氏名を複数回発声。通常であれば、対象者名を含む音声は自動補正により欠落するはずだったが、同時刻、複数の聞き手が共通する欠落感を認識したことで、補正処理に著しい遅延が生じた。


 特筆すべきは、霧島遠子本人の音声が、放送記録上には明瞭に残っていない点である。


 録音データに確認できるのは、水瀬光彩の発話と、断続的なノイズのみである。しかし、放送を聞いた複数名が、同時刻に「誰かが助けを求めていた気がする」「見つけてほしいという声を聞いた」と証言している。これらの証言は、処理済み対象者本人の音声が直接記録されなくとも、接触者を媒介として認識干渉が成立する可能性を示している。


 霧島遠子の存在情報は、部分的に復元された。


 出席簿、校内写真、文化祭記録、複数名の記憶において、霧島遠子の名前および輪郭の再定着を確認。復元状態は不安定であり、観測者によって視認性や音声認識に差が見られるものの、完全消失状態からの離脱は成立したものと判断される。


 また、初期実験対象である神谷澪についても、氏名記録の一部に再浮上が確認された。現時点で姿および音声の復元には至っていないが、神谷律の記憶内における氏名保持率は、事件前と比較して明らかに上昇している。その他、氏名欠落状態にあった複数の処理済み対象者についても、記録欄に微弱な反応が確認されている。


 一方、水瀬光彩に関する存在情報は、放送終了直後に急激な不安定化を示した。


 写真内の顔部分に白化。生徒名簿上の表示揺れ。個人所有物からの氏名欠落。家族記憶の一時的混濁。音声記録上の欠落。以上の症状は、霧島遠子の復元に必要な情報量の不足分を、水瀬光彩の存在情報が一時的に補填したためと推測される。


 ただし、水瀬光彩の完全消失は確認されていない。


 放送終了後、霧島遠子、神谷律、霧島由佳里、相原未央、および水瀬光彩の母親に該当する人物が、短時間内に複数回、水瀬光彩の氏名を発声した。これにより、水瀬光彩の存在情報は完全な切離しを免れ、不安定ながらも社会的認識内に再定着したものと考えられる。


 研究上、この現象をどのように分類すべきかは不明である。


 氏名の反復呼称が、存在情報の定着に寄与した可能性は高い。しかし、それだけでは説明できない部分が残る。単なる音声刺激ではなく、呼称者が対象者を明確に想起し、失うことを拒んだ場合にのみ、補正処理への干渉が発生したと考えられる。


 数値化は困難である。


 再現性も保証されない。


 それでも、文化祭当日の放送記録には、以下の音声が残されていた。


 ――光彩、そこにいるんでしょう。


 直後、水瀬光彩と思われる微弱な応答を確認。


 内容の判別は困難であったが、同時刻、霧島遠子は水瀬光彩の手を握っていたと証言している。接触の事実は、霧島由佳里および神谷律の証言とも一致する。


 以後、霧島遠子は水瀬光彩の氏名を日常的に呼称している。


 水瀬光彩もまた、霧島遠子の氏名を呼び返している。


 この相互呼称が、両名の存在情報の安定化に寄与している可能性がある。現時点で両名の状態は完全な正常値には戻っていないものの、観測範囲内において、存在情報の継続的な維持が確認されている。


 なお、事件後に回収された文化祭用名札には、一度白紙化したのち、薄く氏名が再浮上した形跡があった。


 記載名は、水瀬光彩。


 以上をもって、透明少女計画は、少なくとも本観測例において、完全な成功には至らなかったものと記録する。


 本資料を最終観測記録とし、透明少女計画に関連する全実験、全観測、および全処理の即時凍結を申請する。

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