第21話:名前を付けても、台詞にはならない
アフタートーク収録の翌日、《コエバコ》運営から「公開前確認音源のご確認」というメールが届いた。律は、その文字をしばらく見つめていた。音源。昨日の声は、もう音源という物になっている。
録音は流さなかった。名前のないファイルは、まだスマホの中に沈殿している。けれど、あのアフタートークで出した声は、運営の手によって編集され、確認用のファイルとして戻ってきていた。律は添付ファイルの名前をなぞる。
>aftertalk_kuuran_miori_nanase_check01.mp3
そこに律の名前はなかった。「空欄」という表示名だけが、記号的な英字に置き換えられている。
「流さないまま、ここに座りました」――昨日、確かにそう言った声は、もう再生ボタンひとつで誰にでも扱える形になっていた。律は、すぐにはそのボタンを押せなかった。
* * *
ミオリからメッセージが届いた。
『確認音源、来ました?』
『来ました』
『聞きました?』
『まだです』
既読がついたまま、わずかな沈黙が流れる。
『空欄さんの声、録音になりましたね』
責めているのではない。ただ、動かしようのない事実をそこに置いただけの言葉。
『はい』
『嫌ですか』
『嫌です』
『でも、昨日の声はもう戻せませんよね』
律は返信欄に指を置いた。戻せない。昨日、自分でも痛感したことだった。
『はい』
ミオリの返信は短かった。
『じゃあ、聞いてください。私が決めることじゃないですけど。……でも、空欄さんが出した声なので』
* * *
ナナセからも、少し遅れて連絡が来た。
『確認音源、聞きました』
『どうでしたか』
『「聞けて」しまいました』
ナナセらしい返答だった。
『困りましたか』
『少し。……でも、あの日の録音とは違うと思います』
『どう違いますか』
既読。ナナセの返信は、いつもより慎重だった。
『確認音源の声は、場に出たあとで残った声です。あの日の録音は、まだ場に出ていない声です』
場に出たあとで残った声。まだ場に出ていない声。どちらもデジタルの記録だが、本質は別物だった。
『聞けてしまったんですか』
『はい。でも、昨日の空欄さんの声は、聞けてしまっても、少し困りました』
律は、小さく息を吐き出した。「困る」。その一言が、今の自分をわずかに支えていた。
* * *
放課後の誰もいない場所で、律は確認音源を再生した。
最初に聞こえたのは、司会の声。明るく調律され、聞き手を導くための道を作る声。次に、ミオリの声。
「嫌でした」
そこで律の指が止まった。録音の中でもその声は強張っていたが、決して潰れてはいなかった。
さらに進めると、ナナセの声が届く。
「読めてしまった、という感覚もありました」
整っているが、整いきってはいない声。律は自分の声が流れ出す直前で止めようとして、果たせなかった。
「空欄です。よろしくお願いします」
紛れもない、自分の声。けれどそれは編集を施され、ノイズを削ぎ落とされた、パッケージとしての声だった。それでも、他人のものにはなりきっていなかった。
「僕は、書いたところより、書かなかったところを聴いていました」
記憶よりもずっと硬い響き。それでも、逃げてはいなかった。録音アプリの中で眠る名前のない声とは違う。あれは途中で断絶した声。これは、止まりかけても外側の世界へ踏み出した声。
「流さないまま、ここに座りました。……それだけです」
音源はそこで終わった。再生時間が静止した画面を見つめ、律はしばらく動けなかった。巻き戻せる。何度でも聴ける。けれど、これはもう、二度と昨日の場所には戻せない声だった。
* * *
律は運営への返信欄を開いた。
「確認しました。問題ありません」
そう打ち込んで、指が止まる。
「問題ありません」――あまりに簡素で、実態を伴わない記号だと思った。音量や編集の体裁に不備はない。けれど、問題がないわけではないのだ。
律は一度すべてを消去し、打ち直した。
>確認しました。
>音源としての修正希望はありません。
>この内容で公開いただいて大丈夫です。
送信ボタンの上で、指が躊躇う。「大丈夫」――確信はなかったが、昨日の声をもう引き戻さないと決めることはできる。律はボタンを押し込んだ。
* * *
ミオリへメッセージを送る。
『確認しました』
『どうでしたか』
『嫌でした』
『でも?』
『消したくはありませんでした』
またミオリの言葉をなぞっている。案の定、彼女からの返信は早かった。
『また私の言葉に似ていますね。……でも、今度は少し分かります。嫌でも、消したくない声ってありますよね』
『あります』
『じゃあ、公開してください。空欄さんが座った声なので。……座ったなら、立ち上がらないでください』
* * *
ナナセにも連絡を入れた。
『公開可で返しました』
『困りました。空欄さんの声が、聞ける形で公開されるからです。違うものだと分かっているのに、聞ける形があれば、同じ声として「聞けて」しまうかもしれないから』
律は、光る画面を見つめる。
『では、どうしますか』
打ちかけて、すぐに消した。律は別の文を送る。
『困ったまま、聞いてください』
『分かりました。困ったまま、聞きます』
* * *
夜、律は録音アプリを開いた。名前のないファイル。
外へ出た声には、「確認音源」という名前がある。けれど、この録音にはまだ何もない。律は、ファイル名の編集欄を開いた。
録音の中に残っている自分の声を反芻する。「切らない理由を、まだ――」。
律は、ファイル名を打ち込んだ。
>切らない理由を、まだ
終わっていないものに、終わった印を刻みたくなかった。日付だけだったファイルに名前が付く。それは台詞にはならないが、ただの無名ではなくなる。律は今日、それを選んだ。
* * *
ミオリへ送る。
『録音に名前を付けました』
『残すための名前ですか』
『たぶん、そうです』
『嫌です。……でも、無名のままよりは、少しだけ嫌じゃないです。名前は何ですか』
『切らない理由を、まだ』
既読がついたまま、しばらく沈黙が続いた。
『そこで止まってるんですね。……なら、まだ嫌です。でも、消したくはありません』
* * *
ナナセにも報告を送った。
『録音に名前を付けました』
『聞ける名前ですか』
『聞けない名前だと思います』
『そうですか。それは、困りますね。名前があるのに、聞けないので。……でも、「未公開音声」という名前よりはいいと思います。名前は何ですか』
『切らない理由を、まだ』
既読。長い間。
『最後まで言わない名前なんですね。……では、まだ聞きません。でも、その名前があることは覚えておきます』
* * *
深夜、律はメモアプリを開いた。
『まだ、聞き方を知らない声』
本文欄には、三つの文がある。
> ここから先は、声の速さで聞いてください。
> まだ、台詞にしない。
> 録音としては、まだ渡さない。
律は、その下に一行を足した。
>名前は付けた。
長く書くと意味を足してしまう。それだけでよかった。
律は録音ファイルを見た。
> 切らない理由を、まだ
まだ、という言葉で止まっている名前。律はスマホを伏せた。
明日、アフタートークが公開される。昨日の声は外へ出る。
けれど、その録音はまだ流さない。名前が付いたまま、律の手元に残っている。




